■8 大陸西部の泥土組成に関する覚書


 火の手は、オロン村から上がっていた。


 日が傾きかけた空に上る黒々とした煙が、森の中からも見えた。

 ノーマが尻尾をぴんと立てて叫ぶ。


「おい! あの辺りは、俺達の野営地だぞ!?」

「フォルカ。ノーマくんたちと一緒に見に行け。私は村を見てくる!」

「は、はい!」

「双剣――刻印、〈翼〉」!


 アンドレアは鋭く指示を下し、鋼のダイスを投げる。左右の手で二つずつ投じたダイスは、二振りの長剣へと変じて勢いよく飛ぶ。その先端を蹴って、空中を駆け抜けるように木々の向こうへ消えた。


 大道芸もかくやの技に見とれている暇はない。ノーマたちも全速力で走る。

 森が途切れ、村の南東の空き地に出た。〈転がる羊〉一座が村から借りて天幕を張った場所だ。


「燃えて……る……」


 ニギンが呆然と呟く。

 燃えていた。皆で集まった大天幕も、雑多な荷物を置いた天幕も。料理をしていた竈も。煙を立ち上らせて、勢いの強い炎に包まれている。


「ニギン!」

「ど、どうしよう……皆が……!?」

「お前は森の、あの辺りに隠れてろ。すぐ戻ってくる。いいな」

「……っ、わかった」


 火に怯える山羊を何とかなだめて、ニギンは森の端の茂みに隠れる。

 それを見届ける余裕もなく、ノーマは燃えている天幕へと向かった。先に向かったフォルカへ追いつく。


「おい! 誰かい……」

「ま、待ってください! 見ないほうが」


 振り返ったフォルカの静止は、少し遅かった。

 天幕の影に隠れるように、女が一人倒れていた。

 火に巻かれたわけではないようだった。倒れた女、細やかな演技と裁縫が得意なハンナは、喰われていた。


「……ハンナ」


 息を確かめる必要はなかった。上半身の左半分を失って生きていられる人間はいない。獣の噛み痕に見える、ぐちゃぐちゃの傷跡は、まだ血を流していた。

 ノーマがよろめき、一歩下がる。

 フォルカが気遣わしげな声をかけた。


「……私と先輩で、見て回りますから。あなたはニギンさんのところへ……」

「冗談じゃねえ。誰か……、誰かいるはずだ」


 ぎりりと音がするほどに歯を食いしばって、ノーマは走り出す。フォルカも、ダイスを握り締めて追う。

 喰われていた。大道具のジャックも、料理番のランドルフも、半年前に舞台に立ったばかりのティアナも、喰われて、燃えて、動かなかった。


 ノーマは必死に口元を押さえて、止まりそうになる脚を叱咤して走る。

 炎に包まれる大天幕の向こう。回り込んだノーマの視界に、異常なものが見えた。


 黒い、獣だ。


 巨大な狼といった姿。だが、漆黒の毛並みと、爛々と赤く輝く瞳の狼など、現実にいるはずがない。夕焼けと炎の色に照らされてなお、その狼は黒かった。


「シエラ! メアリ!」


 黒狼が視線を向ける先には、二人の女が座り込んでいた。うずくまったメアリと、メアリをかばって立ちはだかるシエラ。シエラは手に剣を持ち、切っ先を黒狼へと向けている。


 呼びかけてから、ノーマは更に異常なことに気付いた。

 黒狼の傍らに、白い服を着た人影がいた。


 少女だ。

 白い髪を、夕焼けと炎の色に染めている。幼さが残る顔立ちには、楽しそうな微笑み。年の頃は、十ほどか。白いワンピースを身に着けた立ち姿は、やわらかいうさぎを連想させる――誰が見ても、隣にいる狼に喰われる役だというだろう。


 けれど、少女は楽しげな顔と声を、シエラが突き出した剣へと向ける。


「あは。おねえさん、それって竜を殺した剣でしょう?」


 ノーマの呼びかけは、天幕が燃え落ちる音でかき消され、シエラたちには届かない。

 声だけが届いたとしても、何かできる距離ではなかったが。


「振ってみなよ、ほら。食べられちゃうよ?」

「い、やあああああ!!」

「来るなっ!!」


 ごぅ、と、黒い獣があぎとを開いた。メアリの悲鳴と、シエラの叫びが重なる。

 シエラが突き出した剣は、所詮、演劇用の偽物だ。狼のひと噛みで、表面の薄い金属板は剥がれ、砕けた木片が飛び散る。

 シエラが、ひ、と小さく声をこぼした。


「あはははははは!!」


 けたたましく笑う少女の声を切り裂くように、ノーマは走る。フォルカも続く。その足音にまず黒狼が、次に少女とシエラが気付いた。


「こっちだ、化け物!」


 ノーマが声を張り上げて、気を引こうとする。白い髪の少女がノーマに向ける瞳は、燃え上がる炎と鮮やかな夕焼けを映して、なお赤い。

 一秒の半分ほどの時間、少女は興味深そうな視線でノーマとフォルカを見つめる。そして、くすっと可愛らしく微笑んだ。


「食べちゃえ」


 黒狼があぎとを開き、閉じる。

 ぐぢゅり、という音が響いた。


「……?」


 メアリは地面にうずくまったまま、顔を上げて首を傾げた。

 降り注ぐこの暖かくて赤い液体はなんだろう。

 守ってくれたシエラはどこにいったのだろう――お腹から下だけを残して。


「ひ」

「シエラぁあああッ!!」


 ひきつった声をこぼし、メアリはそのまま気を失って、地面に倒れ伏せた。獣の、爛々と濡れ輝く瞳を正面から見なくて済んだのは、あるいは幸運だったかもしれない。

 ノーマの絶叫も、獣の蛮行を止めるには至らない。再びあぎとを開き……その口の中に真っ赤な何かをまだ残したまま……凶暴な牙がメアリに迫る。


「〈泥〉!」


 止めたのは、フォルカの鋭い声とともに放たれた、一塊の泥だった。

 フォルカが放ったダイスは、『二』と『四』の目を輝かせ、一瞬の後に魔術による泥に変じる。黒狼の顔に、一抱えもあろうかという量の泥土がぶちまけられた。


 飛び散った泥が、白い髪の少女と、倒れて動かないメアリに降りかかる。黒い獣も泥の重さと、毛皮に絡みつく感触を嫌ったか、ぶるぶると首を振って数歩下がった。

 その隙に、ノーマが駆け込んだ勢いでメアリを抱き起こした。肩に乱暴に担いで、黒狼から距離を取ろうとする。


 走ってきたフォルカが、黒狼の前に立ちはだかる。視線は、泥を払った獣と、その傍らに立つ少女へ。戸惑いを隠せていない声で問いかけた。


「いったい、貴女は……」


 脚はわずかに震えていた。ダイスを握りこんだ手が、力を入れすぎて、わずかな痛みを訴えた。


「わあ。お姉さんは司書さんね。司書さんと遊ぶのは初めて」

「何者ですか! その狼は、【物語】でしょう!?」


 まるで黒狼を従えているように見える少女へ、フォルカは叫ぶ。小動物めいた印象の少女が、被害者ではないのは明らかだ。それでも問わずにはいられなかった。人間が【物語】を従えるなど、聞いたことがなかった。


「ふふ、時間稼ぎ? 逃げちゃ嫌だよ、お兄さん」

「……っ」


 メアリを連れてその場を離れようとしていたノーマの足が止まる。

 一瞬の停滞。破ったのは、やはり少女の、笑みを含んだ声だ。


「私はシュトゥ。この子は名前があるかもしれないけど、私は知らないから、狼さんって呼んでるわ」

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