■断章


 ほんの少し前。

 街を往く巨大な獣を、遠くから見つめる視線があった。


「全く。とんでもないことを考えるものだ、私の後輩は」


 悲しみと誇らしさ、その表現としての笑みを含んだ声が、夜の闇に溶けた。

 コナドの街の東部、太陽の神を祀る神殿の屋根である。月光に照らされる大聖印に、不敬にも、一人の女が寄りかかっていた。

 身を起こす仕草に呼応して、ぎしり、ぎしりと、金属が擦れる不快な音が響く。


「……これでは、遅いと叱れないな」


 金属が擦れる音の出所は、女、アンドレアの手足だ。失われた両腕と右脚の代わりに、金属製の義腕と義脚が、動くたびに音を響かせる。動きは出来の悪い操り人形のようで、人間の動作を拙く真似る。

 司書のジャケットは、破れ、ほつれて、黒い血痕にまみれている。その有様で、千切れかかったネクタイをしっかり締めているのは、何かの冗談にしか見えない。


「少しばかりの時間は稼いでやるのが、先輩の甲斐性というものか。やれやれ――」


 作り物の指が、ダイスを掴む。

 鋼のダイスを、鋼の腕が掲げた。

 義肢と生身の接合部からは、今も血が滲んでいる。痛みは、もはや熱さとしてのみ感覚されていた。


「人を鍛えるというのは、鋼より難しく、誇らしい」


 ダイスが輝く。

 義肢の指が開き、ダイスを投じる。ぎこちない動きだが、落としたのではなく、確かに意思を持って投じた。石畳にダイスが跳ねる。意思が重要だった。知識と可能性を以て困難に挑むという意思が。


「"建ても建てたり、法の塔"」


 かつて、遥か東の国に、無道の王がいた。王は九十九人の兄弟を殺して王位につき、五百人の臣下を殺して権力を握った。

 だが隣国を攻め滅ぼした時、その恐ろしさに自らの所業を顧み、法と信仰を守護する王となったという。国の安定を祈り、法と信仰の勅を刻んだ石塔を各地に建てた。


「"積みも積んだり、八万四千"」


 かの王は、晩年には地位を追われ幽閉されたと伝説は語る。次代には国は乱れたとも。結局のところ、法と秩序は常に善であるとは限らない。


 では、王の行いは無駄だったか。

 否、とアンドレアは考える。

 積み、建てて、刻む。


 王は死に、国は滅び、だが王が積んだ石柱は二千年の時を経てなお、かの地に意志を伝えている。

 時に後退しながらも一歩一歩を刻み続ける。いつか、どこかに辿り着くために。可能性にすがるのではなく、可能性を広げるために。


 小さくとも、刻んだ一歩は、決して裏切らない。


「――〈無憂の柱道アショーカ・ストゥーバ〉」


 ダイスが輝く。石畳を魔力が走り、貪食の獣の周囲、白い砂と化した滅びの〈神域〉を貫いて、無数の石柱が生えた。


「……っぐ」


 切り札を放ち、全精力を注いだアンドレアの義肢が、ほどけるように細かい光の粒子となって消えていく。ふさがっていない傷を覆う包帯には、今も血が滲み続けていた。

 ダイスの投射によって形作られた義肢が消え、残った左足だけで大聖印に寄りかかる。


「鉄腕ゲッツを気取るのも、楽ではないな……」


 かつて鉄の義手で剣を振るったという騎士の名を出して、痛みから気を逸らす。表情を歪めながらも、視線は黒い獣へと向け続ける。

 倒れるわけにはいかなかった。後輩の研究発表はれすがたを見届けるまでは。


「……生きてこそだぞ、フォルカ」


 自分の教えが後輩に根付いていることを、アンドレアは信じ、祈った。

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