■22 〈待ち人オオカミ〉


 こんこん。


「はーい、どちら様……あれ? イアトさん、何か忘れ物ですか?」

「ああ、イアトだよ。すまないが、扉を開けてくれ」


 伯爵の館では、当然、多くの使用人が働いている。

 近隣の領地から若干離れているから、来賓を迎える頻度は少ないものの、伯爵はその分領地内の貴族や有力者をよく招いていた。


 使用人たちの主戦場である一階裏手、洗い場に通じる裏口の扉から、壮年の男が館に入る。二十年以上働いている料理人、イアトという男だ。夕食の仕込みを終えた後、市場で売れ残った食材を見に行くのが常の習慣だった。

 たった十分ほど前に出かけたばかりのイアトが戻ってきたことに、雑用の少女が首を傾げる。


「どうしたんですか? あの……?」


 忘れ物かと問う少女を置き去りに、イアトは洗い場を横切り、厨房を突っ切って、館の内部へと向かう。

 角を曲がった瞬間、その姿が変わった。

 召使いの服を着た、若い女の姿になっている。


「あら、広間の掃除は終わったの? なら次は客間を……」


 廊下の向こうから歩いてきた、年嵩の使用人が声をかける。

 広間の掃除をしているはずの使用人だと、疑ってもいない声だ。


「かしこまりました」

「……? テアさん、客間はそちらではないわ……ちょっと? ……もう、なんなのかしら」


 テアと呼ばれた女は、ぎこちなく一礼して、すれ違う。年嵩の使用人が呆れてため息をこぼすのも気にせず、廊下を進み、階段に足をかける。階段を登り切ったときには、また別の姿へと変わっていた。


「ああ、ケリン様。コーエン様がお探しでしたよ」

「わかりました、ありがとう」

「おい、【物語】が入り込んでるかも、だと! 扉を開けるなと触れ回れ!」

「了解です!」

「領主様にお茶を運ぶのを手伝ってもらえる?」

「かしこまりました」


 人と会うたびに、その人が探している者へと姿を変えながら、侵入者は館の奥へと入り込む。

 窓から差し込む夕日が、最後の一筋を輝かせて、そして消えた。


 館の廊下を、所々に灯された明かりだけが頼りなく照らす。

 ふと、今は執事の姿をした侵入者が、ある扉の前で足を止めた。


 侵入者の鋭敏な嗅覚が、その部屋に一番のご馳走があることを嗅ぎつけていた。

 誰かの帰りを待つ、という感情だ。

 ノックする。


「帰ったぜ」


 その姿は、虎の耳と尻尾を備えた、迅虎族の青年に変わっている。


「ノーマ! お帰りなさい!」

「あ、待って。さっき、扉を開けちゃいけないって」


 部屋の中から、メアリの弾んだ声と、ニギンの思案げな声がした。コナドの街で最も安全な領主の館、その客間だ。鍵などかけているはずもなく、開きかけた扉をニギンが止めた。


「でも、今の声はノーマでしょ?」

「そうだけど……」

「大丈夫だ。俺だよ、開けてくれ」

「ほら!」


 ニギンが押し切られたらしく、内側から扉が開かれていく。

 扉が開き切り、メアリが飛び出してきて、『ノーマ』がその手を伸ばし――


「〈泥〉!!」


 フォルカの絶叫が響いた。

 全力で投じられた三つのダイスが輝き、人間を飲み込むほどの量の泥土となって、ノーマの姿をした侵入者にぶちまけられる。

 侵入者、〈待ち人オオカミ〉は、泥の質量に押しのけられるように数歩下がる。飛び散った泥がメアリに跳ねて、少女も驚きで尻餅をついた。


「てめえ、誰に手ェ出してやがる!!」

「の、ノーマが二人……!?」


 泥まみれの〈待ち人オオカミ〉に向かって、ノーマが走る。姿形は全く同じだ。気味の悪さを噛み潰し、怒りに牙を剥くような表情で、勢いのまま殴りかかった。


 肉がぶつかる音。

 弾かれたのは、本物のノーマの方だった。〈待ち人オオカミ〉が無造作に腕を振るっただけで、防ぎきれずに壁に叩きつけられたのだ。


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