ほしかった

虫十無

1

 いつもと同じ、何も見えない。目は見えている、においも感じる、口だって何か食べるときには開いているはずだ。それなのに私が鏡を見るとき、私の顔はぐちゃぐちゃにつぶれている。

 目も、鼻も、口も、どこにあるのかわからないくらいにぐちゃぐちゃになっている。多分これは肉なのだろう。皮がはがれて、さらにそれを原型がわからなくなるまで殴ったような、そんな見た目。

 自分で鏡を見た時の見た目がおかしいだけで、触れば瞼も鼻も唇も形はわかる。それに人と一緒に鏡を見ても何も言われたことはないから、きっと私だけにこうやって見えているんだろう。

 触って形も、距離も、把握してそれを脳内で再構成しようとしてもやっぱりぐちゃぐちゃになってしまう。脳がおかしいのだろうなと思いつつも、結局誰にも言うことができない。自分の顔じゃなければ、他人の顔なら、ちゃんと認識できるのに。目も、鼻も、口も、ほくろも、私の視覚で全部わかるのに。

 原因を調べようとしたこともある。けれどこれといったものは見つからない。視界に問題があるわけではないし、相貌失認とも違うだろう。原因がわかれば、推測できれば誰かに話せるのかもしれない。病名があるとわかれば私が安心できるのかもしれない。


 今日も鏡は私の顔を教えてくれない。いつものぐちゃぐちゃの顔が見えるだけ。私の髪型、私の服を着て、やっぱり私の鏡像のはずなのに、どうしてこんな顔になってしまうのだろう。

 昔は、どうだっただろうか。記憶の限り私の顔はこうやって見えていた気がする。けれどその記憶というものはどこまでさかのぼれるだろうか。違う、記憶はさかのぼれる。けれど鏡を見ている記憶というものはここ一年ほどしかさかのぼれないような気がする。鏡なんて気にすることはそんなにないから、例えば普通に見えていたなら記憶になんて残らないものかもしれない。それでも、違和感がある。顔がぐちゃぐちゃに見えるのではなく、顔がぐちゃぐちゃに見えるようになったときの記憶もないのはどうしてだろう。

 家で一番大きい洗面所の鏡の前で考える。興味がわいてしまった。もっとよく、ぐちゃぐちゃの状態が見えないだろうかと鏡に顔を近づける。近づいて、近づかない。私は鏡に近づいているのに鏡の中の私は元の姿勢のまま動かない。おかしい、おかしいのは脳じゃない。鏡の中に、私じゃないものがいる。逃げる足は動かない。

 ――ようやく気づいたね。

 声が、聞こえる。違う、これは声じゃない。

 ――気づかれないと、手が出せないのに、こんなに時間がかかって。

 頭の中に響く。頭蓋の中で反射するような感覚だ。大きく、大きくなっていく。

 ――私のもの。

 頭が痛い。声が響く。目を閉じようとする中で視界の端に手が見えた。

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