■9 天文機器
「私はシュトゥ。この子は名前があるかもしれないけど、私は知らないから、狼さんって呼んでるわ」
場違いな、明るい声での名乗り。フォルカの喉が鳴る。逃げる機会を伺うが、黒狼は動かずノーマとフォルカを見つめている。その静かな様子はただ荒ぶるだけの獣のそれではない。知恵高く獲物を追い詰める狩人だ。
隙を窺うノーマの呼吸が、は、はっ、と徐々に短く荒くなっていく。肩に担いだメアリがずり落ちそうになる。逃げなければならないと叫ぶ理性とは逆に、視線は黒狼に吸い寄せられ、身体が強張ってしまう。
迫る死の気配に対して立ち尽くしてしまうのは、生物にとっては逃れられない、正常な反応だった。
ヒトの理性は、死の恐怖に耐えるには、脆弱に過ぎる。
「シュトゥ、さん。なぜ……なぜ、【物語】に人を襲わせるのですか」
だが、司書はその乗り越え方を身に着けていた。
(――狼、で間違いない。この巨大さは何だ? 大きさ以外に【幻想】要素はないけれど、【現実】にしては誇張が過ぎる。シュトゥとは、意思疎通をしている……?)
知ることだ。
死の脅威を、迫る危険を。
分析し、分類し、対処し、検証する。
司書は、知識を貪らなかった者から死んでいく。
「ふふっ。変なの。司書さんなら知ってるでしょう? 【物語】は人を喰う。食べた分だけ強くなる。私、狼さんにもっともっと強くなってもらいたいの」
「貴女は、人でしょう!? 【物語】に囚われているのなら――」
「うるさい」
フォルカの言葉を、苛立った少女の声が遮った。シュトゥと名乗った少女は、先ほどまでの笑顔を消し、急に感情が抜け落ちたような無表情でフォルカを見つめている。
「私を、ヒトなんて呼ばないで。もういい。狼さん、食べちゃえ」
「くっ……〈煉瓦〉!」
フォルカがダイスを二つ、叩くような勢いで地面へと押し付ける。手始めにフォルカへと襲い掛かった黒狼の行く手に、突如としてレンガを積んだ壁が現れ、阻んだ。出目は『十』――レンガの壁は重く、厚い。だが詠唱を省略したせいでやや表現が甘く、黒狼が乱暴に払った前足の爪で砕かれ、がらがらと崩されてしまう。
そのわずかな時間をついて、フォルカは走り出していた。
「ノーマさん! 逃げましょう!」
「あ……ああ」
黒狼という、具体的な死の脅威に竦んでいたノーマが、呼びかけとレンガが崩れる音で我に返る。まだぐったりとしているメアリを落とさないよう担ぎ直し、来た道を戻って走り出した。
逃げ出した二人の背に、少女の笑い声が浴びせられる。
「あはははははっ! 逃げられると思ってるの? かわいいわ、がんばって逃げなさいな!」
黒狼の体躯は大きい。数歩駆けただけで、必死に走った二人に追いついてしまった。先ほどのレンガの壁を警戒しているのか、やや遠巻きに少し様子を伺う様子を見せた後、爪を振るった。
「〈泥〉ッ、ぐっ……!」
フォルカが魔術の泥を浴びせる。目くらましを狙った泥は、だが、爪の一振りで払われた。稼いだ時間は数秒ほど。黒狼を睨みつけ、フォルカはさらにダイスを放とうとする。
無駄な抵抗だと、シュトゥは笑う。甲高い哄笑を裂いたのは、剣だった。鋼の剣閃が、燃え盛る炎に煌めいて、黒狼へと襲い掛かったのだ。
地面に、四振りの長剣が突き立つ。黒狼は、咄嗟に後ろに跳んで身をかわした。頭を下げ、警戒の唸りを上げる。
気の弱い者なら聞いただけで意識を失うであろう、恐ろしげな唸り声の向かう先には、剛熊族の司書が立っていた。
「ほう。図体が大きいわりに、良い反応だ」
「また司書が増えたのね。食い殺されに来たの?」
司書、〈天文機器〉アンドレアは、黒狼の警戒と少女の敵意を向けられて、飄々と笑う。
地面に突き立った剣が消え、その代わりに、フォルカたちをかばって立ちはだかった。
「……なるほど。村と、劇団の者たちを殺害したのは、そこの狼か」
「そうよ? ヒトなんて美味しくもないけど、お腹には溜まるって!」
「君にも話を聞かねばならないようだ」
ダイスを握り直しながら、背後に声をかける。
「フォルカ」
「は、はいっ」
「ノーマくんたちを守ってコナドの街に向かえ。領主殿と連携して【物語】に対応しろ」
「はっ……い……?」
「おい、待て、他の……」
「生存者はいない。〈天文機器〉の仇名に懸けて。……だから、すまない、逃げてくれ。ノーマくん」
「……ばか、な」
フォルカと、ノーマが、それぞれ呆けた声を出す。
嘘だ、とは言えなかった。アンドレアの静かな声には、それだけの真実味が、確かに宿っていた。
アンドレアは腰に吊っていた小さな本を外すと、フォルカの胸元へぽんと放る。咄嗟に受け取ったフォルカが、その意味を理解して、声を上ずらせた。
「先輩! 私も、一緒に戦います……!」
「足手まといだと理解できないなら、邪魔だよ」
悲痛な声を、しかし、アンドレアは切って捨てる。
「それに、死ぬつもりもない。巡回司書が二人組である理由の再確認というところだ。ほら、行け」
「う、ぐ、……はい! 行きましょう、ノーマさん!」
「あ、ああ……」
「あっ、逃げるな……! 狼さん!?」
少女がけしかけるが、黒狼は動かない。爛々と輝く赤の獣瞳は、アンドレアを見据えているままだ。
見せつけるように、ダイスを指先でもてあそぶ。鋼鉄のダイスが、鈍く輝く。
「賢い獣だ。死ぬつもりはない、というのは少々、誤りがある表現だったね」
「……命乞いのつもり? ダメよ、あなたも、逃げた三人も、全員喰い殺されなさい」
「いいや」
ダイスを握る手に、余計な力は入っていない。
迫る獣を前にして、アンドレアは笑みを深くする。
「しっかり
投じられたダイスごと噛み殺さんばかりの勢いで、黒狼が跳躍する。
波打つ刀身を持つ剣が、炎を巻いて迎え撃った。
「いいわ、逃げなさい! 司書も、役者も、ぜんぶ噛み殺されてしまうんだから! うさぎみたいに逃げ回りなさいよ! あはははははっ!!」
燃え爆ぜる炎の音にもかき消されず、残酷な笑い声が響き渡る。少女の哄笑が、黒狼の咆哮が、ノーマとフォルカの背に突き刺さった。
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