第106話

 私…………、私はユーカ。愚かで惨めな、ただの弱者。

 

 せめて学生として、この未熟さをなんとかする努力くらいはしなきゃいけないのに、帰って勉強する気にもなれない。だって家に帰ればきっと母さんと顔を合わせることにもなるし……。

 

 いっそ私も今からでも寮に入って…………って、また逃げの思考をしてる。

 

 そういえば以前に母さんから聞いた事がある。魔獣と戦って負けるのは死ぬことだけど、人間と戦って負けても死ぬとは限らない。その場合怖いのは怪我でも物を奪われることでもなくて、負け癖がつくことらしい。

 私もしかして……そうなりそうになってるのかな……?

 

 そんなことを考えながら街をふらふらとしていると、またどこかの路地に入り込もうとしていた。

 あの赤い髪の大きな女の人とのことがあったのもこんな風な場所だったのに、無意識にまたこんなところに近づくなんて……。

 

 とはいえ、このヴァイスは学園都市という性質もあって、フルト王国の中でも治安がいい。ちょっと人気がないだけの細い道に入り込んだからって、そうそう問題に出会うってことはない。

 

 「どけっ! どけぇっ!」

 「はっ!?」

 

 そんなことってあるの!?

 治安のいいはずのこの街で、同じ日にこんな似たようなことに出くわすなんて……。

 違うのは向こうから必死に走ってくるのが、今度は男の人だってことくらい。あとあの赤髪の女の人は顔に痣だったけど、この猫背の男の人は顔とか腕とかあちらこちらに切り傷を負っている様子だ。

 大勢の魔法使いから、一斉に風の魔法で攻撃された……みたいな感じ。そんな状況なんて……?

 だけどその男の人はくすんだ色のぼさぼさの長い髪は不潔な印象なのに、今は切り傷まみれの服の上に質の良さそうな装備品を身につけている。あちらこちらを転々とするような盗賊とかがこういう特徴に当てはまる。そう考えると、そんな魔法を受けるような状況も裏社会の抗争?ってやつだと、あり得るのかもしれない。

 そう、多分またこの人も“悪い人”……盗賊かなにかだ。

 

 だったら、私は……私が正義なら……私なら……すること、は……。

 

 「はぁっ、はぁっ、……それでいい、大人しくしてりゃなにもしない」

 「…………」

 

 黙って脇に寄ると、その人は余裕のない表情の口端だけを歪めた。

 

 …………。

 

 ………………仕方ない。

 

 ……………………だって、仕方ないよ。

 

 私は……弱いから。だからまずは自分の身を守ることを優先しなきゃいけない。弱いと……気持ちだけだと……何もできないから……。

 

 「ねぇ~、こんなとこに連れ込んで何する気なのよ?」

 「へへっ、何すると思う?」

 

 っ!

 

 後ろから、つまり悪い人が向かってきているのとは逆方向から、声がした。男女の……呑気な、きっとこの先に何があるかなんてこれっぽっちも気付いていないような声。

 

 「だめっ! 引き返して!」

 

 必死で注意する。だけど、私の声にはただうっとうしそうな表情が返ってきた。

 

 「何かいるんですけど~?」

 「あん? 向こうからもむさいおっさんが……、あ、はぁん? なるほどね」

 

 背筋に冷たいものが触れるような不快な勘ぐりをされたけど、相手にするような暇もない。

 

 「いいから、引き返すのっ!」

 「へぇ~学生さんでもそういうことすんだ」

 「お前らこそどっかいけよ、おぉん!」

 

 だめだ、会話にすらならない。

 

 「ちっ、仕方ねぇ。目立ちたくはなかったが……」

 

 徐々に近づく猫背の盗賊が呟くのが耳に届いた。その右手にはナイフだけど、左手には何か見たことのないものが握られている。

 

 きっとあれは怖ろしい物だ。私には誰かを守る強さなんてない。そもそもこの二人組を守るのは正義なの?正義ってなに?正義があるならむしろ弱い私を守ってよ。無法の気配がする男が近づいてくる。私だけならまだ逃げられる。巻き込まれて死にたくない。子供に強さを求めないでよ。こんな人たちなら死んでもいい。私は将来強い正義になるんだから生き残るべき。それが広い視野。つまり世の中のため。私は生きていい。私は逃げていい。だって死にたくない。痛いのもいや。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!

 

 「ねぇ、あのおっさんナイフ持ってる!」

 「本当だ、うわ誰か助けてぇ!」

 

 男女が今頃気付いて情けなくうろたえ、助けを求めて叫んだ。助けを……求めて……。

 

 「っ!」

 「なるほど……ヴァイシャル学園は入れるだけでも優秀ってことだったな……」

 

 体は震えて言う事をきかない。手先も冷たくて自分のものじゃないみたい。だけど血が出るほどに唇を噛んで、それでも私は二人組の前に立って、猫背の盗賊がナイフを持つ右腕の手首を掴んで止めていた。

 

 母さんは、私が勝手に幻想していた正義じゃなかった。だけど母さんは言ってた、私の正義は悪い価値観じゃないって。

 自分より弱い人たちを助けるのは義務だって……言ってた!

 

 「震えてるぜぇ……お嬢ちゃん」

 「っ……」

 

 一旦距離をとって挑発してくるけど、唇の痛みがないと逃げ出してしまいそうだから、口を開いて言い返すこともできない。

 だけど、この盗賊を倒してしまう必要はない。後ろの二人組が逃げる時間だけ稼げれば、後は逃げるだけならきっとなんとかなる。

 だって、この猫背の盗賊は元々何かから逃げている様子だった。それも必死で。私が立ちはだかるのをやめれば、それでまた逃げていくはずだ。

 

 「……げて。逃げて……お願いっ」

 

 少しだけ口を開いて何とか言葉を紡ぎ出した。震えた声は小さかったけど、後ろの二人組には届いたはず。

 

 「やばいっ、襲われる! あんた何とかしてよ!」

 「うおぉ!」

 

 後ろで女の人の裏返った声に、どんっという音、それから男の人の驚いた声が続いた。

 

 「俺だって死にたくねぇぇっ! お前が死ねよ、クソ女!」

 

 さらに続いた男の人の声はすぐ近くで、次のどんって音は私の背中に衝撃をともなって聞こえた。

 

 「え……?」

 

 あまりの出来事に動揺したのか、見えるものがゆっくりと感じられる。視界が傾きながら徐々に盗賊へと近づいていく。

 それには向こうも驚いたのか、目を大きく開きながら、左手に持っていた得体の知れない小箱をこっちに突きつけている。

 

 「来るな、どけぇ!」

 

 その小箱がきらりと光り、盗賊が怒鳴ったところで体感する時間が元に戻り、後は一瞬の出来事だった。

 

 「うっ!」

 

 緑の閃光が走ったように感じた瞬間には何かに突き飛ばされて、私の体はくるりと反転させられた。

 転ばなかったのは全くの偶然だったけど、それでちょうどこれまでかばっていた二人組の姿が視界に入る。

 

 「……」

 「……」

 

 二人そろって、どしゃりと崩れ落ちるその姿が。声もなかったのは当然。首から上が先に落ちているんだから、声を出すための口もない。

 

 「あれ……え……?」

 

 私は吹き散らされた血で汚れるのも気にせず、膝をついて落ちていたあるものに触れる。あんな二人組に関係するものではない、とても見慣れたものがそこに落ちていて不思議に思ったから。

 

 肩のところが裂けた制服も、傷跡の多い手の甲も、剣ダコがある手の平も、良く知っている。

 

 あれぇ……どうしてだろう…………。なんで……私の右腕・・・・が?

 

 どうして……?

 

 すごく……。

 

 ………………痛い。

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