■10 古皇記


 炎の明るさは、野営地から森に入るとすぐに見えなくなった。夕暮れの日は沈むのが速く、森の中はすでに暗い。


「メアリ!!」


 森の端に隠れて待っていたニギンが、二人の姿を……何より、担がれたメアリの姿を……見て声を上げる。


「ニギン、何事もなかったか」

「うん。メアリは大丈夫なの? 他の皆は?」

「説明はあとだ。逃げないとヤバい。走れるか?」

「う、うん」


 野営地を走り抜ける間に、呆然としていたノーマの意識も戻ってきたようだった。

 ノーマの常ならぬ危機感が伝わったのだろう、ニギンは不安げに頷いて、三人で走り出す。下草を踏む音が、夜に移り変わっていく森に響く。

 山羊と荷物は置き去りにするしかなかった。ニギンが、腰のポケットにパンを少しねじ込むのが限界だ。


「一体、何が、あったの?」

「劇団が、襲われてた。デカい狼の【物語】だ。……多分、メアリ以外は、全員死んだ」

「……そん、な」


 会話は、それきりだった。ニギンはそれ以上聞きたくなかったし、ノーマもそれ以上話したくなかった。互いに、唐突に突きつけられた現実を飲み込むのに精一杯だった。

 言葉を失い、森を黙々と歩く。やがて、ニギンの吐息が乱れ始め、足をもつれさせるようになったところで、フォルカが声を上げた。


「一度、休憩を取りましょう。そろそろ暗くなっていますから、灯りも準備しないと」

「……そうだな」


 地面に上着を敷いて、メアリを寝かせる。軽い少女とはいえ、ずっと人一人分の重さを背負っていたノーマもまた、すでに限界だ。三人ともが、大きな樹の下に座り込んで息を整える。


「二人は休んでおいてください。灯りは私が」

「すまねえ、助かる。……ニギン。……何があったか、話しておく」


 ノーマが呼びかける。少年が小さく頷くのを見て、続けた。


「黒い狼の【物語】が襲ってきた、らしい。俺が見ただけでも数人、やられてた。アンドレアが見て回って、生存者はいない、と」

「…………」


 ニギンに、返事をする余裕はない。ただ飲み込むように、一度だけ頷いた。


「その黒い狼に、俺たちも襲われた。追いかけてくるかもしれないから、逃げるしかない。……ってのが、今の状況だ。とにかく、街……コナドの街へ向かう」


 ランタンに灯りを用意するフォルカが、気遣わしげに二人をちらちらと見ている。追いかけて、のところで、少しだけ表情を曇らせた。

 ニギンはしばらく無言のまま息を整えて、ようやく声を出した。


「……メアリは、大丈夫なの?」

「生きてる。……怖い体験をしちまったから、目が覚めるにはもう少しかかるかもしれない」

「わかった」


 頷いて見せる少年の顔は、泣きそうに歪んでいた。その髪に、ノーマの手が触れる。ぽんぽんと、軽く叩くような仕草。

 その様子を見ながら、見ないふりをして、フォルカがダイスを手にする。

 唇から、歌うような囁きがこぼれた。


「女神の手より、水降りて……清らなしずく、街を包み……〈クイラの清水〉」


 手の中で輝いたダイスは、水袋を満たしてもなお余るほどの水となって、地面を濡らす。

 わ、とニギンが声を上げる。水袋を差し出して、フォルカが笑った。


「かつて、ある街を襲った大火を、川の女神が手ずから掬った清水で消した。そういうおとぎ話があるんです」

「冷たい……気持ちいい」

「ふふ。本当の水分ではないので、喉は潤わないのですが……」


 ダイスで投射した水だ。火を消すことはできても、人を潤すことはできない。

 それでも、冷たく清い水に、ニギンとノーマが一息をついた。


「……二人とも、お辛いと思いますが、灯りも用意できました。行きましょう」

「ああ。ここからは走るのは危ないか……早めに、歩いて行こう」


 ランタンを手に歩き出す。すでに森は夜に沈んだ。走れば、地面から顔を出す根や、張り出した枝、凹凸のある地面で躓きかねない。

 村からも街からも離れた場所では、怪我は致命傷になりうるものだ。

 しばし、無言で歩く。三つのランタンが、ゆらゆらと揺れた。


「……ねえ」

「どうした?」


 闇に耐えかねて――といった調子で、ニギンが声を上げた。

 夜の森は、存外に、静かではない。葉擦れの音、虫や鳥の声、獣の気配。混じり合って、森の音、とでもいうべきものとなる。彼らの会話も、その中に溶け込んでいった。


「えっと……アンドレアさんは、どうしたの?」


 聞きにくそうな問い方は、悪い答えを予想している証拠だ。

 水を向けられるより先に、フォルカが答える。


「先輩は、【物語】を一人で引き受けています。強い【物語】ですが、先輩なら大丈夫でしょう」

「ひとりで……」

「はい。……先輩は、強いので。〈天文機器〉の二つ名は伊達ではありません。巡回司書の中でも、二つ名持ちの一級司書は少ないんですよ」

「そういや、その先輩が何か投げてたよな。司書が二人いる理由、とか言ってたが」

「ああ、それは……」


 フォルカが、腰に提げた鞄に触れる。

 アンドレアから受け取った小さな本は、鞄の奥にしっかりと仕舞われていた。


「ルールブック、と言います。司書が、自分の知識や研究成果を記載する本なんです」

「研究成果?」

「はい。私は魔術の式や、各地で収集した土の情報を。先輩なら、きっと武器のことがいっぱい書いてあると思います」


 ダイスを投射する時、イメージが揺らげば投射するものも揺らぐ。

 認識を確固たるものにするために、司書は自ら学んだ情報を本にまとめる。ゆえに、ルールブックと呼ぶのだ。


「だから、司書が引退する時と、……死んだ時。後進のために、ルールブックを託すんです」


 それは、司書の生きた証であり、足跡だ。後輩たちは先達の足跡を辿り、より遠くまで辿り着く。

 図書館の九九〇番書庫、通称〈墓地〉には、開館以来の司書たちのルールブックが眠っている。


「巡回司書が二人いる理由というのは、ルールブックも含めて、何があっても情報を持ち帰るためなんです。記録と共有こそが、図書館の務めにして司書の強さだから」

「……なるほどな」


 アンドレアがルールブックを託した意味を、ノーマも、ニギンでさえも理解する。

 でも、とフォルカが笑った。


「先輩が負けるとは思えません。合流した時に返せるよう、ちゃんと運ばないと」

「全くだ。まず俺たちがしっかり逃げないとな」

「はい」


 夜の暗い森に満ちる、ひそやかな音と会話。それらを薙ぎ払うように、ひときわ大きな音が鳴った。

 ぐしゃ、と潰れるような音は、樹が折り倒された音だ。一拍遅れて、地面に倒れる音と枝葉が激しく揺れる音がする。


 一行の行く手に、黒灰色の巨大な獣がいた。ランタンの明かりに、ノーマより頭三つは高い体躯が浮かび上がる。


「く……熊!?」

「おい、あれも化け物か!?」

「【物語】です! 簡単に木を倒してしまう力なんて……!」


 熊の【物語】は進行方向の斜め前。獲物である四人を見据えて、睥睨している。


「私が抑えますから、ノーマさんたちは……」

「それは無しだ、司書」

「え?」


 ノーマが、できるだけ獣を刺激しないよう、メアリを地面に降ろす。


「別れても、次に襲われたら終わりだ。逃げるか、倒すか、だ」

「そっ……それは……」

「ニギン! メアリを守れ。傷一つ付けさせるな。できるな?」

「任せて」

「司書。武器を出せるんだろ。槍を寄越せ!」


 ランタンをニギンに預け、ノーマが一歩前に出る。熊の【物語】を睨みつける瞳、その瞳孔が僅かに大きくなり、ランタンと星月の光を取り込む。迅虎族の瞳は夜を見通す――野生の虎や猫ほどでの視力でなくとも、巨大な熊の姿を捉えるのは造作もなかった。


「や、槍っ!? 槍なんて私、ええと、十秒待ってください……!」

「早くしろ、喰われるぞ!?」


 抑え込んだ焦りが声に滲む。

 本来の熊は存外に臆病だというが、目の前の【物語】からは、獲物を狙う気配しかしない。襲い掛かってこないのは、警戒しているのか、誰から喰うか品定めしているのか。

 各地を旅する巡演劇団は、野宿をすることも多い。当然、獣に襲われた経験もあった。ノーマの脳裏には、狼の群れに狙われて一晩を過ごした記憶が蘇る。恐怖の記憶が、身体を縛ろうとする。


「火矢、背に迫り / 舟、泥に沈み / 櫂、掲げ曰く」

『グルォオオオウ!』


 フォルカが、投射のための詠唱を始める。精一杯の早口ではあったが、熊がノーマから喰い殺すと決める方が早かった。熊は前足を地面につき、勢いを付けてノーマへと襲い掛かる。動き自体は素早くなくとも、巨体である分速度はある。無造作に打ち振った前足を、ノーマは必死に横に跳んでかわした。


「くそっ!」


 落ち葉の積もる地面を叩いて、すぐに起き上がる。背中に冷や汗が伝った。タイミングが合ったから避けられたが、次はない。

 熊が再び前足を振り上げる。その横顔へ――


「偉大なる大地の女神よ / 祝福、振るいたもう――〈沼裂きの櫂〉」


 フォルカが声とともにダイスをふたつ放つ。ダイスは『二』と『三』の面を輝かせ、光の中から頑丈そうな木製の櫂が飛び出して獣の首を打った。


『ぎゃんっ!?』


 櫂は見た目通りの重さで、打たれた熊が声を上げて数歩下がる。とはいえ、痛みよりは驚きの方が強かったようで、怒りの唸り声を上げた。

 その隙にノーマが櫂を拾い上げて、構える。


「よし……って、ただの櫂じゃねえか! 何を漕ぐつもりだ!?」

「私、武器なんて投射できません! 槍に似てるのはそれだけです!」

「ああもうわかったよ、どうにかする!」

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