■36 ハレウエスの剣(3)


 フォルカは思考に沈み切っていた。どこか遠いところで強い衝撃を受けた気がしたが、思考を乱すほどではない。

 泥や土の知識を遡れば、神話に行き着くのは必然だ。ヒトはずっと、大地の上で暮らしてきたのだから。


 今まで集めてきた知識と知識が、ひとつのテーマに貫かれて繋がっていく感覚。思考とは、知識を頂点とし、考察を面とする宝石を、慎重に削り出すような業だ。

 知識も考察も、まだ拙い。司書として、研究者として、フォルカはまだ未熟だった。


 だとしても、確かに。


(ああ、これが)


 フォルカは、思考の中に世界の始まりを見た。


 端的に言えば、それは誤りだ。乏しい知識と危うい仮説の柱で支えられた、妄想でしかない。

 フォルカ自身も誤りだとわかっていた。正しくない。全く完全ではない。わかった上で、見つけた答えを抱き締める。以前のフォルカならば、誤りと知ってなお形にすることを、自分自身が許さなかっただろう。だが、彼女は既に知っていた。


『評価するのは客だ』


 ノーマが受け継ぎ、フォルカに伝えた教えは、少女の笑顔という確かな納得の証と共にあった。


(ならば、この誤りには、意味がある)


 彼女の誤りを、誰かが正すだろう。誰かの誤りが、また別の誰かを少し遠くへ導くだろう。フォルカの答えは、いつかの未来に、誰かがより良い答えに辿り着くための、小さくとも確かなマイルストーンだ。


(書かなきゃ)


 フォルカの内心に、火のように燃え盛る衝動が生まれた。

 拙くとも、足りなくとも、この答えを記さなければ。ルールブックに書き残し、誰かに伝えなければ。ヒトはそうやって、足跡を一歩ずつ刻んで、遠くまで歩いてきたのだから。

 足跡の連なりを、本と呼ぶ。


(この衝動を――本の大切さを、あのひとに、伝えなければ。まだ、終われない……!)

 


「石の……塔……?」


 ノーマの目前で、貪食の獣の爪を防いだのは、石造りの柱であった。灰白色の、自然の岩を削り出したような石柱が、地面から生えて攻撃を防いでいた。

 フォルカをかばうように抱いたノーマに、ぱらぱらと石のかけらが降る。貪食の獣の〈神域〉に入ったものは全て白い砂となるまで喰われる……そのルールに漏れず、石柱はすぐに一握の砂となって崩れた。


 だが、石柱は一本ではなかった。

 大樹のような石柱もあれば、ただ土を盛った塚のような塔もある。その全てに、異国の文字が刻まれている。数えきれないほどの『塔』が、貪食の獣を阻むように突き立った。


 闇の毛並みに触れる前から、石柱は崩れていき、砂に変わる。だが一部の石柱は残り、獣の動きを制限する。苛立たしげに唸った貪食の獣が、首を、前足を振るい、石柱を砕く。破砕される音が響き渡るが、砕かれる端から別の石柱が周囲から屹立し、貪食の獣を通さない。


「すげえ……」


 ノーマの呆然の声。

 石柱の群れが尽きるまで、数十秒。

 世界の終わりを数十秒とどめた大魔術は、偉業と呼ぶに相応しい。

 そして、フォルカの詠唱が完成する。


「補天、龍の女神の名を頂き称す。原初の混沌――〈女媧泥じょかでい〉」


 瞳を見開き、眼鏡のレンズの向こうに、貪食の獣を捉えてフォルカは告げた。

 胸に抱き締めたダイスが輝く。輝きは一瞬。貪食の獣を中心に地面に広がっていた白い砂が、色を変えた。

 白から、茶色へ。砂から、泥へと。


『――』


 突如として現れた泥沼に、貪食の獣が沈んだ。もがくほどに泥は絡み付き、深く沈んでいく。その首元で、しがみついたシュトゥが驚愕を叫んだ。


「世界の終わりを! 沈めるつもりッ!?」

「泥は全てを内包するッ! ノーマさん!」

「全く、派手な舞台装置だ!」


 フォルカを放り出し、ノーマが駆け出す。腰から、〈ハレウエスの剣〉を引き抜いた。

 貪食の獣は更に沈み、その頭は既に、二階ほどの高さまで落ちている。


 僅かに残った石柱を蹴り、駆けあがって、ノーマは飛んだ。

 迎え撃たんと、獣があぎとを開く。巨大なあぎとの、上下の牙の隙間を縫って、肉の色をした咥内の奥へと。


「ああああああああああッ!!!!」


 剣を、突き立てた。


『――――!』


 咆哮も、悲鳴もない。

 黒の狼の毛並みが、衝撃が伝わるように一瞬で波打ち、震え、解けるように文字となって弾け散った。


「ぐっ」

「あ、っ……」


 支えが消えて、ノーマとシュトゥが、地面へと落ちる。

 べちゃり、と、二人を柔らかな泥が受け止めた。その泥もまた役目を果たし終えて、ほのかな光となって消えていく。


「ああああ……おおかみさん……おおかみさん……? いたいよ……どこ、おおかみさん……」


 シュトゥは、泣いていた。痛みを訴えながらも、悶えもせず、脱力しきっている。身体は末端から、文字のかけらとなって崩れていく。


「……」


 折れかけた剣を杖のようにして立ち上がったノーマが、少女を見下ろして、隣に立った。

 涙の浮いた瞳が、無感情にノーマを見上げる。その唇が、笑みの形に歪んだ。


「あは。はやく……ころしてよ。わたしは、狼さんの、伴侶なんだから」

「……ある種の【物語】は……ヒトを、取り込みます。ヒトに使われる立場の、武器や道具、使い魔などです。そして……長く取り込まれた者は、【物語】の一部となる。……彼女が、『ハレウエスの乙女』だったんです」

「……そうかよ」


 フォルカの解説に、ノーマは表情を変えることなく、その剣を……地面へと突き立てた。沼から砂へと戻った地面に剣が刺さり、手が離れる。


「……この剣は、狼を倒す戦士の剣で……人を守る司書の剣だ」


 代わりに、腰の後ろから短剣を引き抜いた。大ぶりなナイフは護身よりも日常生活に使う、手になじんだものだ。


 ナイフを手に、呼吸を二つ。

 ノーマの膝が震え出す。ナイフを握った手も、力が入りすぎている様子で、胸元で震える。長いまばたきを終えた虎瞳には、僅かに涙が浮いていた。


「は……」


 小さく、声が漏れた。

 戦士から、ただの青年に戻ったノーマの、ありとあらゆる感情が籠った吐息だった。

 搾り出すような声が震えるのは、恐怖か、怒りか、ノーマ自身にもわからなかった。


「だから、シュトゥ。お前は……俺が、俺の意志で、殺す。一座の、仇だ」

「……いやだ。わたしは、おおかみさんと」

「人間として、死ね」


 ナイフが落ちる。少女の首に刃が突き刺さり、白い服を着た身体がびくりと震えた。

 シュトゥは、二度と動くことなく、文字となって散った。

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