■31 鋼


「やってるかね?」

「あ、伯爵。コーエンさん! 怪我は大丈夫ですか?」

「問題ない」

「忙しいんじゃないの?」


 マティアスが書庫を訪ねてきたのは、しばし経ってからのことだった。コーエンを従えている。

 書庫の前で、メアリとニギンと行き逢った。二人は手にしたお盆にお茶のセットを載せて、ちょうど書庫に戻ってきたところだったらしい。マティアスがそっと扉を開いてやり、ぺこりと頭を下げて二人が書庫へと入る。


「ですから!」


 出迎えたのは、フォルカの怒鳴り声だ。

 扉が開いたことにも気付かず、書庫の中央でノーマと睨み合っている。


「当時は剣術の黎明期、派手な構えは不自然です! 剣術の概念が確立するのは古典の時代から二百年は後です!」

「アホか! 剣を振ってる、って観客に伝わらなきゃ意味がねえんだよ! それに、棒を振ろうとすれば似たような動きになるだろうが!」

「ではせめて、その無駄な動きはやめてください!」

「無駄だと!? 剣の重さを表現するのに――」

「ノーマさんなら大袈裟にしなくても伝わります!」

「……お、おう。わかってるじゃねーか」


 二人のやり取りが一息ついたところで、マティアスが大きく咳払いをひとつ。

 ノーマが物差しを置き、向き直る。


「コーエン! 動いて平気なのか」

「命には関わらない。だが戦闘はできないだろう」


 コーエンの右腕は長いコートのような上着に遮られて見えないが、肘から下で、袖が垂れ下がっている。

 実直な騎士らしい、端的な返答だ。その端的さに滲む悔しさを取り繕わないことが、彼の強さだった。


「ごめんなさい。私をかばって……」

「騎士の務めです、フォルカ殿」

「モンテ領で最強の騎士でも敵わなかった相手。どうかね、対応策は?」


 マティアスの問いに、フォルカとノーマが顔を見合わせて、頷く。


「戦えます」


 勝てる、ではない。だがフォルカの答えは力強い。

 一方的な蹂躙ではなく、抵抗できる状況まで持っていくだけでも僥倖だ。【神話】とは本来、立ち向かうことなどできるはずのない存在だった。

 声には、抵抗を成しつつあるという手応えがこもっている。マティアスにも伝わったのだろう、伯爵は大仰な仕草で頷いた。


「何よりだ。我々に手伝えることはあるかな?」

「ええと……戦うにしても、街の人を守ることができません。出来るだけ避難をお願いしたいのですが」

「ああ、避難は既に始めている。この屋敷と、大地の女神オードラの神殿で受け入れる。既に隣領へ避難を始めた者たちも、ひとまず無事だということだ」

「ありがとうございます」

「なに、無駄に広い屋敷を維持しているのはこういう時のためだからね」

「……それで。戦えるという方策は、具体的には」


 コーエンが問う。

 フォルカが頷いて、ダイスを握り締めた。


「ちょうどよかったです。コーエンさん、伯爵にも、意見を伺いたかったので。……お見せします」


 息を整えて、瞼を閉じる。ダイスを握り締めた手を胸元に。


「製鉄……鍛造……焼き入れ……堅牢に……重い、長剣……」


 思考の中で、鉄を打ち、剣のかたちに整える。


 先輩、アンドレアならば、まばたきほどの時間もかからない手順だ。早く、正確に、と焦る思考を、フォルカは必死に追い出す。それは不純物だ。思考のノイズは、イメージを揺らがせ、投射の質を落とす。

 必要なのは、目の前の鉄に、自らの知る限りの知識を詰め込むことだ。


 ――ふと、いつかの夜を思い出す。

 鋼のダイスを弄びながら、アンドレアが話してくれたことがあった。


『重要なのは理解だ。歴史、定義、理論……味、匂い、手触り。素材と手順の理解を、詰めれば詰めるほど、鋼は硬く、しなやかになる』


 脳裏に響く、金槌の音。鉄を鍛える炎の色。飛び散る火花の匂い。


『ダイスはヒトの可能性の具現。実力を超えたものは投射できない。だからこそ知識と理解を深めろ。ひとつひとつ刻み続けろ。……結果はダイスの出目次第でも、刻み込んだ固定値は、決して裏切らない』


 フォルカは祈る。

 自分の可能性が、刻み込んできた知識が、英雄の剣に届き得ることを。


「――剣」


 ダイスを握り締めた手を、頭上へと高く掲げる。ダイスの輝きが手の内から漏れて、光は剣の形を取った。


 白に輝く、鉄製の剣が手の中に現れる。

 皆が見惚れて、吐息する中、ノーマが口を開いた。


「……おい、なんだこの色気のねえ剣は?」


 剣は飾りが一切なく、柄に滑り止めとして巻かれている布も白い。ただ剣であるというだけの見た目だった。

 フォルカは澄ました顔で頷き、剣をノーマに手渡す。


「宝飾技術はまだ未成熟ですし、華美な装飾は王侯貴族の象徴としての剣に限られていたはずですから」

「闘技場の花形だぞ。飾りのひとつもあったに決まってる!」

「剣闘士の剣の装飾、なんてマニアックな資料どこにもありませんよ!」

「知らねえなら想像しろ! 色は! 飾りは! 宝石は!」

「当時の高貴な色は金、紫、青……でもあくまで平民ですから……様式は流行りの……」


 剣を間に置いて言い争いを始めた二人に、マティアスたちが苦笑する。

 もちろん、そんな周囲の様子にも気付くことなく、議論は白熱していく。

 マティアスが口ひげを撫でて、楽しそうに頷いた。


「なるほど。確かに、この熱量ならば戦えそうだ」

「……かもしれませんね」

「よし、コーエン。伯爵命令だ。本職の騎士をさしおいて楽しく議論している彼らに、知恵を授けてあげなさい」

「はッ。フォルカ殿、刃の鍛え方ですが……」

「ふん、演技のことなら私たちだっているんだから! ね、ニギン!」

「だね。ノーマ、フォルカさん、お茶、入ったよ」


 一振りの剣、一篇の物語を巡る喧々諤々の議論は、黒い繭に動きがあったと報告が駆け込んでくるまで続いた。

 ちょうど、太陽が沈んだ瞬間だった。


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