5章

■32 断章

 闇色の繭が、胎動する。

 シュトゥは、その内側でまどろむ。うつらうつらと、夢を見ていた。


『めでたし、めでたし』


 夢の終わりは、いつも、年老いた女の声で終わる。

 けれど、今日の夢は終わらなかった。


 狼と出会った時の情景が浮かび上がる。

 当時の少女は、山賊の根城に囚われた女たちの一人だった。人買いに売れないような子供や年老いた女が何人か捕らわれていて、料理などの雑用をさせられていたのだ。わずかなパンとスープ、足首に絡む鉄の鎖が、その報酬だった。


 孤児として数年、虜囚として一年。少女が生きた時間は、世界の全てに絶望するのに十分な時間だった。


 狼の【物語】は、突然現れた。山賊の戦利品に本が入っていたのか、近くの国から彷徨って来たのかは、わからない。

 確かなことはひとつだけ。山賊の根城、山間の廃砦にいた者は、全て喰われた。少女だけが生き残った。


「……」


 逃げ出した者は背中から、立ち向かった者は腕から、祈る者は頭から喰われた。山賊も、囚われていた女たちも、全員喰われた。少女は、重なる悲鳴を布の山に埋もれて聞いていた。


「いいかい、ここから出るんじゃないよ」


 そう言って少女を隠した老婆も、喰われた。

 狼は布を剥ぐと、赤い瞳で少女を見つめた。


「……わたしもたべて」


 少女は拙くお願いをして手を伸ばす。だが、その手を迎えたのは牙ではなく、鼻先を寄せるような仕草だった。

 何故喰われなかったのか、少女にはわからない。わからないまま、狼に身を寄せた。


「狼さん。私は……、……私は、シュトゥ」


 黒狼が最後に喰った老婆は妙な女で、山賊に捕らわれて手ひどく扱われているくせに、笑顔を絶やさなかった。口が悪く、山賊に良く殴られていたが、決して殺されはしなかった。少女たちを集めておとぎ話を語った。おとぎ話の最後は常に『めでたし、めでたし』だった。料理の材料をくすねて、女たちにお菓子シュトゥルーデルを振る舞ったことすらあった。

 だから、シュトゥと名乗った。老婆のお菓子は、短い人生で一番美味しかったから。


「いっしょに、いてくれる?」


 黒狼は少女の顔を舐めて答えた。

 少女は黒狼の背に乗り、山賊の根城を出た。


 放浪する中で出会ったある人に、色々なことを教わった。文字の読み方、黒狼が【物語】であること、他の【物語】と仲良くなる方法、そして黒狼をもっともっと強くする方法。

 何よりも、世界にはヒトと本が溢れていることを知った。


「行こう、狼さん。ヒトは要らないけど、ご本はいっぱい読みたいわ」



 長いようで短い走馬灯ゆめから覚める。


 シュトゥは目の前にある闇をそっと撫でた。撫でたところに、毛並みが浮かび上がる。

 んん、と声を上げて、丸めていた身体を伸ばす。


 黒狼の姿はない。正確に言えば、闇色の繭そのものが、黒狼だった。【物語】が少女の認識を受けて、自らの存在を拡張するための繭だ。

 シュトゥの目覚めとともに、黒狼もまた目覚める。


 『貪食の獣』として。


「おはよう、狼さん」


 繭が、解けるように消える。

 外は既に夜だ。太陽は沈み切り、月が浮かんでいる。


 地面に降り立ったシュトゥの隣に、獣がいた。

 狼に似たシルエット。輝いてすら見える紅玉の瞳。夜より深い闇色の毛並みは、それ自体が生き物のように流れ、蠢いている。

 少女と視線の高さを同じくする大きな獣へと、シュトゥは微笑みかけた。


「頼もしいわ」


 いつものように首筋を撫でようと、シュトゥが手を伸ばす。

 触れた瞬間、指先が消えた。手首の辺りまで、グラデーションを描いて透けていく。

 気にせず手を動かし、闇そのものである毛並みを撫でる。獣が前足を畳んで伏せ、その背にひらりと跨った。


「行きましょう。世界を食べに――手始めに、この街をぜんぶ」


 歩き出す先には、コナドの街がある。

 市壁の門は固く閉ざされていたが、貪食の獣が前足を振るうだけで、砂と化して崩れた。

 騒ぐ者はいない。街は静まり返っている。だがシュトゥは知っていた。慌てて逃げ出した住民が領主の館にいるはずだ。


 ゆっくり追い詰めて、食べてしまえばいい。

 貪食の獣が踏み出した、静かな大通り。月明かりの下、二人の人影が見えた。



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