第3話 掌中の珠

◇◆◇


「翡翠って、いつもそのネックレスつけてるよね」

「おばあちゃんの形見なの」

 私がそう言うと、相手は慌てた顔をした。

「ご、ごめん……」

「いいの、いいの。ずいぶんと子供の頃に亡くなったから、今ではおばあちゃんのことは、ただただ良い思い出だし」

「そっか……それも宝石?」

「うん、翡翠だよ。同じ名前なの」

 私ははにかみ笑った。

 そうすると相手は顔を赤くして、少し声を詰まらせて、しばらく時間をかけて、そしてようやく口を開いた。

「……こ、婚約指輪の石は、さ。翡翠とダイヤモンドどっちがいい?」

 それに対し、私は――。


◇◆◇


「……夢」

 玉蘭は朝日が差し込む中、目を覚ました。

 自分の前世『翡翠』の夢。しかしいつもとは違う場面の夢だ。『翡翠』もだいぶ大人になっていた。適齢期だろう。

 婚約と言っていた。どうやら翡翠はあの人物と結婚するらしい。

 結婚する時に宝石のついた指輪を贈る。結納のようなものだろうか? いや、わざわざ『翡翠』に好みを聞くのだから、おそらく彼女が身につけるものになるのだろう。

「おはよう、玉蘭」

 玉蘭が夢の中のことを考えていると、寝台の傍らから声がかかった。そこには母がいた。

「お母様……!」

 少し驚いた。

 母は馬家の女主人。家の中のことはすべて任されている。だからこそ、病気の娘にずっと付き添うようなことは彼女の仕事ではないのだ。

 たくさんある家中の仕事を朝から晩まで差配しなければいけない。

 幼い頃から玉蘭は母に看病された覚えがない。誰か、侍女がついてくれるのが普通だった。

「ど、どうされたのですか?」

「明明と代わったのです。あの子、眠たくてフラフラしながら、お前のそばを離れようとしないから」

「……そうですか」

 明明にはずいぶんと心配をかけてしまった。それだけではない。玉蘭が考えていることを実行に移すなら、明明に言ったことを違えることになる。

「…………」

 しかし明明と代わってやるだけでは、母が玉蘭の看病をする理由にはまだ弱い。

「……顔を見ておきたかったのです」

 母は少し寂しそうにそう言った。

「明明の言うとおりです。お前はなんだか今、とても遠くに行ってしまいそう」

「…………」

 明明にしたのと同じ慰めを口にすることは、今の玉蘭にはできなかった。

「遠くに行っても、馬玉蘭は馬玉蘭です、お母様」

 だから玉蘭はなんとかそう言った。

「そうでしょう?」

「……そうですね」

 母は多くを語らず、朝食を取ってくると言って、席を外した。

「……よし」

 玉蘭は一晩寝て整頓された考えを再び頭の中で転がし始めた。




 昼、父親たちが休憩を取る時間を見計らい、玉蘭は仕事場へと向かった。

 たいていの場合、彼らは仕事場の隅の小部屋で、卓を囲み、軽く食事をつまみながら、休憩を取る。

 その部屋に入るなり、玉蘭は宣言した。

「お父様、お兄様、馬玉蘭、後宮に行って玉官になろうと思います」

「……なんだって?」

 長兄は目を見開き、そう言った。

 次兄はつまんでいた蒸し物を取り落としそうになり、慌てて受け止めた。

 父は深くため息をついた。ため息をついて、うなだれて、それ以上何も言わなくなってしまった。

「……おいおい」

 父が何も言わないので、慌てて長兄が立ち上がり、もう一回座った。

「あー、ええと、とにかくいったん座りなさい」

 長兄に促され、玉蘭は座る。部屋の一番奥に父、その横に長兄、そのさらに横に次兄。そして部屋の入り口すぐそこの椅子に玉蘭は座る。

「玉蘭、兄にもう一回さっきの言葉を言ってくれ。聞き間違えたのかもしれん」

 今なら聞かなかったことにする、長兄の言葉にはそういう感情がにじんでいた。

「後宮で玉官になります」

 玉蘭は一切構わず、その言葉を繰り返した。

「馬鹿を言え……そもそも玉官に女官がついた例はない」

「女官がついてはいけないという制度もないはずです」

「……そう、か?」

 長兄は困り顔で次兄を見た。

「勉強家の兄上が知らんことを馬鹿の俺が知るわけがなかろう」

 次兄はあっけからんとそう言った。次兄は決して馬鹿ではない。長兄より勉強していないというだけのことだ。

「……まあ、そこは置いておいてだ。お前、後宮の女官になるのがどういう意味かわかっているのか」

「二度と出られないと思うべきであり、出られたところで、尼寺に行くのがほとんど。天子様のお考え一つで、どうとでもされる」

「そうだ。……わかっていて、何故お前、後宮の玉官なんぞに……」

「後宮に翡翠を売り込んで参ります」

「は?」

 玉蘭の答えに長兄はぽかんと口を開けて、固まってしまった。

 そのまま長兄が動かなくなったので、仕方なく玉蘭はいったん父をうかがう。

 相変わらず父はうつむいたままだったので、次に次兄を見た。

 次兄は心底嫌そうな顔をして、父と長兄を振り返った。二人が動かなくなってしまったのをしばらく確認してから、次兄はようやく玉蘭に向き直った。

「売り込むとは具体的に何をする気だ?」

「後宮は東西南北から高貴な妃嬪が集まり、皇帝の寵愛を得るために互いの美を競う場所です。そこに翡翠を売り込むことができるのならば、これに勝る市はありません。美姫達は自分を飾るための翡翠を競って欲することになるでしょう」

「……つまり、後宮で商いでも開こう、と?」

「はい」

「なるほど、馬鹿だな」

 次兄はそう言った。

「うん、馬鹿だ。馬鹿だが……面白い」

「こらっ!」

 次兄がにっかり笑った。それを叱りつけるために長兄が復活する。

「お前! 何をぬかしている!」

「だって兄上がしゃべらなくなるから……」

「こんな考えに同調するくらいなら、全員黙り込んでいた方がマシだ!」

 長兄はそう叫び、父を窺う。やはり父は微動だにしないままうつむいていた。

「……翡翠の美しさは本物だ。そんな搦め手を使わずともよい」

 長兄はきっぱりとそう言った。

「直接売り込むのに比べれば時間はかかろうが、いくらでも売り込む方法はある。いずれその評判は都にも届くだろう」

「翡翠があれ以上採れない可能性を考えると、これが一番、稼げます」

 玉蘭はそう反論した。『翡翠』の記憶を使って翡翠の産出地の目星は一応つけたが、あちらの世界がこちらと同じ地理をしているとは限らないのだ。そうなればもうお手上げだ。偶然転がり込んでくるのを待ち続けるしかない。

 玉蘭は続ける。

「周囲の金持ちや貴族に売り込んで、肝心の都に評判が届いた時には馬家にはもう十分な翡翠がない。そういうこともあり得ます」

「そのときは、そのときだ」

 長兄はだんだんと落ち着きを取り戻してきた。

「仕方のないことだ。天運と諦めるしかない。別にあれを高く売らなければ、我が家が路頭に迷うわけでもなし」

「それでも、高く売れるなら売れた方が良い」

「そんなことはお前が心配することではない」

「心配をしたいのです。商売の心配が出来る立場でいたいのです。玉蘭は……商売をやりたいのです」

「……それは」

 長兄が困ったように言葉に詰まる。長兄だって、家族の誰だってわかっているだろう。

 玉蘭が自由に振る舞えるのは馬家の中でだけだ。他の家に嫁がせて、彼女が自由に振る舞うことを許す家がどれほどあるだろうか?

「……商売をやる自由のために、後宮という場で、他の自由すべてを捨てるというのか?」

「はい」

 長兄の指摘に、玉蘭はうなずいた。

「その覚悟がございます」

「…………」

 長兄はまた黙ってしまった。

 玉蘭が洒落や酔狂で言っているわけではないとわかってくれたようだった。わかってしまったようだ。

 こうなってしまうともう後は父の言葉を待つしかなかった。

 きょうだいはただ父を見た。

 父は相変わらずうつむいていた。

「……お父様」

 玉蘭は小さく父に呼びかけた。

「愚かなことを言う」

 父はようやくそう言った。

「後宮にかわいい娘を軽々しく差し出せるものか」

 父は弱々しくそう言った。

「……しかし、結局、どこへ行こうと、試練があることに変わりはない」

「父上!?」

 長兄が叫んだ。

「それをお前がちゃんとわかっているというのなら、どうして反対できようか」

「ち、父上……」

 長兄が何かを言いたそうに口を開くが、言葉にならずに消えていく。

「……まあ、そもそも玉官に女官がなれるなら、の話だが」

 父はそう言った。

「あ、はい」

 玉蘭はうなずく。結局、そこが問題だ。

 玉官は後宮そして行政の中でも独立した官職だ。

 後宮の中で必要に応じ徐々に生まれ、今でこそ官職になったが、しっかりと隅々まで法整備がなされているわけではない。

 女官が玉官になった例はないが、なってはいけないという法もまだないのだ。

「まあ、そこは役人に確認してみる。……しかし、確認した時点で役人には感付かれるぞ、馬家の娘が玉官になることを考えている、と。お前の宝玉馬鹿は知れ渡っている。つまり、聞けば、後戻りは出来ない」

「構いません。お願いします」

「……はあ」

 父はため息をついて、そしてまっすぐ玉蘭を見た。

「……わかった」

 その顔はとても切なそうな顔だった。

 親不孝。その言葉が脳裏をよぎる。それでも、玉蘭は撤回する気はなかった。

 考えてしまった。得てしまった。自分の可能性。

 自分が一番やりたいことをやれる道。

 そのために、玉蘭はその道を行く。

「……お母さんにはお前から伝えなさい。あと明明にもだ。あの子はお前が拾ってきた子だ。お前が責任を持ちなさい。そうしたら役人に聞いてやる」

「……は、はい……」

 母と明明。二人の顔が浮かぶ。母は何を言うだろう。明明は泣いてしまうかもしれない。

 それでも、玉蘭は迷わず立ち上がった。

「玉蘭のわがままを許してくれて、ありがとうございます、お父様」

「……ああ」

 父ががっくりと肩を落とすのが見えた。

「いいんですか、父上!?」

「兄上、もう決まったのだから……」

「しかし!」

「一番、辛いのは父上だ。それがわからない兄上ではあるまい」

 長兄が怒鳴り、次兄がなだめている。

 それを背中に聞きながら、玉蘭は母屋へと向かった。


 厨房では母が他の女達とせわしく仕事をしていた。その中に今日は明明もいた。

「そうそう、明明。うまいわ」

「よかった」

 明明は侍女のひとりに何か料理を教わっているようだった。

「これ食べて、玉蘭シャオチェーにさっさと元気になってもらわないとね」

「はい!」

 明明が明るく答える。

 ああ、明明は自分のために何かを料理してくれている。

 それがわかってしまって、玉蘭の足は一瞬鈍った。

 それでも、彼女はその足を厨房の中に踏み出した。

 決めたのだから。

「あの、お母様、明明、それに皆も、聞いてちょうだい」

「シャオチェー?」

 明明が振り返り、そして玉蘭の表情を見て、固まる。

 玉蘭は自分が今、どういう顔をしているのだろうと思いながら、母の方を見る。

 母は目を一瞬つむって、そして開いた後には玉蘭を見ていた。

 じっと見ていた。

「お母様、明明、馬玉蘭は後宮で玉官になりたいと思っています。お父様の許しは得ました」

 玉蘭は一気に言い切った。母と明明の顔は視界に入っていたけれど、表情をなるべく見ないようにした。見たら、言葉が詰まってしまいそうだった。

 父は伝えてこいと言った。許可を取れとは言われていない。それでも、母と明明に反対されたら、玉蘭の決心が鈍るだろうことは、想像に難くなかった。かといって言い逃げも出来なかった。

 明明はみるみるうちにその顔をくしゃくしゃにして、泣きそうになったが、ぐっとこらえ、口を真一文字に結んだ。母が話すまで、口を挟まないつもりなのだろう。幼いのに本当によく出来た子だ。玉蘭は少し誇らしい気持ちになりながら、母を見た。

 母は静かな表情で、玉蘭のことをじっと見ていた。

「…………」

 玉蘭はただ母の言葉を待った。

「仕方のない子」

 母はただそう言った。

 そう言うと母は静かに玉蘭により、その頭を胸に抱き寄せた。

 優しい抱擁に玉蘭は母の背に手を回した。

 しばらく母娘はそのまま抱き合っていた。

 やがて母の方から玉蘭を離れ、そして娘を明明に向かって押し出した。

 明明はもうすっかり泣いてしまっていた。

 声は押し殺し、静かにシクシクと泣いている。

「……明明、嘘になってしまってごめんなさい」

「シャオチェー……」

 それ以上は言葉にならなかった。ただただ彼女は泣いていた。

 母がそうしてくれたように玉蘭は明明を抱き締めた。

「ごめんね……」

 そうとしか言えなかった。気付けば玉蘭の目から、一筋の涙が落ちていた。

 この子だけだ。玉蘭の心残りはただこの子のことだけだった。

 厨房の片隅で、玉蘭と明明はずっと抱き合いながら、静かに泣いていた。

◇◇◇

 その後はトントン拍子。

 役人が都に問い合わせ、とりあえず連れてこいと返事があって、馬家の消費と一緒に長い交易路を馬車で揺られ、簡単な面接を受けて、あっという間に玉蘭は後宮は宝玉宮にいた。

 入ってから暗殺だなんだと聞かされた時は色々後悔したくもなったけど、今のところは特に問題はない。


 玉蘭はようやく目を開けた。

 見計らったように、白英がお茶を置く。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 玉蘭は茶に手を伸ばした。

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