第167話

 「ま、待ってくださいぃ!」

 

 気付けば僕は走り出していました。

 あんな怖い人に追いついたとしてどうするのか? そもそもどっちに行ったのかちゃんと見ていなかったのにどうするつもりなのか? 何より、あの包みの中身は薄らと思い当たるのに学生に何ができるつもりなのか?

 

 ぐるぐると考えだけが巡りますが、真っ当なことなんて何も浮かんではきません。

 なによりも、試作品とはいえ僕の大事な魔法道具が、流麗といえるものの片りんくらいにはたどり着いたと始めて思えた物が、それが持ち去られたという事実が重くのしかかります。

 

 こっちの方に向かったかな……? という半ば当てずっぽうで走っていると、人気のなくなってきたあたりで、ふと道に立っている人が目につきます。

 これだけ人気のない場所なら、もし見ていたなら覚えているはず。聞いてみて知らないといわれたら、引き返しましょう。

 

 「あの……」

 

 そう考えつつ声を掛けた相手が振り向くと、良い匂いがふわりと漂いました。……我ながら気持ちの悪い感想だとは思いますが、しかし事実だから仕方がないのです。肩までの黒髪をなびかせながらこちらへ向いたその顔は薄い笑みを湛えた穏やかなものですが、左の目尻にあるほくろがどこか色気も感じさせます。

 

 「私ですか?」

 「は、はい! あの、ここを……その、これと同じような袋を持った人が通りませんでしたか? ちょっと怖い感じの人なんですけれど……」

 「……ふぅん」

 

 用件を伝えると、その人は何ともいえない表情で僕が手にした革袋を眺めています。それから僕の体……たぶん制服?を見た後で視線が僕の顔へと戻りました。

 

 「見ましたけれど……、何か御用ですか?」

 

 あ……しまった。やってしまったかもしれません。綺麗な女の人だから悪い人な訳がない。そんな思い込みで迂闊なことをしてしまったようです。この聞き方……、この人はさっきの怖い人の仲間なのではないでしょうか……?

 そう考えると、途端に目の前の薄い笑みが何やら恐ろしい得体のしれないものに見えてきます。

 

 「ご、ごめんなさいっ!」

 「あら、逃げないでください?」

 「ひぃ!」

 

 頭を下げて戻ろうとすると、いつの間にか僕の右手首が掴まれていました。僕自身は男にしてはひ弱な方ではありますが、この女の人も得体のしれない雰囲気があるとはいっても華奢に見えます。

 だから僕を掴んできた細くて白い左手を無視するように、振り返って走り出そうと……しま……した、が。

 

 「あれ?」

 

 うまくいきませんでした。掴まれた腕を振り払うことも、後ろに振り返ることも、そしてもちろん走り出すこともどれもできません。

 ただ右手を掴まれているだけなのに、少しでも動こうとすると絶妙な力を加えられてバランスを保てず、結果として何の動きもとれなくなってしまっています。

 

 「……ぁ」

 「ふふ」

 

 絶望的な気分で目線を上げると、女の人は変わらず薄い笑みを浮かべていました。

 

 「それで……そういう袋を持っている人に、何の用があったのですか?」

 

 そして再度の質問。逃げようとすることもできない以上は、とりあえず素直に答えるほかないようです。

 

 「こ――」

 「ルアナ様、こちらはご主人様が万事順調に事を進めております」

 「あっ!……という間だったの」

 

 覚悟を固めた僕が口を開こうとした瞬間、いつからそこにいたのか、メイドのような服装の二人の女の人が新たに現れて声を掛けてきました。ルアナ……というのがこの怖い笑顔の人の名前でしょうか?

 

 メイドのような・・・服装、なんて表現しましたが、それはこの二人がただのメイド……使用人には見えなかったからです。追い詰められて生存本能が刺激されたのか、今の僕にはわかるのです。この二人――三つ編みにした茶髪が地味な印象だけど整った容姿で鋭い雰囲気もある人と、同じく茶髪だけど短く整えていて攻撃的な目が印象的な背の低い人――は、僕の腕を掴むこの人と同じくらいに“怖い”気がするのです。

 

 「ライラさん、あなたは相談役の片腕なのですから、私のことを“様”などと呼ばないでください。うちの親父にも叱られてしまいますから」

 「そういうことでしたら、ルアナさんと呼ばせていただきます」

 「ライラちゃんがそうするなら、サイラもルアナさんて呼ぶの!」

 

 とりあえず、このどこか怖い人達がルアナ、ライラ、サイラという名前であることはわかりました。

 ……いえ、わかったからといってどうしましょう。僕は腕を掴まれて全く身動きがとれないというのに、僕を放って話が始まってしまいました……。

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