■23 〈待ち人オオカミ〉(2)
泥まみれの〈待ち人オオカミ〉に向かって、ノーマが走る。姿形は全く同じだ。気味の悪さを噛み潰し、怒りに牙を剥くような表情で、勢いのまま殴りかかった。
肉がぶつかる音。
弾かれたのは、本物のノーマの方だった。〈待ち人オオカミ〉が無造作に腕を振るっただけで、防ぎきれずに壁に叩きつけられたのだ。
「がっ……!?」
「ノーマ!」
「やだ……」
メアリと、メアリを庇うように抱きしめたニギンが、悲痛な声をあげる。
「ニギンさん、メアリさん。逃げられますか。危険な【物語】がいる、騎士を呼んで、と誰かに伝えてください」
「む、無理よ……や……みんな、殺されちゃう……」
「……わかり、ました。行こう、メアリ」
震えているメアリを立たせて、ニギンが歩く。追わせないようフォルカがダイスを手に立ちはだかり、〈待ち人オオカミ〉と対峙する。
「大丈夫ですか、ノーマさん!」
「楽勝……げほっ、だっての」
ノーマも壁に背を預けながら立ち上がる。視線の先、ノーマの姿はもうない。侵入者は、今や人間の姿をやめていた。動きを見逃さないように睨んでいたはずだが、ノーマにもフォルカにも、姿を変える瞬間は見えなかった。
異形の狼。
人の骨格に、狼の肉体を乗せたような違和感。二足で立ち上がった、戯画化されたような肉体は、上半身がアンバランスに大きく、狼男を彷彿とさせる。黒褐色の毛並みに覆われた長い腕は、手首から先だけが白くしなやかな人間の女性の手に変わっていた。
頭は完全に狼だ。牙を剥き出しに、だらだらと涎を垂らして、濁った瞳でノーマとフォルカを睨んでいる。
「……うわ。思った以上に化け物だな」
「すでに何人も喰って、存在強度を高めていますね……。抑えて、騎士の皆さんが来てくれるのを待ちましょう」
「素直に大人しくしててくれりゃいいんですがねえ!」
もちろん、そうはならなかった。
『ただいま! ただいま! ただいま!』
がらがらと不愉快な唸りが混じった声で、〈待ち人オオカミ〉が吠える。吠え声は、数十人の老若男女が同時に叫んだような不思議な重なりを持って響いた。
声とともに、ノーマへと襲いかかる。太く長い腕が振るわれて、白い女の手が薙ぎ払うように壁を切り裂いた。
ノーマは必死に身を投げ出して直撃を避ける。先ほど殴られた腕が、熱く疼いた。骨にまで傷が入っているかもしれない。
「ぐっ……。ふざけた
「〈沼裂きの櫂〉! ノーマさん!」
フォルカがダイスを投じる。輝きから、重厚な木材を使った櫂が現れる。〈沼裂きの櫂〉を掴んだノーマが、その重さを振り回すようにして叩きつけた。〈待ち人オオカミ〉が腕を振り上げて、振り下ろす。
櫂は軋みもせず、女の手の姿をした【物語】の一撃を受け止めてみせた。互いに僅かに弾かれて、その隙にノーマが数歩下がって距離を取る。
『お母さんだよ! お母さんだよ! お母さんだよ!』
けたたましく吠えて、〈待ち人オオカミ〉は腕を振るう。乱暴で、強引な動きだ。ただひたすらに膂力を押し付ける暴力の行使。ノーマは櫂を立てて必死に防ぐが、体格も膂力も勝る【物語】に圧倒される。もともと構えだけの武術など発揮する暇もない。
「ぐっ……この……おいフォルカ! 何か弱点とかねえのか!?」
「わ、私は地学が専門なので! おとぎ話は詳しくないんですっ! 〈泥〉!」
言いながら、横合いから魔術の泥を投射するが、〈待ち人オオカミ〉はするりと身を引いて避ける。見た目の怪物具合とは裏腹に、警戒心が強い様子だ。
一瞬の膠着。ノーマが痺れた手で櫂を握り直し、必死に吐息を整える。
「弱点、弱点、そうだ……!」
「何かあるなら早くしろ、保たねえぞ!」
「……裁ち鋏!」
ダイスが二つ。輝きの中から現れたのは、布を裁断するための大きな鋏、裁ち鋏だ。
鈍い銀色の刃を煌めかせて、裁ち鋏は勢いよく〈待ち人オオカミ〉へと飛び……あっさりと腕の一振りで弾かれた。
「あ、あれ?」
「おいてめえ何をふざけ、っぐ!」
再び襲いかかってきた【物語】の猛攻を、なんとか櫂で受け止める。櫂はしっかりと攻撃を受け止めているが、それを支えるノーマの腕と体に限界が近づいていた。
「おとぎ話だと裁ち鋏でお腹を裂くので、効くと思ったんですけど……」
「避けてももらえてねえじゃねえかバカ!」
「うう、ご、ごめんなさい!」
腕を大きく振りかぶって、〈待ち人オオカミ〉が爪を叩きつける。先ほどまで女の手だった部分は、凶悪な刃のような爪をもつ、狼の前足に変わっていた。
櫂の、水をかくための広くなった部分で、横から叩くように受ける。
「ぐっ」
衝撃の強さに、ノーマが唸った。その手から櫂が弾き飛ばされて、壁にぶつかり、派手な音を立てた。
咄嗟にフォルカがダイスを投じ、叫ぶ。
「〈泥〉!」
『四』『一』の目を輝かせたダイスから現れたのは、目眩しを兼ねた、泥の壁だ。だが、先ほどダイスを三つ投げた時よりも随分低い出目では、薄い幕のようにしかならない。【物語】を止めるには、力不足だった。
だから、〈待ち人オオカミ〉がその爪を止めたのは、泥の壁ではなく、駆けつける足音を警戒してのことだった。
「こっちです、コーエンさん!」
「早くしてよ! ノーマが殺されちゃう!」
ニギンとメアリが叫ぶ声。続いて、力強い足音を響かせて、コーエンが廊下に姿を見せる。
〈待ち人オオカミ〉は一瞬、騎士と司書、そしてノーマを見た。殺し切れないと判断したのか、無手になったノーマをそれ以上攻撃はせず、身を翻す。窓を破って、二階の高さから中庭へと降りた。
獰猛な見た目と裏腹に、臆病なのかもしれない。
「大丈夫、ノーマ!?」
「げほっ……ああ、助かった」
駆け寄ってくるメアリとニギンの頭を軽く撫でてから、ノーマはコーエンに会釈する。
「今のは、【物語】か?」
「そうです、コーエンさん。非常に危険です、皆さんに警告を」
「姿を変える力を持ってる。逃すと厄介だ」
窓際に駆け寄ったコーエンは、夕日が沈み、暗闇の中に窓灯りと月明かりで浮かび上がる中庭を睨む。
「了解した。貴君らにも支援を頼む」
「もちろんです」
「当たり前だ」
即座の応え。頷くと、コーエンは突き破られた窓に手をかけた。
飛び降りる。
「は?」
誰かの、間の抜けた驚きの声を置き去りに、地面に降り立った重い音が響いた。すぐさま駆け出す足音も。
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