第2話 石のもたらしたもの

 ――ようやく、わかった。


 目を覚ました玉蘭は、頭の中でそう呟いた。

 いや、今となっては自分を玉蘭と呼ぶべきか、翡翠と呼ぶべきか。玉蘭はまだ混乱していた。

 翡翠。それは宝石の名前であり、そしてかつて人に名付けられた名前でもあった。

 翡翠は玉蘭に名付けられた名前だった。いや、正確には過去の玉蘭に名付けられた名前だ。

 この関係に名前をつけるなら、生まれ変わり、すなわち前世だろうか。

 前世の記憶があるだの、前世からの因縁だの、よく聞く話ではあったが、自分自身にそんなものがあるとは今日まで思わなかった。

 気を失っている間に、頭の中でその記憶が整頓されていたらしい。今の玉蘭には今まで以上にはっきりと『翡翠』という人間の人生がわかってきた。

 彼女は日本という島国に生まれ、宝石好きの祖母に薫陶を受けて育った。特に祖母から譲り受けた翡翠――石の方だ――を彼女は愛した。

 彼女の人生には玉蘭がよく知る珊瑚やネフライトも登場した。同じ部分もある、ということなのだろう。

 しかし、玉蘭から見ると不可解な現象もまた彼女の人生にはあった。

 端的に言うと、技術が遙かに『翡翠』側の方が進んでいた。

 たとえば明かり。こちらは日光の他には火を使うが、あちらはよくわからないが、蛍光灯や豆電球という名前の光る何かを家の中に置いていた。しかもそれは火と違って、さほど熱くなく、危険もほとんどなかった。

 ちょっと思い出すと、それだけで頭がクラクラするほどに、今まで玉蘭が知らなかったものが『翡翠』の人生にはあった。

 あまりにも違う世界だ。生まれ変わりというものは過去からするものだと思っていたが、これほどの進歩を遂げているとなると、『翡翠』がかつて生きていたのは未来なのだろうか。あるいはこの広い世界のどこかにあれほどの技術を持つ場所があるのだろうか。この異国ともっとも近い街にすら知られていないような場所が。

 わからない。何しろ『翡翠』の方もこちらのことを知らなかった。珠国なんて国は『翡翠』の記憶にはない。『翡翠』の時代には世界各国の国の名前がほとんど判明していて、『翡翠』が試験で暗記に苦しんでいる記憶もあった。

 ――女でも科挙を受ける機会があるのかしら、あちらは。

 ふとそんなことを考える。

 とにかく『翡翠』の生きた時代が仮に未来なら、珠国という国は名も残さずいつか途絶えることになってしまう。それは一国民としても、いささか切ないことだった。

 ただ、『翡翠』の記憶の中には、珠国の文化と一致する物もいくつかあった。

 たとえば絹の道シルクロード。珠国と西方の異国との交易では、西方の異国は主に絹を求めて、珠国へやってくる。その代わり西方の異国から新しい品々を珠国は手に入れる。

 そういう仕組みが『翡翠』の記憶にもあり、彼女が愛した宝玉の翡翠の歴史にも絹の道は絡んでくる。

 しかし、珠国の名前がそこに登場しない。『翡翠』が未来の人物だとしたら、そこがいささか不可解になる。

 珠国は三百年の歴史を誇る。大陸の東にある宝玉を愛する国として西方の異国にも名前は轟いている。たとえどれほど未来でも、宝石好きの『翡翠』が珠国のことを知らないなんてことが起こりうるのだろうか。

 決して完全に異なるわけではない。しかし、どこか似通っている。それが玉蘭と『翡翠』の世界だった。

「……うーん」

 考えていると頭がまた痛くなってきた。

「シャオチェー!」

 玉蘭のうめき声を聞いて、寝台の横にいた明明が声を上げた。

「明明……」

 いたことにも気付かなかった。

 明明は目に涙をたたえて、玉蘭を覗き込んでいた。

「ああ、よかった……。お医者様は命に別状はないとおっしゃっていたけれど、ちっとも目を覚まさないから本当に心配したんですよ」

「私気絶してからどのくらい経った……?」

「半日ほどです。もうお夕飯の時間です。お腹空いてませんか? おかゆでも持ってきますか?」

 言われてみれば。寝ているだけでも腹は空くものらしく、夕食時の空腹があった。

「……明明、食事ついでにお父様を呼ぶよう誰かに頼んでくれる? 今日のあの宝玉の話をしたいの」

「は、はい!」

 明明がいくら玉蘭付で家の者たちからも可愛がられていると言っても、さすがに馬家の主人に気軽に話しかけられるような立場ではない。明明は少し緊張したようにうなずいた。

「……玉蘭シャオチェー、大丈夫ですか?」

 部屋から立ち去る際、明明は扉の前で立ち止まり、そう言った。

「うん、大丈夫」

 玉蘭は穏やかにうなずいた。

「……私、なんだかあの石が怖いです。シャオチェーがどこかへ行ってしまいそうで」

「……大丈夫よ。私、どこにも行かないわ。ごめんね、いきなり気なんて失うから、そんな心配をさせてしまったのね」

「……そう、ですね」

 明明は笑顔を作って部屋の外へと出て行った。

「…………」

 玉蘭は息を吐き、そしてただ静かに父を待った。


 だいぶ時間はかかったが、父はやって来てくれた。おかげで玉蘭はおかゆをすっかり食べ終えてしまっていた。

 父は小脇に何やら書簡を抱え、夜だというのにまだ外向きの格好をしていた。

「……お客様でしたか?」

「いや、客じゃない。役人だ」

 うんざりしたように、父はそう言った。

「そんなことより具合はどうだ、玉蘭」

「もうすっかり大丈夫です。珍しい石を見て興奮してしまったのだと思います」

「…………」

 父が少し遠い目をした。多分、玉蘭が子供の頃のことを思い出している。

 玉蘭自身は覚えていないが、なんでも三歳の頃、大きな原石に興奮して、駆け回り転んで頭を打ったことがあるのだという。あのときは肝が冷えたと、父も母もよく言う。朝に侍女頭に言われたフラフラしてしまうというのも、その頃のことだ。もう十五年も前のことをいちいち言われるのは少し気恥ずかしいが、心配をかけたのには違いないのだから何も言えない。

「ところでお役人は何のご用事で?」

 もしや、あの翡翠のことを聞きつけたのだろうか? それにしても動きがずいぶんと速いが。

「ああ、気にするな。いつものやつだ。誰か玉官になってくれないか、と。あんたのところには息子が四人もいるんだから、ひとりくらい良いだろうとかなんとか……まったく」

 父はため息をついた。

「ああ……」

 玉官。都の後宮で、後宮から出られない女達の守り石を管理し世話をする役職。

 その玉官が全員、粛清された話は記憶に新しかった。

 下っ端の宮女たちならともかく、後宮には皇后を始めとする妃や公主たちもいる。後任を探すため、役人はあちこちの有識者に声をかけているらしい。

 そう言った話は、父が仕事のつながりで聞いてきた。

 しかし後宮の役職である玉官に男がなるには、宦官になる必要がある。すなわち去勢をしなければならない。

 宦官とは確かにどんな立場からでも皇帝や東宮に近づけるという立身出世を狙える仕事だ。しかし宝玉を扱うような職業の人間はそもそも生活には困っていないものが圧倒的。

 去勢の持つ身体への影響を考えれば、よほどの野心がなければ、すでに裕福な彼らはわざわざ宦官になりたいとは思わないのだ。

 事実、過去の玉官たちの中には宝玉の知識があるから任官されたというものはほとんどいなかったのだという。代々、後任の宦官に仕事を教えることで玉官は補充されてきた。

 しかしそもそも教えられる前任者が根こそぎいなくなった。だから今ほしいのは即戦力なのだろう。

 もちろん馬家の主人である父は玉官になる気はない。跡継ぎの長兄も、長兄に何かあれば代わりに継ぐことになるだろう次兄も差し出すわけにはいかない。

 三男と四男の今後は明確に決まっていないが、彼ら玉蘭の弟たちはそもそもまだ十五歳と十二歳だ。

 十五歳なら、そろそろ大人扱いされてもおかしくない年齢だが、家族から見れば、まだまだ子供だ。手放して宦官になどしたくはない。

 そもそも理由が一応あったとはいえ、玉官は大量に粛清されたばかりなのだ。後ろめたいものなどなくとも、なるのもならせるのも、どうしても抵抗はある。

「そんなことより、話とは?」

 父の言葉に玉蘭は頭を切り替える。

「あの石のことなのですが……」

「ああ、翡翠な」

「え……」

「良い名前だ。仮に名付けるなら翡翠でいいんじゃないかと職人達と話し合った。皆、気に入ってたぞ。瑞鳥カワセミの名を冠する石。ふさわしい名前だ」

「そ、そうですか」

 たしかに自分が倒れる前につぶやいてしまって、聞かれていたのは覚えているが、まさかそのまま採用されてしまうとは。

「あの石、今は?」

「どう加工するのが一番よいか、構想中だ。だからまだあのままで倉庫に置いてある。明日、職人達にも意見を募り、方向性を決める。私は今のところ軟玉ネフライトに近いやり方を考えている」

「そうですか。……あの、新しくあれが入荷する目処はついていますか?」

「いや、持ってきた商人もよくわかっていない石だからな。ただ西方の国ではどちらかというと金剛石ダイヤモンドのような透明度の高い石の方が喜ばれるから、珠国の方が高く買ってくれるだろうと考え、こちらの国に持ってきた。次に入荷した時もこちらに持ってきてくれるはずだ」

「ああ……」

 その知識は玉蘭にとって既知だったが、そういえば夢の中の『翡翠』も同じようなことを考えていた。彼女にとっては透明な石の方が宝石らしく、不透明な翡翠はあまり宝石のように感じない、と。それは珠国より西方の国々の価値観に近い。

「とにかく綺麗な石だから、また持ってきてくれとは言っておいたが、あっちもあまり期待しないでくれとは言っていたな」

「……それはなかなか商売に使いづらいですね」

 貴重なものには高値がつくが、貴重すぎるとそもそも数を売れないから商売にならない。

「……すみません、お父様、書くものを取ってくださいます?」

「ん? ああ」

「…………」

 寝台にいる玉蘭に父は筆と硯、そして紙を渡してくれた。

「……お父様、私が同じ宝石の夢を見る話は子供の頃からしてましたでしょう」

「ああ、お前らしい夢だ」

「……あの石、翡翠はその夢に出てくる石と同じです」

「ほう」

 父はなんとも言えない声を出した。半信半疑という感じだ。

 それを聞きながら玉蘭は書くべきものを書き上げた。

「ここらへんが我が家、こっちが都、ここからはくに……」

 それは珠国とその周辺の地図だった。

 玉蘭は家にあるものよりも正確な地図を描いた。それは『翡翠』の記憶にあるものだったからだ。

 そしてその地図の範囲には、夢の中の『翡翠』が知っているあちらの翡翠の産地も含まれていた。

 こちらとあちらの世界がどこまで同じかは定かではない。しかし可能性があるのなら、そして他に手がかりがないのなら、当たってみる価値はあるだろう。

「このあたりです。このあたりを探してみるよう異国の者に言ってみてください」

「……わかった」

 どちらにせよ次の仕入れの見込みは立っていないのだ。闇雲に探すよりは、夢でも指針があるのは悪くはないだろう。父は神妙にうなずいた。その顔はまだ半信半疑だったが、玉蘭が示した範囲は国の外だ。どうせ聞き入れるかは、父ではなく異国の商人たちの判断になる。だとしたら、言ってみるだけ言ってみればいい。

「……それから、ひとつおねだりしてもよろしいですか?」

「内容による」

 そこは実利を重んじる商人として、父はきっぱりそう言った。

「はい」

 玉蘭は父らしい言い方に苦笑しながら、おねだりを口にした。

「あの石をこのくらいの大きさの厚みのある円状にして、真ん中に穴を開けてほしいのです。首飾りにしたくて」

「なんだ、そんなことか。わかった」

 父はうなずいた。貴重な石だというのに、父は簡単に受け入れてくれた。

「あれがお前の夢の中にあった石と同じというのなら、馬家に来たのはお前との縁だろう。そのくらいは構わないさ」

「ありがとうございます」

 玉蘭は満面の笑顔を見せると、頭を下げた。


 父はゆっくり休みなさいと言って、玉蘭の部屋から去って行った。


 玉蘭は言われたとおり、横になりながら、今日の出来事を振り返る。

 ――翡翠。あちらの世界の石の翡翠の歴史。私の頭にはちゃんとある。

 あちらでは、翡翠は知らない王朝の頃にこの大陸にもたらされ、知らない王朝の頃にその産地が判明し、知らない皇后がその翡翠を寵愛し、やがてその石は世界的な大流行をもたらした。

 ――うまくいけば、その利権を馬家が一手に握ることができる。

 考えただけでも胸躍るようなことだった。

 馬玉蘭は商人の娘だ。時には価値のない宝玉を集めたり、身寄りのない子供を拾ったりと実利の薄いこともするが、本質的には利益を上げることが人生の喜びに結びついている。

 ――けれど女の私はいつまでも馬家にはいられないし、嫁ぎ先がお父様のように女が商売の場所をうろうろしていることを許してくれるとも限らない。

 父も、そしてその後を継ぐ予定の兄たちも、玉蘭には甘い。

 玉蘭は商売自体に積極的に口出しこそしないものの、商談の話を聞くことくらいは許されているし、工房にも自由に出入りさせてもらっている。

 しかし母は違う。他の商人の家から嫁いできた母は、いつもおとなしく家の中のことばかりを行っている。

 それが商人の家に生まれた女の普通だというのなら、玉蘭には少し窮屈だ。

 ――でも、もし、この道なら、今私が考えていることが可能なら……。

 玉蘭には、ひとつの思いつきがあった。

 それが可能かはわからない。しかし試してみる価値はあった。玉蘭が望ましいと思える生き方のためには。

 玉蘭は静かに目を伏せた。まずは寝て、そして明日以降、この考えを父に話そう。

 翡翠を加工してほしいと、おねだりをしたのとは訳が違う。

 人生を揺るがす大きな決断について考えながら、玉蘭は夢の中へと落ちていった。

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