カオス理論応用部門・第一講義

夢月七海

カオス理論応用部門・第一講義


 ……さて。

 私と諸君の自己紹介も終わったところで、今回の講義の本題に入ろうか。


 本年度の第一講義なのだが、「カオス理論とは何か」ということは、諸君は十分に学んだものとして、話を進めよう。

 私の講義は、あくまで「応用」――不規則なある事象でも、今後に何が起こるのかを観測し、計算し、ある程度の結果を導くまでを教えよう。


 我々はこのカオス理論を用いることで、九割九分九厘的中する天気予報や、市場や株の上昇と下落、または、小惑星やスペースデブリの動きの予測、生体実験を行わない医療開発など、多種多様な化学的発展を手にしてきた。諸君も、心理シミュレーターで、片思いの相手の心を知ろうとしたのではないだろうか?

 ああ、責めているわけではないので、落ち着きたまえ。ともかく、現代の生活は一にも二にも、カオス理論のお陰で成り立っていると言っても、過言ではない。


 しばし、カオス理論を語る上で、「クレオパトラの鼻が低かったら、大地の全表面は変わっていただろう」という過去の格言が例として出される。カオス理論を十分に学んだ諸君は、この格言が真に迫っていることを、充分に知っているであろう。

 ただ、理論として知っていても、実例を学ばなければ、真に理解したとは言えない。今回の講義は、過去の一部を変えてしまったことで、現在を変貌させてしまった実例を話そう。


 「それ」が起こったのは、今から、百十九年前のこと――と、観測されている。胡乱うろんな言い回しになってしまったのは、「それ」に対する客観的な記録が無くなっているためだ。

 きっかけは、ある不治の病の薬が完成したことだった。人々はみな喜んだ――しかし、薬の完成する五年前に、その病で十代の娘を亡くした一人の男は、むしろ落胆していた。


 男は、五年前にこの薬を娘が飲んでいたらと、強く夢想した。同じ病の者は、コールドスリープも解かれて、完治しているが、当時、コールドスリープの装置の数が少なく、彼の娘はそこからも漏れてしまっていた。

 そしてとうとう、それを実行してしまった。タイムマシンの運航の仕事をしていたその男は、密かに五年前に遡って娘にその薬を飲ませたのだ。


 諸君も知っている通り、タイムマシンを使えるのは、学芸関連のみである。そして、その時代の人物との接触は、アナログ・デジタルの記録含めて、全て抹消されてしまう。

 当然、それは、現代の人間の介入によって、歴史が改変されてしまうことを防ぐ為だ。タイムマシンの運航者はそれを十分に守れる人物なのだが、非常に真面目だったその男は――いや、真面目だったからこそ、思い切った行動をとったのかもしれぬ。


 普段飲んでいる薬と紛れさせられて、娘はある日、治療薬を飲んだ。そこからみるみる回復していき、あっさりと完治してしまった。

 医者たちは、娘の体を調べ、病への抗体を発見した。この抗体は五年後の薬が由来のものだが、医者は娘の中で奇跡的に自然発生したものだと結論付けた。


 娘は退院したが、その後の医者たちの涙ぐましい努力により、新たな抗体の分析と培養に成功、本来の歴史よりも、二年早く、治療薬は完成した。

 だが、歴史への影響は、それだけでは終わらなかった。


 娘の完治より二年後、同じ病気でコールドスリープされていた人々も、この薬を投与され、全員が何事もなく回復した。

 その中に、一人の少女がいた。彼女の父親は、惑星E35への赴任を打診されていたが、この少女のコールドスリープを理由に、これを断るはずだった。だが、それは治療薬の早い完成により、少女一家が惑星E35に渡る歴史に、変更された。


 当時の惑星E35は、まだ人口が千人以下の、開発途中の星だった。父親の開発事業を横目で見ながら、その少女は惑星ですくすく育っていった。

 まだ、治安も不安定だった惑星E35の警察官を目指して、少女は法律を学び、体を鍛えていた。


 一方、未来の薬によって、死の運命から逃れた娘の方だが、半年後には通っていた学校に復帰し、勉学に励んでいた。異性の恋人もでき、順風満帆に見えた。

 だが、この娘は突如亡くなった。原因は、心臓発作だった。――彼女に死について、死神が逃がしてくれなかったと、戯言を口にする研究者がいるほど、仕組まれたかのような最期だった。


 娘の最期の場には、彼女の恋人がいた。目の前で愛する者が亡くなったその少年は、自分を責め、世を儚み、学校へも行かなくなってしまった。

 しかし、彼は引き籠るのではなく、旅に出た。地球中を巡った後、宇宙にも出て、当てもなく、あちらこちらの惑星を巡った。


 娘の死から四年後、少年は惑星E35に降り立った。すると、すぐに置き引きに遭ってしまった。

 物品にも自分にも執着しなくなっていたその少年は、置き引きなどどうでもよいと考えていたが、一人の女性の警察官は、必死に犯人を探し出し、荷物を取り返してくれた。少年は、そんな警察官を見て、久しぶりに心が動いた。


 その警察官が、不治の病から娘の抗体で回復した、あの少女だった。二人は、これにより仲良くなり、数年後に結ばれた。

 二人の間には、一人の男の子が生まれた。夫は輸入会社に勤めながら、妻は警察官を続けながら、この息子を育てていた。


 息子の成人後、妻が失踪した。仕事へ行ったのを夫は見ていたが、警察署の誰も妻の姿を見ていないという。彼女はどこかへ出奔したのではないかと言われていた。

 夫は、酷く落ち込んだ。自分が愛した人は、全ていなくなってしまう。そんな気持ちに苛まれ、何もしなくなった。


 しかし、息子の方はそうは思わなかった。報道関係の仕事をしていた息子に、失踪する前の妻は、ある政治家が可笑しな動きをしているとだけ告げていた。その政治家を深追いしたために、妻は消されたのではないのかと疑っていた。

 息子は、政治家の背後を探った。何度も危険な目に遭いながらも、その政治家の汚職と警察上層部との癒着、邪魔になった者たちを次々に消している事実を白日の下に曝した。


 残念ながら、妻もすでに亡くなっていた。だが、息子の功績は大きく、その政治家は失脚し、逮捕され、正当な手段で裁かれた。夫も、真の黒幕を知り、息子と共に政治家と戦った。

 ――というのが、変更された歴史、つまりは、今、君たちのいる現在の歴史である。惑星E35出身者は、この大スキャンダルを、教科書で読んだことがあるのではないのか?


 さて、男が娘を救う前の歴史はどうなっていたのか――惑星E35のその政治家は、元々人心掌握に長けていたため、惑星民の指示を一身に集め、統治者まで上り詰めた。

 そうして、新たな統治者は、ある日突然隣の惑星E34に宣戦布告。二星間の戦争が、三十年以上続いた――というのが、変更されなかった歴史である。


 ……モニター十七番のX君。随分と青褪めているが、君はE35の出身者かね?

 そうか。脅すわけではないが、本来の歴史だと、君はこの場にはいなかったのかもしれないね。


 えー、以上のように、一人の延命だけで、歴史はこうまで変わってしまった。今回は、惑星E35の夫婦という二人の人間に絞った例だが、経済や地形や天候など、人間以外の物にも大きな影響を与えているのは確かである。

 それらに関する歴史改変については、パラレルワールド観測を元に、現在も調査中である。人間の言動よりも、流れを掴むのが難しいからな。


 ああ、諸君の質問が今、手元に届いている。「最初に、娘を救おうと過去を変えてしまった男は、どうなったのですか?」か……。今回の議題からは外れるが、少し話しておこう。

 結論から言うと、彼は何も罰せられていない。うむ。諸君の反応ももっともだ。タイムトラベルによって過去を変えたものは、極刑に処されるのが法律で決まっているのだから。


 では、何故、そうなったと思う? ――モニター二十二番のQ君。……「戦争を止めたから」……いや、それは結果論だ。そもそも、過去がどう変わったとしても、罰せられるのが通例である。

 次に、モニター三番のP君。「娘は結局亡くなったから」……確かに、病気からは回復したが、彼の最終目標は達成されていない。しかし、それは叙情酌量の要素にはならない。


 答えは、「の彼は、何もしていないから」だ。――禅問答ではないぞ。この「」という部分が重要なのだ。

 タイムトラベルをする際の正当な手続きを、彼は行わなかった。それは、自分が勝手にタイムマシンを使ったことを記録として残さないためではあるのだが、それと同時に、タイムトラベルをしたという記憶を、彼は引き継がなかった。


 元々は、彼が娘の病気を治したくて、過去を変えた。よって、娘は病気から何故か快復したという歴史に変更された。その未来、つまりは現在の彼は、娘を病気から治したいという動機を持たなくなり、過去を変えたいという気持ちも無くなった。

 ……ややこしい話ですまない。時間の流れを、電車で例えてみるといい。Aという駅に着くはずだった電車が、無理に線路の切換えを行われ、Bという駅に辿り着いた。そして、Bの駅には、Aの駅とは違う人物がいた――そのようなことだ。


 つまりは、現在の彼と過去を変えた彼とは別人であるため、現在の彼に罪はない、という結論に至る。とはいえ、この過去改変が判明したのはその男の死亡後だったのだが。

 おや、同じような質問がいくつか寄せられているな――「どうして、過去の改変が分かったのか」。それは、パラレルワールド観測によるものだ。こちらも掻い摘んで言うと、惑星間戦争が起きた世界線と、起きていない世界線があることが判明し、その原因を辿っていくと、過去改変が判明した、ということだ。


 以上が、カオス理論の実例である。今回は分かりやすく、過去の改変を例として挙げたが、君たちが今現在、さりげなく行っている動作も、口にした言葉も、どのような影響を世界に与えて、思いもよらない歴史が紡がれるのか分からない。

 混沌カオス、とはよく言ったものだ――。ぐちゃぐちゃと、子猫が遊んだ後の毛糸のように入り乱れた世界を、どこから始まったのかを観測し、どこに辿り着くのかを予測するのが、諸君の学ぶカオス理論だ。


 ……予鈴が鳴ったので、今回の講義はここまでとする。

 では、また次の講義で。
























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