第二章 少し前、西方の宝石商

第1話 宝石商の知らない石

 それは、過去のことだ。

 玉蘭がまだ後宮に来る前、実家の馬家にいた頃のことであり、そして、さらにもっと前、人知の及ばぬ『過去』のことでもあった。


◆◇◆


「――ちゃんに宝石をあげようねえ」

 病床のお祖母ちゃんがそう言って私にくれたのは、不透明な石のネックレスだった。ぱっと見、緑色に見えるが、白色の中に緑が入り交じっている。それは濁っているようで、表面にはしっかりガラスめいた光沢がある。

 宝石と言えば食玩についてくるキラキラで透明なプラスチックだった当時5歳の私には、それは宝石には見えなかったけれど、それでも何故か妙に惹かれるものがあった。

「ちょっとお母さん、そんな高価なものを子供に……」

 母が慌ててそう言った。本当に心からの心配の声だった。

「大丈夫よ、――ちゃんは良い子だから、ちゃんと大事にしてくれるわよね?」

「うん!」

 私は後先考えずそう返事をして、そしてその翡翠ひすいのネックレスは私の生涯のお守りになった。


◇◆◇


「……またこの夢」

 玉蘭はそう呟いて目を覚ました。

 思わず自分の周りを見る。いつもの寝台だ。商人馬家の母屋の一室。つくりが確かな一級品ばかりが揃った部屋。父が愛娘のために設えた、華美でこそないが、見る人が見ればわかる贅を凝らした玉蘭の私室。

 そして、夢に出てきたのは知らない人だ。玉蘭の祖母は、父方も母方も玉蘭が生まれる前に亡くなっているから、あんな場面はあり得ない。玉蘭の母は健在だが、夢の中の『母』とは違う人だ。夢の中の『母』は活発で元気がいいが、玉蘭の本当の母は物静かで穏やかだ。

 それにあの石。翡翠という名前の石。あんなものを、馬玉蘭は人生の中で見たことがない。

 玉蘭のお守り――守り石は軟玉ネフライトだ。かつてはただユーとだけ呼ばれ最上級の宝玉として重宝され、そして今でもこの国で一番貴ばれている石だ。翡翠ではない。

 ネフライトは確かに夢の中の翡翠とは不透明なところが同じで、色も白や緑と近いが、よく見てみると違うことがわかる。

 翡翠はネフライトよりも、深く鮮やかな緑色をしている。

「…………」

 しかし、そもそも夢の中のものに対し、『よく見てみる』とはどういうことだろう。記憶の中のものを、『よく見てみる』なんて出来るはずがない。

 それに知らない石なのに、宝玉をよく取り扱う商人である馬家でも、誰も見たことがないような石なのに、何故か玉蘭は翡翠のことをよく知っているような気がした。その手触り、硬さ、温度……。まるで体験したことのように。

 それらを不思議に思いながらも、玉蘭はただの夢だと片付けた。いつものように。


「玉蘭小姐シャオチェー! おはようございます!」

「おはよー、明明めいめい

 玉蘭が朝食前に使用人部屋に顔を出すと、侍女の明明が駆け寄ってきた。

 明明は他の使用人たちと繕いものをしている途中だったが、仕事を放り出したことを咎めるようなものはいなかった。

 明明はおおよそ十一歳。親のいない子で、ある冬の日、馬家の店先で震えているのを玉蘭が見つけ、拾ってきた。

「またお前は何でもかんでも拾ってきて……」と父には苦言を呈されたが、明明は子供ながらよく働くので、今では父にも母にも使用人たちにもすっかり可愛がられている。


 明明の胸元には赤く小さい珊瑚玉がきらめいている。それは玉蘭が明明に贈ったものだ。

 玉蘭が拾ったとき、明明は守り石を持っていなかった。

 この珠国しゅこくでは、子供が生まれると守り石を与える。元々は王族の習慣で、高価な宝玉を守り石とした。それがいつしか庶民にも広まった。

 しかし庶民はもちろんきらびやかな宝玉になど手が届かない。ちょっと傷がついてたり、混合物が多すぎて売り物にならなかったり、そういう安価なものをなんとか手に入れるか、もしくはそこらへんから拾ってきた石を守り石として与えることもあった。

 大切なのは、親からお守りを受け取ったという事実である。守り石の意味とはそういうものであり、宝玉の格を気にするのは高貴な立場のものか、金持ちだけがやることだ。

 しかし、明明はそんなそこらから拾ってくればよいような石一つ与えられていなかった。

 明明を拾って、お湯で汚れを落としてやって、清潔な服に着替えさせ、そしてお粥を食べさせてやったあと、玉蘭が明明が守り石を持っていないと気付いたときの衝撃たるや。

 どこかに失くしたかと慌てて家中を探そうとする玉蘭を、「元から、ないのです」と止めた消え入りそうな明明の声を、玉蘭は今でも覚えている。

 そう口にしなければいけない明明がどれだけ惨めだったか。どれほど心細かったか。

 玉蘭はそれを聞き、急いで自分の宝石箱から珊瑚の首飾りを取り出し、明明の首にかけてやった。

 明明はひどく遠慮をしたものの、玉蘭は有無を言わせず明明にそれをつけさせて、今ではその鮮やかな赤色は明明の胸元にすっかり馴染んでいる。


 馬家は商人の家だ。珠国の西の街に住んでいて、西方の異国から来る商人達と取引をしている。

 馬家は手広く商いをやっているが、特に力を入れているのは宝玉類だ。だから馬家はもっぱら宝石商と呼ばれているし、街の人間に守り石を売ることもよくある。

 玉蘭はそんな家に生まれ育ったので、宝玉をたくさん持っていた。その中には小さすぎたり、品質が悪かったり、売り物にならないので放置されていたものも多々あるが、それらも含め、玉蘭は天鵞絨ビロードを敷いた木箱の中に保管している。

 玉蘭は宝玉が好きだ。たとえそれが売り物にならないようなものでも。


「シャオチェー、今日は珍しい石が入ったみたいですよ。工房に向かう旦那さまが上機嫌でした」

「へー!」

 明明の言葉に、玉蘭は目を輝かせた。

「ご飯食べたら行ってみよ! 明明も来るでしょう?」

 玉蘭の言葉に明明がちらりと後ろを振り向く。

「これだけ済ませて、行っておいで」

 年配の侍女頭が、明明が途中までやっていた繕いものを指差して、そう言った。ちょうど玉蘭が食事を済ませている間に終わりそうなくらいの仕事量だった。

「ありがとうございます!」

 明明が弾んだ声でそう言った。

「なあに、玉蘭シャオチェーには明明がお守りについてくれているくらいでちょうどいいからね。宝玉と見ると、もう目がなくて、フラフラしちまうんだから」

 侍女頭の軽口に玉蘭と明明は苦笑いをした。

「じゃあ、明明、また後で」

「はい、シャオチェー」

 明明に手を振ると、玉蘭は急ぎ足で食堂へと向かった。


 食堂では母が何やら片付けをしていて、玉蘭を見ると微笑んだ。

「おはようございます、お母様」

「おはよう、玉蘭。今ご飯をあたためますからね」

「冷めたままでいいですよ、お手数ですし」

「駄目です。あなたは血の巡りが悪いのですから、食事は朝からあたたかいものをとって、体を労らねば」

 玉蘭は昔から貧血になりがちで、朝に弱い。寝込むほどではないが、朝、皆と同じ時間に起きられたためしがない。

 母のまっすぐな心配に逆らうことなど出来るはずもなく、玉蘭は素直にうなずいた。

「わかりました……」

「……石を見に行きたいのでしょう。早く用意しますから、ゆっくりお食べなさい」

 やれやれとため息をついて、母がそう言った。

「ありがとうございます! お母様」

 玉蘭の声が弾むのを母は苦笑いで聞いていた。


 朝食を終え、明明を連れ出すと、母屋から仕事場へと向かう。

 馬家は代々商家で景気がいい。とにかく石の目利きと加工に長けていて、腕利きの職人も多く抱えている。

 良い石は迷わず高く買い付けるから、異国の商人たちも馬家と商売をしたがる。

 馬家の母屋の向こうには倉庫と職人の作業場所がある。

 朝に仕入れた原石はまずは職人たちが目利きし、そして倉庫に収めるか、すぐ加工に取りかかる。

「あ、いたいた」

 庭に人々が集まっていた。馬家の主人である父。父の仕事の手伝いをしている長兄と次兄。そして職人達が集まって、ひとつの原石を取り囲んでいた。

「お父様!」

「ああ、玉蘭、それに明明も」

 玉蘭は跳ねるように父へ駆け寄った。

「何の原石?」

「それがわからないんだ」

「……え?」

「持ってきたやつも初めて見たとか言っててな。それでも良いものだと言い張ってずいぶんとふっかけやがる。しかしこっちも知らないものに値なんざつけられん」

「はあ……」

 珍しい。父はそういう不確かな取引は基本的にしない。

 正体がはっきりしている品物なら色をつけて気前よく金を払ってやることもあるが、今回のような不明瞭な物の取引ではデタラメな物を掴まされることもあるので、父は慎重になる。

「ただな、そいつとは長く取引してるし……何より、俺の直感が告げている。こいつは、本物だ」

 父が断言した。

 そもそも何とかという石だとも言われていない物に本物も偽物もなかろうが、玉蘭はごくりと息をのんだ。

 父は商人としての嗅覚が優れている。その父がこうも断言するのだ。きっと素晴らしい石に違いない。

 玉蘭は心が沸き立つのを感じた。

「まあ、なんだ、とにかく見てみろ」

 父の言葉に人波が割れる。

 そこにあったのは、緑色がかった白い不透明な石だった。まだ磨かれていない原石のままだから、ゴツゴツとした母岩ぼがんで一部が覆われたままだ。しかし鮮やかな石の表面はきちんと見えている。

 石の本体は白色だ。しかし緑が多めに、そしてよく見れば紫や赤もところどころに入り混じっている。こうも色が多く混ざっている宝玉は珍しい。

 なるほど、美しい石だ。ネフライトにも引けを取らない。むしろネフライトより光沢があるかも知れない。

 ――いや、それよりも、それよりも、だ。


 玉蘭はこの石を見たことがあった。


翡翠ひすい


 口からその名前が飛び出す。

「翡翠?」

「カワセミか」

 周囲の職人から納得の声が上がる。

 そうだ。翡翠とは元を辿ればカワセミのことだ。カワセミの美しい多彩な色を思わせることから、かつての人々はそれをそう名付けた。

 ――かつての人々? 誰? 宝石通の馬家の皆でさえも、今日初めて見たのに?

 違う。翡翠という名前は、そもそも玉蘭がいつだって、夢の中で見ていた宝石の名前だ。

 ――そうだ、これだ。これが、かつて彼女が身につけていた。

「ああ」

『翡翠ちゃんに宝石をあげようねえ』

 知らない祖母の声が甦る。

 そうだ。私は、私の名前は――。

 ガンガンと頭が痛い。目の前が暗くなる。足元がおぼつかない。

「シャオチェー!?」

 明明が悲鳴を上げた。

 玉蘭は、倒れた。最後までしっかりと翡翠という石を見つめながら。

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