人面獣心

かえさん小説堂

人面獣心

 吉明の死にざまを明確に知るものはいない。


 ある者が言うには、精神を病んで自ら命を絶ったのだとか。またある者が言うには、自らの家臣によって殺害されたのだとか。はたまた、怨念と化した魂たちによって呪い殺されてしまったのだとか。


 実際、吉明の死にざまを直接見たという者はいない。無論のことながら、吉明を殺害したと言い張る者もいない。その吉明という名の高さと多すぎる謎によって、そのような噂が一時期のあいだ流行ったのである。


 流行に敏感な若者は、自らの推理を面白おかしく話す。それを聞いた者が、それをまた別の者に広める。そうやって立ち上ってきた噂というのは、実に多くの種類になってしまった。


 しかし、その者たちが噂話を語るときの奇妙な共通点として、きまってこんなことを言うのであった。


「安らかに死ねはしなかっただろうな」




 吉明の足跡がまだ温かく残っていた時代というのは、乱世という文字通り、世の中が乱れていた。人が疑うということを賢く覚えてしまった時代である。いたるところで殺生が行われ、兵たちが夜に布団の上でゆっくりと休むこともままならないような、殺伐とした空気に満ちていた。


 人々は血生臭い空気に鼻を覆うことも忘れたし、いつでもどこかでは命が散り、その魂を導くかのように、灰色に濁った狼煙があげられている。またどこかでは、戦に負けた殿が、苦渋に歪めた頭を宙に浮かされ、道行く民衆によって恥辱の槍を刺されていた。



 篠田家の吉明と言えば、かの名将、篠田勝明の跡取り息子としてその名が世間に知れ渡っている。


 その勝明は、幼少の頃より勉学の才に恵まれ、あまたの戦場でその知略と聡明さを披露しては、大殿様からの褒美をたんまりと頂戴するという、まさに乱世にふさわしき人柄であった。


 あるときには極少数の兵で数万という大軍を打ち負かし、あるときには燃え盛る炎のなかから大将を助け出し、またあるときには民衆が起こした一揆を、血の一滴も流さずに収めたこともあった。勝明の名の後ろには、必ず、名誉がついて回っていた。

その勝明の血を引く男児である。周りからは期待と尊敬のまなざしで、口々に好き勝手、ありもしないような名声の噂話をまき散らしたものであった。


 吉明がその期待の中でどんな思いをして幼少期を暮らしていたのかは、恐らく計り知れない。だが少なくとも、この勝明という人物が、吉明という者の未来を構えてしまったのであろうことは容易に予想がつく。


 ところで、勝明のその聡明さというのは、彼の恐ろしく狂気じみた、自らの名誉に対する欲求によって支えられていた。その飢えというのは、まさに海のように大きく、深く、しかしそれは底の見えない奈落のような空虚に包まれている。


 その性分故なのか、勝明は自らの屋敷に保存している書物はこぞって読みふけったし、その書物を暗記してしまうまで読んでしまうと、わざわざ遠方の知人のところにまで出向いて、新しい書物を何冊か借りては、また読みふけるといったようなことまで日常的に行った。


 そのおかげで様々な死地を乗り越えてこられたというのは言うまでもないが、勝明のそばで仕える者たちが、これでは屋敷が書物で埋め尽くされてしまう、掃除がしづらくて大変だ、などと愚痴をこぼしていたのもまた事実である。



 そんな勝明だが、その知識への探求心を、吉明にも持たせるべく日々奮闘していた。


 まずは、吉明に読書をさせた。勝明自らが行ったように、読書をすれば、自分と同じように知識に興味を持ち、未だ隠れている才能を発揮するのだろうと思ったからである。


 しかし、なかなかにうまく事は運ばなかった。幼い吉明は半刻もしないうちに、書物をじっと読むことに耐え兼ねて、縁側の方へ走っていってしまうのである。


 これは何度、勝明がきつく言っても無駄であった。吉明は読書をやめるたび、怒られているということにも気が付かずに、あやふやな表情を浮かべて、庭にふらついてきた蝶々の方に目をやってしまうのだ。


 次に、勝明は吉明に物語を語ってやった。文字を追うことが難しいのだと考え、それならば、語ってやればわけはないだろうと思ったのだ。が、それもまた虚しく、吉明は父の低い声を耳に入れるごとに瞼を落としていって、物語の序盤も語らぬうちに、こてん、と横になってしまった。勝明が起こしても、またすぐに首が落ちてしまう。手を変え品を変え、どうにかして吉明に興味を持ってもらおうと試してみるも、そんな父の想いも露知らず、幼子特有の無邪気さをもって、吉明は無知を貫いていった。


 そんな勝明の奮闘を側近の者が見ると、皆、小首をかしげる。はてな。かの名将と名高い勝明様が、どうして自身のご子息の手綱を握る事すらもできぬのであろうか、と。


 そのひそひそとした、陰口にも似たような口ぶりは、勝明の顔を赤面させ、その自尊心に小さな棘を刺した。勝明は次第に苛立っていき、どんな事をしても一向に馬耳東風の姿勢を崩さない我が子に、とうとうその一発を与えた。


 吉明は頬を打たれ、しばらくあっけにとられたように固まっていた。自分が何をされたのかも分からないといった様子で、焦点の定まらない瞳を、父に向けた。そして、泣いた。大きな瞳からぼろぼろと、雨粒のごとく、その打たれた頬を濡らして、わんわんと声を上げた。


「やかましい!」


 父の怒号が飛ぶ。吉明は大きな波に打たれたかのように声を落とし、勝明の言葉を聞き入れようと耳を立てた。


「この阿呆め、父の言うことを何故聞けぬ! 篠田の名を汚してはならぬのだ、お前のためを思って儂は言うているのであるぞ!」


 吉明には、威厳のある父の言っている意味が分からなかった。ただ大声で怒鳴られていることに恐怖し、背中に冷たい汗をかいた。


 どうして自分が𠮟られているのか。その意図が分からず、さらに泣いた。


「ええい、阿呆が、何故泣く! 泣いても知恵は得られぬぞ!」


 しかしそう怒鳴る勝明の表情には、どこか狂気じみた面が感じ取られる。とある目的が達成された爽快感、嗜虐的快楽、そんなおぞましくて気味の悪いものが口の端に漏れて、より一層、吉明を恐怖させた。


「ちちうえ、どうして、そのように、しかるの、ですか」


 吉明は息を詰まらせながら言った。吸い込みすぎた空気で、肺が痙攣しているのが分かる。


 ぜえぜえと息を切らしながら話す吉明に、勝明は歯止めが利かなくなったように吐き捨てた。


「お前が阿呆で、痴呆で、間抜けた盆暗だからだ!」


 そして、ぴしゃりと襖を閉めて出て行った。残された吉明の耳障りな高い声だけが、やけに遠くまで響いている。



 それ以来、吉明は今までの行動が嘘だったかのように、勝明に似た真面目な顔をして書物をあさるようになった。邪気のない黒い眼が、たどたどしく文面を追っていくその様子は、まさに勝明の幼い頃と瓜二つである。しかし、その様子に勝明との違いを見出すならば、その背中に、父親のしかめた面が向けられていることであろうか。


 吉明が、自らの父という存在に対して疑問というか、どこか薄暗い、靄のかかったような猜疑心を持っていたというのに否定はないだろう。


 それでも、勝明は満足した。自身の子息に良い教育ができたものだと、一種の自信を勝ち取って、戦に勝った時のような誇らしさを得たものである。


 それは吉明が少年から青年と呼ばれるようになる頃まで強く維持され、勝明に無限の安心と平穏をもたらした。




 吉明は父の思い描くような立派な将に近づいたと言えるだろう。


 そんなことを彼の周りの人間から発せられるようになるまで、短いとは到底言えない程の年月が経過した。


 吉明の背丈は父を超え、骨に絡みついた筋肉が引き締まり、瞳は常にどこかを見据え、たたずまい、雰囲気、発せられる空気感というものは、銅像のように重たく、その存在を体現している。


 知将の子息という地位、洗練された巧みな武芸から、親譲りと世間から言われるその聡明さ。吉明もまた、その乱世にふさわしい人になってしまった。


 さて、その吉明の元には、かねてより縁談の話がよく持ち込まれるようになった。吉明の実力と家柄は前述したとおりである。その実力を自分たちの家にも取り込みたいとひそかに願う家は少なくない。その思考が、縁談となって体現したのである。


 引く手あまたの縁談話。どの手を取るのかは吉明次第であったのであるが、実際は、吉明に選択肢はないに等しかった。


「この篠田の名に相応しい名家でなければ婚約など認めぬ。今まで寄越してきた縁談話を聞かせてみろ。儂が直々に判断をくだしてやる」


 そうしていつも勝明が口を挟もうとし、吉明が縁談の話に口を挟むことはなかったのである。こういったことが起きたのは少なくないので、吉明も手慣れたように早々に諦めをつけ、また新しく父に用意された書物を読みふけるのであった。


 見合いに発展するまでにはずいぶんと時間がかかった。縁談を持ち込んできた家は、どれも勝明を納得させるほどのものが少なく、結局は妥協に妥協を重ねて、やっとの思いでまとめたのである。


 その家の名を三輪といった。篠田ほどの地位はないものの、名は一般的な家よりも頭一つ抜けている。家の身内には、どこかで聞き覚えのあるような武将もいるようだ。勝明は渋い顔をしながら、腕を組んで重々しく頷いたのがその家であった。



 糊の匂いがまだ残る襖を開けた先には、黒髪が見えた。長く、艶を保ったそれが行儀よく背中を伝っている。色白な肌が鮮やかな着物の袖から見え隠れし、揃えられた両手は傷一つ見られず、その姿勢が織りなす影はよく洗練されており、上品な面持ちを見せていた。


 吉明は今までに女性と仲を親しくしたことはない。仕えている女中と話すこともしなかった。吉明が女性と話すところを見るのが、勝明にとって腹立たしいものだったから。


 その女は名を、松といった。歳は吉明よりも二つ下で、三輪家の長女であるらしい。ある程度の教養がある娘であり、静かで物言いの少ない、大人し気な印象を持たせる。


 勝明は当初から不満げな表情を覗かせていたが、松の様子を見て、少しばかり機嫌を直したようだった。自己主張が少なく、どこか弱弱しく、従順そうな、子犬のような雰囲気に満足したのだろう。


「あの娘なら、あれに変な干渉をすることはあるまい。これで世継ぎも生まれれば、この篠田家は安泰であるな」


 そんなことを、部屋の外でこぼしていた。


 縁談が徐々にまとまっていき、吉明と松とで何か話してみてはどうか、ということになり、部屋に二人で残されることになった。


 仲立ち役の者のにやにやとした笑みを最後に、その部屋に二人だけが取り残される。トン、という襖の閉じる音が聞こえたかと思うと、途端に、金を切るような静寂が訪れた。


 吉明は自分が思いのほか焦っていることに戸惑った。どうにも落ち着かない嫌な空気に咳払いをして様子をうかがうも、すぐにまた重い沈黙が流れてきてしまう。


 すると松は吉明の方に体を向けて、おもむろに両手を畳の上で揃えて言った。


「篠田様、このような不束な娘とお話をする機会を与えて下さり、感謝の意を申し上げます」


 そうして松は丁寧に頭を下げる。


「ああ、いや、こちらこそ……」


 吉明は言葉を喉に詰まらせながらも、ぼそぼそと返した。


「篠田様のような名家の方ですと、きっと縁談のお話も多かったことでしょう。その中で我が三輪家を選んでくださったこと、誠に恐縮で御座います」


 艶やかな声で言い切り、松は吉明に整った微笑を見せる。


 その口角の上がり方、眉の傾け方、目の細め方、その全てが、完膚なきまでに形式的であった。髪の一本一本すらも素直に流れに従っており、機械的な美、女という武器を最大限に引き出した姿を露わにしていたのである。


 従順な子犬のよう、というよりは、物言わぬ人形という方が正しい形容であろう。


 その様子を見、言葉を聞いた吉明は、この娘は自分に興味を持っていないのだろうな、と、そんなことを考えた。


 これから嫁ぐはずの家の様子、自分の命運を、大して気にしていないようにも思えた。この婚約が政略的意味を持っているのは明らかである。それゆえに、彼女はこの話に個人的な感情を持ち込まないように徹しているのだろう。


 吉明は、同情的な目線で松の色鮮やかな着物を見た。


 自分も父の決めることに従う際には、感情を持たないようにしてきた。その苦しさというか、悲しき慣れというか、そんなものが分かってしまうのだ。吉明は声を落として、その内心を読み取らせないように言った。


「もう構わない。楽にしていてくれ」


 結局、吉明は最後まで一度も彼女を見ず、姿勢よく立ち上がって、静かに出て行った。



 その二人の間に輝明と名付けられた男児が誕生するころ、篠田家が代々仕えていた大殿様が病に犯され、ついに息を引き取った。


 そしてそれに伴うかのように、篠田勝明も、その身を隠すことになった。


 晴れて篠田家を継ぐことになった吉明であるが、とある日、新しく大殿様の跡を継がれる殿様と二人きりでお会いすることになった。


 幼い日より吉明は、その部屋に入るのがすこぶる苦手であった。緊張した空気感に勝明の真面目な顔がより一層際立ち、聞き慣れない丁寧な話し方、黒い目が捉える大殿様の顔、それらが合わさり、一種の倦怠感というか、眉をひそめたくなるような嫌な感じがしてならなかったのである。


 それは篠田家の当主となった今も変わらず健在であった。麗麗とした梅の木が描かれた襖を前にすると、どうもあの頃に感じた嫌な空気が思い出され、しばし吉明をとどめるのである。


 少しの間、襖の前で佇み、ようやく覚悟を決めたというところで、部屋のなかに声をかけた。


「ああ、入ってくれ」


 若々しく通った声でそう言われ、吉明は緊張した面持ちで襖を恐る恐る開けた。


 そこで胡坐をかいて座っていたのが、のちに吉明が傍で仕えることになる若殿、木野助正であった。


 助正は吉明よりも十ほど歳が離れており、声の印象通りの若者であった。茜色の着物を少し気崩し、人よりもやや小さめの目で、遠慮がちに近づいてくる吉明を見据える。猫のように丸まった背中と、痩せて枝のようになった腕がだらしなさを見せるが、綺麗に揃えられた月代の頭を見ると、隠し切れない生真面目さがうかがえるようだった。


「適当に掛けるといい。大した話をするわけでもない」


 そう言った助正の目は、まるで商人が品を見定めるかのような重みが入っていた。吉明は無意識に背筋を正す。


「話は聞いている。篠田の倅は大層利口だとな」


 吉明が挨拶をする前に、助正は先に口火を切った。


「俺の父上も仰っていた。篠田の血は色濃く継がれたらしいと。その知がこれからどのように役立つのか、楽しみであるな」


 口の端を釣り上げたような不格好な笑みを吉明に向ける。それを聞いた吉明はぐるぐると回転する頭を置いてきぼりにし、口だけで「恐縮でございます」と答え、丁寧に頭を下げた。



 実のところ助正は、吉明にはあまり期待していなかった。


 吉明の風格は一流のものであり、あの名高い篠田勝明が直々に教育を施した、優秀な武人という評判は嘘ではないようだ。


 しかしながら、助正の眼にした吉明は、窮屈そうに身を固め、怯えた犬のように常に周囲を警戒している。何かを持ち上げることに必死で、自分の意思を図ることもままならないような、傀儡の匂を放っていたのだった。


 いくら歴戦の智将が手をかけて育てていたところで、結局のところ二人は別人であるようだ。先代に仕えていた勝明は、どんな時でも自我を忘れず、どのような人物にでも、ハッキリと自身の意見を言える人間であったと聞いている。その傍若無人な態度と知略の才が、木野家を大きくするのに大いに役立ったと。


 だが、今目の前にいるこの男は、その素質は根底から欠けているように見える。

吉明の皮を見破った助正は、ため息をつきたくなるのを抑えて、自身の表情が変わらないように努めた。


 しかし、見破っていたのは吉明も同じであった。


 助正は若く技量もあるが、幾分か本心を隠すのが下手である。助正が自分を見て落胆したこと、そして存外短絡的であること。それらが吉明に伝わって、彼は一層身を固めた。


 この人に嫌われてしまえば、それこそ一貫の終わりである。そんな警鐘がけたたましく脳裏を駆け巡る。吉明は乾いた空気を飲み込んだ。素早く思考を回すも、こればかりはこの場でどうにかできるような問題ではない。長い時間と功績が必要になるようであった。


 膝の上で固まった自身の拳が、巨大な岩のように重くのしかかるのを感じた。倦怠感のある体でそれを必死に持ちこたえるも、残念ながら下が畳である。吐いて許されるものもない、地獄よりも恐ろしいこの拷問が、濁流のごとくここに渦巻いていた。


 結局のところ、その場では当たり障りのない返事だけをして、退出の許されたときには、逃げるようにして梅の木の襖から足を遠ざけた。そして、あの恐ろしい主君に対してどうしたものかと、眠れない夜を不安と焦燥で過ごすのだった。



 戦の鬼才と呼ばれた男の名を、田尾成元と言った。田舎の小さい領地しか持たなかった田尾家を、その一代にして数万石を誇る大名にした男である。その寸法はいかにも破天荒といったもので、数々の戦の常識を塗り替えては、時によっては残虐な方法を用いて敵を滅ぼすという冷徹無比なものであった。


 その田尾であるが、近々、助正の領地を奪い取らんという勢いで木野領を攻めてきた。


 近辺の寺を焼いたり、豪商を暗殺したりと、炎の如く侵略の手を伸ばしてきたのである。最後に小さな集落を襲ったとき、田尾はとうとう木野に宣戦布告をしてきた。


 しかし、そう簡単に倒せるほど木野家は弱小ではない。


 元来、田尾領と木野領はかなり近しいところに位置していたのである。それにも関わらず、田尾は確実な力をつけるまで木野には手を出そうとしなかった。それどころか、まだ先代の木野領主の時代では和平条約を持ち掛けてきたくらいである。今までその条約は忠実に守られ、宣戦布告まで木野に戦乱の火の粉が飛ぶことがなかった。


 木野の陰口を叩いた者の腹を切らせた、という噂まで出回る始末である。その噂の真偽が分からないにしろ、そのような噂が立つという時点で、田尾がどれだけ木野のことを警戒していたのか、語るまではあるまい。


 だが、実のところ、木野家自身に多大な勢力があるわけではない。その後ろ盾となる武家が強大なのであった。


 木野は先代より子宝に恵まれていた。両手に余るほどの側室を構え、多くの血筋の子を作り出しては、様々な武家へと送り出す。数々の戦に参陣し、勝つ方の味方をし続ける。あの手この手を繰り出して、木野の血筋を他の武家にまで根をつけるのが、戦略の一つなのであった。


 そのため、木野を敵に回すということは、全国の武家を敵に回すことと同等なのである。戦上手として知れた田尾ですらも、数の利には手を挙げることが叶わなかったようだ。


「……それなのにとうとう、田尾の田舎武士が我らに刃を抜くというわけか」


 助正は、事前に田尾家に探りに行かせた忍からの書状を読み、薄い顎鬚を撫でてそう言った。


「近頃、どうも動きが派手になったと思っていたのだ。木野の血筋の多さを、あの程度で克服したというのかな」


 笑わせる、と言わんばかりに助正は冷ややかな視線を書状に落とす。


 呼び出された家臣団はその書状を囲むように円になって座っていた。そのなかには吉明も含まれているが、日常的にあまり顔を合わせることの少ない連中の輪の内に入るということは、立ち振る舞いを立派にするだけでも気苦労がするものであるようである。


 吉明はその主君の表情と書状とに目を向け、輪の中で肩身の狭い思いをしながら、ぐるぐると思考を回していた。


 書状が記すところによると、田尾の軍勢は約二万ほどであり、木野領の北側に位置する高山に本拠地を構えるそうだ。


 田尾家が勝利してきた戦の情報は前もって集めていたが、今回の宣戦布告と今までのものとは、あまり大きな差が見られない。むしろ少し軍勢が少ないようにも思える。


 かの一向一揆制圧のときも相手方の兵力が凄まじかったとはいえ、三万は兵を集めていた。それに比べると、この決して小さいとは言えない木野領を攻め落とすために二万程度しか集めないというのは、少し違和感が残る。


「たったの二万。これしきの兵力で木野に勝とうと思っているのですかなぁ」


 家臣団の一人、河野盛内が自らの禿げ頭を煌めかせながら言った。彼のその豪胆な性格は、田尾家の軍勢を甘く見ているらしかった。


 自身の腕に自信がある、と言ってしまえば聞こえがいいものである。しかしその自身によって身を滅ぼしていた者が少なくないのは、多くの書物を読み漁った吉明にとっては常識であった。


「我らがすぐに招集をかけて呼び出せる兵力はどのくらいだ?」


 河野の隣で姿勢よく座っている男、小林康元が落ち着いた様子を崩さずに、河野に尋ねた。


「まぁ、ざっと少なく見積もったとしても四万は優に超えるでしょうな。近隣の大名家に出した木野親族の力を使えば、もっと集められるでしょうが」


「そうか。田尾が滅ぼした家のなかに木野の名を持つ者たちが多く含まれていたからどうしたものかと思っていたが、まだそんなに残っていたか」


 そう言い放つ小林の言葉には、少しばかり棘があった。


 しかし彼の言いたいことも吉明にはわかる。


 田尾の起こした戦で、田尾の敵側に回った大名家の家臣団、もしくは従事した家には、いずれも木野の苗字の者が多かった。それによって敗死した親族も多い。


 吉明はひそかに、田尾の戦の話がされる毎に、木野家が崩壊に近づいているのではないかと踏んでいた。というのも、田尾が戦をして勝利するごとに、毎度毎度木野の者が亡くなっているのである。


 いくら多い親族とはいえ、殺されてしまえばだんだんと少なくなってくる。


 田尾が木野に直接手を出すことは今までしなかったが、隠れてじわじわと戦力を削っていたのではないか。吉明はそう読んでいたし、小林もそう考えているようであった。


「確かに前と比べると数は減ったさ。だがそれだけで地盤が崩れるほど、木野は弱小じゃない。そうだろう」


 助正が脇息に肘を預けて静かに息をつく。その表情には河野のものと同じ雰囲気が放たれていた。


「そうならば良いのですが。……篠田殿はどうお考えで?」


 と、小林が急に視線を向ける。吉明は内心で動揺しながらも、それを表に出さないよう努めて言った。


「私も、少しばかり数が減っておりますゆえ、このことをあまり軽く考えぬ方が妥当かと思います。実際に、木野親族としての味方が田尾によって減らされているという事実は、変わりませぬ」


 その答えに満足したのか、小林は少し表情を緩ませた。しかしそれとは対照的に、河野が大きな口を開く。


「いやいや、篠田殿は少々相手を過大評価しすぎではありませんかな。減ったとはいえど、今のままでも十分、相手を上回る兵が用意できるではありませんか」


「そうではございますが、相手は田尾です。どのような戦法で来るのか予想がつきづらいですので……」


「それを考えるのがお主の役割ではないか」


 と、助正は吉明に例の重々しい視線を向けた。吉明は内心震えあがりながら、軽い返事だけをして、口を閉ざす。


 その後はとんとん拍子で話がまとまっていき、兵糧の収集と兵力の確保と、各々に役割を与えられ、早々に戦の準備へと取り掛かることとなった。



 

 その晩、吉明はいつもの言われもない焦燥と不安とに苛まれ、それに加えて、日中のひどい暑さが夜にまで残り香を放っていたせいで、眠れない夜を過ごしていた。うちわを片手に縁側へと座り込んで半分欠けた月を眺めるも、吉明の頭はぐるぐるとしたまま、落ち着こうとはしない。片手のうちわも、ほとんどその役割を果たしていないようである。


 夜独特の匂いも、どこかの茂みから鳴る虫の声も、吉明の震えあがった精神を静めるだけには至らなかった。


 そんなとき、吉明の座り込む右手側から、トントン、と規則正しい足音が鳴ってきた。吉明の座っているそこは縁側の角を曲がったすぐそこにあるため、足音の主は分からない。音はだんだんと近づいてきているようで、迷いのない足並みは、確実に吉明の部屋を目標にしている。吉明は、まさか主君ではないかと危惧し、急いで眠ってしまったふりをしようと、立ち上がって襖に手をかけた。


 しかしそれに気づくのに少し遅かったようである。「篠田殿」と低い声がしたかと思うと、柱の陰から、小林の細い顔がこちらを覗いていた。


 吉明は主君でなかったことに内心安堵し、取り繕った冷静さを以て、「小林殿ですか」と言った。


「ええ、まあそのように固くなさらずとも……。まだ起きていらっしゃったのですね」


 小林は軍議のときとは打って変わって、棘の無いにこやかな顔を吉明に見せた。


「はぁ、これから寝ようかと思っていたところです」


「左様か。私はこの暑さのせいで寝ようにも寝られませんで。どうぞ少し、お話でも致しませぬか」


 と、小林はゆっくりとした足取りで吉明に近づいて、縁側に座るよう促した。吉明は俄然断る理由もないので、促されるまま、縁側に腰かける。小林はその様子を満足気に見落とすと、自身も吉明の隣へと腰かけ、半分になった月を見上げた。


「田尾の件、実に厄介なことになりましたな」


 小林が口火を切る。吉明はぼろを出さないように気を付けながら、「そうですね」と返事をした。


「あれはまさに軍神と言えましょう。田尾は恐ろしい。あれと同じ時代に生まれてしまったことを後悔しておりますよ。……先の笹垣の合戦のお話はお聞きになられたか」


「ええ、知っております」


「流石は篠田殿だ。智将と呼ばれるだけはありますな。笹垣の合戦でもそうでしたし、その他の戦だって、田尾の戦略はどんな相手よりも一枚上手でした。家臣の力が強大だということもありますが、あれは力の使い方が上手い。どこに何を配置すればいいのか、どのように使えば最も強力な力を発揮できるのか、分かっておいでなのですよ」


 そう言う小林の横顔を、吉明は何ともなく横目で見た。小林はどこか虚空を見つめており、話に出す田尾のことを心酔しているような表情を浮かべている。口ぶりからも言葉からも雰囲気からも、どことなく小林は、田尾に対して憧れのようなものを持っていると感じさせてならなかった。吉明は何となくその後の言うことを察し、どうにかこの場を離れるだけの言い訳がないかを探す。


「それは結構なことですね。木野の相手にとって不足はないかと」


 そう適当に返事をするも、吉明はうちわを縁側にそっと置き、部屋の中においてある刀のことを思った。あいにく、今は丸腰であった。


「そうですな。……しかし、少しばかり分が悪いとは思いませぬか」


 小林はそういって、月明かりに照らされた顔を吉明の方へ向ける。吉明はしまったと思いながら、気づかれないように小林と少し距離を取った。


「何がでしょうか」


 平静を取り繕って言うも、吉明の動揺は相手に隠せていないようであった。


「智将と呼ばれるほどの貴方だ。私が言わんとしていることは、もうお分かりになっているでしょう」


 小林の顔には月の影が落ちており、半分が黒くなっていた。その闇の奥に何を潜めているのか、と吉明は思うと、得も言われぬ恐怖がひっそりと背後に立っているのを感じる。


「どんな名刀だって、使う者によればなまくらになってしまう。木野はたくさんの名刀をなまくらにしているとは思いませぬか、篠田殿」


「……」


「何せ、河野の阿呆を一番に可愛がっている主君です。今日の軍議で確信致しました。貴方は木野には勿体ない人だ。今、田尾様の方へ寝返る意思を表明すれば、家老として迎え入れてくださるそうですが……。いかがいたしますかな」


 小林は終始に笑みを絶やさないが、その無理に上げられた口角が、不気味な雰囲気を吉明に見せている。


 そして、庭の茂みの中、屋根裏、そして縁側の下に、それぞれ忍が潜んでいるようであった。吉明は小林が隣に腰かけたときに気づいたが、思えば、小林が吉明の元へ来る前から潜んでいたのかもしれない。咄嗟で思いついたことを話しているのではないということは容易に想像がつく。


 つまりは、今ここで断れば殺される、ということであった。


「……篠田殿という多才な武人を、何の活躍もないままに葬ってしまうのは、心苦しいのでございますよ」


 小林はそんなことを言った。


「……そのことを知っているのは、小林殿のみなのですか」


 吉明は冷静さを必死に持ちこたえて言った。


「いえ、もう大勢の者が知っておりますよ。今日の時点で、木野領の多くはもう田尾様の物となっております。兵役を呼び掛けたところで、木野に集まる兵の数は、多く見積もっても、八千に満たないほどでしょうか」


「少し、考える時間をくださらないか……」


「申し訳ないが、それは出来ないご相談です。篠田殿が完全にこちら側へ来るまでは、貴方は私の敵でございますから」


 と、小林は袂に隠していた小刀を見せる。


 吉明はその場から逃げ出したい気持ちをぐっと抑えた。そしてどのような返事をするか考えるたび、あの恐ろしい父の顔がよみがえってくる。


 父の教えに則ってここで死ぬか、歯向かって生きるか。どちらに行っても、吉明にとっては地獄であった。考えを回すたびに、恐ろしいと思ってきた者たちの顔と声が響いて、気が狂いそうになるのを必死にこらえた。張られた右頬が今頃になって焼くような痛みを思い出し、複数の鋭い視線が、まだかまだかと催促をして脅してくる。


 ふと、どこからか弓を引く音が聞こえた。




 自らの声と周囲の熱気が混ざり合い、吉明は自分がどこにいるのか見失っていた。父から譲られた甲冑を橙色で変色させ、すべてを飲み込まんとする闇を天井に携えて、吉明はそこに立ち尽くしているのである。本来ならば背を預けているはずの御旗が、今は吉明のその眼前で燃えている。何よりも恐ろしかったものに、初めて刃を向けたのであった。そしてそのことに、自分が一番悔やんでいるのであった。


 心臓が二つあるかのようである。一方では波風一つとして立たぬ平静を取り巻いており、一方では嵐のような感情が暴れつくしている。あの小林の脅迫のとき、吉明はいたって冷静であった。そして一番理性的であった。その中で、自分の本心に則って、それを下したのである。


 吉明は目の前に転がっている二つの首を前に正座する。一つは見るに堪えないほどに形崩れ、既知の間ですらも判別が困難になった河野の首。そしてもう一つは、あのときの重たい商人の目を残したままの主君であった。


 主君の首は両目が半分開いており、死体独特の重厚感、そして自らの罪悪の結晶が幻覚を見せ、以前よりも毒々しい。吉明の方をわざと避けているようにも見えるし、もうすでに機能しなくなった口の中で、恨み事を練っているようにも見える。


 吉明は内臓が宙に浮いたような心地がした。心血が滞り、まるでどちらが生者なのか全くわからなかった。持たされた武器によってそれが成されたのだと思うと、身体の奥底から脂汗がにじみ出てくるようであった。あの恐ろしい父の顔がよぎっては、奥歯をガチガチと、気違いみたく揺らすのだ。




 夜が明ける。真っ暗な天井がようやく青色を見せ始め、蜘蛛の糸ほどのうっすらとした光が、地平線の奥からゆっくりと溢れ出てきたときだった。


 ふと、吉明は、青い霧がかかる山の麓の方へ顔を向ける。そして何かにつかれたかのように、おぼつかない足で視線が向く方に歩み出した。


 その見たこともない吉明の様子に気づいた若い兵が言う。


「殿、どちらへ」


 吉明がその声に応えることはなかった。一流の武士の風格が消え失せた、子供のころのような猫背のみが、吉明の残した唯一の遺言であった。


 吉明の死にざまを、明確に知る者はいない。

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人面獣心 かえさん小説堂 @kaesan-kamosirenai

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