■11 砂、泥、岩
「よし……って、ただの櫂じゃねえか! 何を漕ぐつもりだ!?」
「私、武器なんて投射できません! 槍に似てるのはそれだけです!」
「ああもうわかったよ、どうにかする!」
櫂を両手で握る。船を漕ぐための櫂は確かに、槍や矛に似ていなくはない。水を掻くための広い面を熊へ向ける。古木の気配を感じさせる木材はずっしりと重く、ノーマに頼もしさを覚えさせた。
『るおぅ!!』
「しッ!」
再び熊が詰め寄る。前足を振るわれる前に、機先を制してノーマが櫂を突き出した。突くというより、阻む動き。顔に当たりそうになる櫂を嫌って熊が爪で払うが、動きに抵抗せずすっと引いて、鋭く鼻先を突いた。
『ぎっ』
不機嫌に唸り、熊がまた数歩下がる。様子を窺うようにノーマを睨みつけた。
「つ、強い……?」
「当たり前だ。俺は竜だって倒したことがある」
ノーマの構えは、それなりに様になっている――見た目だけは。実際は、演技技術の一環として剣や槍の構えを一通り学んだだけだ。実戦経験は路地裏の喧嘩か、獣を追い立てての狩りくらいであった。
だから、フォルカの驚いた声へ返す軽口にも、言葉ほどの余裕の色はない。
「……だが、こいつは使えるな」
槍のように握りしめた櫂を揺らす。【物語】の重く鋭い爪を受けても、櫂には傷がうっすらと刻まれた程度で済んでいた。頑丈だ。うまく当てれば、それなりの衝撃を与えられるだろう。
「ノーマさん、私が動きを止めます。その隙に、えっと……ぶっ叩いてください」
「わかりやすい指示だ、任された」
「水分、浸食、撹拌――〈泥濘〉!」
フォルカは、ふたつのダイスを指に挟み、その指先を地面に触れさせる。視線は、獣の足元へ。
土の組成を想定し、水分の混合を仮定する。仮想の水分は地面を浸食し、深い場所まで撹拌されて、思考の中でぬかるんだ泥を作り出す。魔力を以て世界の構成要素を操作する、元素系の魔術の思考様式だ。
ダイスは、フォルカが魔術師として実現しうる可能性として、思考を、想像を、妄想を現実のものとする。
出目は合わせて『九』。熊の足元の地面は突如としてぬかるみ、深い泥の沼と化した。
ぐぶ、と音を立てて、熊が泥に沈む。後ろ足から、尻尾の辺りまで沈んだ。熊からすれば、いきなり落とし穴に落ちたようなものだ。混乱した様子でもがくが、ただの落とし穴と違い、絡みつく泥が脱出を許さない。
振り回される前足が届かない距離から、ノーマが一気に踏み込む。
「しッ!」
気合の吐息と共に、櫂を振りかぶり、真っ直ぐに振り下ろす。熊の頭を、上から強かに打った。熊の頭蓋骨は硬く、鉄を打ったような感触がノーマの手を痺れさせる。だが、重く堅牢な櫂は弾かれることなく、衝撃を叩き込んだ。
武術とは呼べない、力任せの動き。
『ギッ……』
「逃がさねえ!」
尻尾をぴんと張り、地面を踏みしめてノーマが叫ぶ。
再び、力を込めて櫂を振り下ろす。泥から脱出されれば、次の機会はないかもしれない。まともに戦えば、【物語】ではない獣にすら、人は勝てないのだから。
『グオオオオッ!』
熊の【物語】が咆哮する。泥沼を強く掻いて身体を僅かに浮かせたか。太い前足、その爪がノーマに届きかけた。
「組成想定、粘度調節……させません、〈粘土〉!」
その爪をフォルカが阻む。『四』と『六』の面を輝かせたダイスから、粘土が溢れた。粘土は爪を包み、太い腕をも包み込む。ごぶっ、と鈍い音を立ててノーマに当たるが、その衝撃も泥が散って逃す。
「らぁあああッ!!」
痛みに顔をしかめながら、ノーマが櫂を振り下ろす。
櫂は強かに熊の頭を叩き――熊の【物語】が、文字となって散った。
「……倒した……のか?」
「は……い。文字に還ったようです。……凄いです、ノーマさん!」
「こいつのおかげだな。……槍ではないが」
「ぶ、武具の投射は苦手なんです……」
しばし警戒して握ったままの櫂が、はらりと解けるように細かな光に変じて、消えていく。
ダイスによって投射された品物や魔術は、そう長くは存在し得ない。存在時間を長くしようとすれば、その分だけ難易度は上がってしまう。
頼もしい重みを惜しむように、ノーマが手を軽く握って、開いた。
「さすがは司書、ってところか。次も頼むぜ」
「任せてください。〈沼裂きの櫂〉は私の十八番ですから」
三人は時折の休憩をはさみながら、黙々と森を歩く。
コナドの街に着く頃には、朝日が登っていた。
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