■37 〈司書のルールブック〉


「……ノーマさん」

「大丈夫か、フォルカ」


 ナイフをその場に取り落としたノーマが、ゆっくりと立ち上がって、フォルカへ向き直る。フォルカは座り込んだまま、シュトゥだった文字のかけらが虚空に消えるまで見つめていた。

 ノーマの心配そうな声と、表情。ダイスの力を使いすぎれば消える、と、聞いていたからだ。


「はい……だいじょうぶ、です。立てないですけど……」

「……俺も限界だ。誰かが来るまで休むか」

「そう……ですね。……先輩も、さがさないと」


 どさり、隣に腰を下ろして座る。石畳の残骸、白い砂がひらひらと舞う中、ふう、と二人の吐息が重なった。


「で、あれだけ派手にやっておいて、なんで無事なんだ?」

「もうちょっと優しい聞き方をしてください……ええと」


 二人とも、会話を途切れさせると意識が飛びそうな状態だ。

 フォルカが胸元に握り締めていた手をゆっくりと緩める。七つ握ったダイスのうち、二つが手の中に残っていた。


「正直、わかりません。ただ、あの時は……『わかった』んです。五つで届きそうだ、と。……それでも、分が悪い賭けでしたけど。シュトゥの解釈より、私の解釈が深かった、ということかもしれません」


 のろのろとした動きで、ダイスを腰のポーチに仕舞う。

 そして、ポーチの隣に固定してあった小さな本を取り出した。フォルカのルールブックだ。


「そんなことより、ノーマさん」

「自分の命をそんなこと扱いかよ」

「いつだったか、約束しましたね。本が必要な理由を、わかってもらえるように説明すると」

「そうだったか?」

「そうです!」


 フォルカは、手の中の本を示す。見せつけるような動きだけは、しっかりと力がこもっていた。

 流石のノーマも、その本からは視線を逸らせない。


「この本は、私の足跡です。未熟で失敗ばかりの恥ずかしい足跡ですが……後から続く誰かは、きっと私よりも遠くへ辿り着くでしょう」

「……別に、今いる場所だけを守れればいいって奴もいるだろ」

「かもしれません。でも、ノーマさんがより良い演技を求めるように、ニギンさんやメアリさんに夢があるように、人は……きっと。新しい景色を見たい生き物なんです。一歩ずつでも、先に進んで」


 ノーマが、ひょいとフォルカのルールブックを奪った。

 あ、と声を上げるフォルカを無視して、ぱらぱらとめくる。持ち方、ページのめくり方からして、本に触れ慣れていないのは明らかだった。

 月明かりに、虎瞳をすがめる。


「どう……でしょうか?」

「……ふん。……読めねえけど、土のことが書いてあるのはわかる」

「結構、恥ずかしいです……」

「本が読めたら、俺も新しい景色が見られるか?」

「少なくとも、その道行きを支える道標になるでしょう」


 最大限の丁寧な手つきで、ルールブックを返す。

 文字が読めなくとも、土の知識がなくとも、細かな文字と丁寧な図表に込められた熱意は伝わるものだった。


「ニギンとメアリを育ててやらなきゃならねえし。文字、習うか」

「はい、是非」


 会話が途切れたのを見計らったように、馬の足音が聞こえてきた。

 コーエンの部下の騎士たちだ。貪食の獣が見えなくなって、偵察に来たのだろう。警戒しながら馬を走らせてきた彼らは、脱力しきって座り込むノーマとフォルカの姿に、一瞬あっけにとられたようだった。


「獣はどうした!?」

「――文字に還しました。もう、大丈夫です」


 フォルカの声の、断言の響きが伝わったのだろう。騎士たちが安堵と驚愕に吐息をこぼす。


「本当に……あんな巨大な【物語】を」

「……で、悪い、動けねえ。連れて帰ってもらえるか」

「それと、街の東側に、私の他にもう一人司書がいるはずなんです。どうか、探してください」

「わ、わかった」


 騎士がそれぞれ、伝令に走り、二人を支え、と慌しく動き始める。


「おい、フォルカ」

「ノーマさん」


 手を借りて立ち上がりながら、二人は視線を合わせて、笑った。



「いい剣だった」

「最高の演技でした」

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