■7 紗蔵経典

「なっ……何なんだ、今のデカい鴉は……!?」

「【物語】だ」


 アンドレアは、剛熊族の証たる丸い獣耳を巡らせて、鴉の風切り音を追う。手にはダイスを握り、いつでも投げられる姿勢を保つ。

 その背を守るように、フォルカもまたダイスを握って森を睨む。ノーマとニギン、そして山羊を守る態勢を取った。


「さて、フォルカ」

「はい、先輩!」

「今の鴉、何の【物語】だ?」


 問いかけは、どこか楽しげに響いた。フォルカが握りしめたダイスが、かちゃりと小さな音を鳴らす。


「えっ、と、【現実】だと思うので……」

「思う? なるほど、君の感想は命を懸けるに足る信頼度がある、と。実に自信家だな」

「うぐ。さ、サイズは大型と言っても猛禽ではあり得る範囲ですし、飛行に物理法則外の力は確認できません! あと、攻撃方法も物理的なものですから、【幻想】の要素が見られず、【現実】寄りだと判断しました! おそらく……鴉や鳥の知恵についてまとめた書籍から現れた【物語】では、と」


 フォルカが言葉を紡ぐ必死さに惹かれたわけではないだろうが。大鴉が再び、羽撃きの音を引いて木々の間から飛来する。

 鴉の黒い羽は、木々の影に紛れ、その姿を容易には捉えさせない。ニギンが不安げに周囲を見回すが、方角すらわからない。ノーマもまた、虎の耳を敏感に動かして探りながら、ニギンを背後にかばった。


 どこからか迫る羽音に、しかし、アンドレアはからからと笑う。


「よろしい。言語化は重要だ、フォルカ。言葉を惜しむな。思考を曖昧にするな。因果を分割しろ」

「はい……」

「ちなみに、不正解だ」


 笑みを含んだ残酷な宣言。フォルカの唇が、間の抜けた様子で開いた。あまりの見事な間に、ノーマが思わず唸る。

 その表情に誘われたわけでもなかろうが。木々の間から大鴉が姿を現した。放り落とした、片手に余る大きさの石が、飛翔の勢いを得てアンドレアを狙う。

 アンドレアが再びダイスを放って応じた。


「ウォーハンマー」


 ダイスの輝きから、金属の塊が現れる。鋼の頭部に木製の長柄を付けた戦槌だ。

 大の大人でも振るうのには苦労しそうなウォーハンマーが、勢いよく石を叩く。逸らすどころか、砕いて、弾き返した。大鴉は一声啼いて、慌てた様子で翼を打ち振るい、飛行の軌道をずらす。


 だが、速度を失った。体勢を立て直すよりも、アンドレアが更にダイスを放つ方が早い。


「グラディウス――刻印、雷」


 白ではない、鋼のダイス。

 金属製のダイスは、選ばれた一級司書にのみ許される力だ。


 ふたつのダイスの出目は合わせて『八』。輝きから放たれた二振りの剣が、空中で体勢を立て直そうとする鴉へ迫る。幅広の刃には、流れるような異国の文字が刻まれていた。

 真っ直ぐ飛ぶだけの剣など、空中を自在に飛ぶ鴉にとっては、さほどの脅威ではなかった。素早く翼を打ち、両の翼を狙う二振りの剣から身を躱そうとする。


 だが、鴉は知らなかった。刀身に刻まれた文字の意味を。

 遥か東の国における、八柱の雷の神の名。刻印が輝き、二振りの剣から雷光が迸る。


『ガ――』


 稲光は薄暗い森を明るく照らし、雷鳴が大鴉の鳴き声をかき消す。翼へと絡みついた雷は大鴉の動きを止め、そこに剣が突き立った。

 両翼を深く貫き、勢いのまま古い樹木へと、大鴉を縫い止める。黒い羽根が飛び散り、文字となって消えていく。


 大鴉はひとしきり暴れた後、力尽きた。剣が突き刺さった翼から細かな文字へと変じていき、空中に溶けるように消えていく。

 後には、羽根の一枚も残らない。


「ふむ。脆いな」


 警戒を解き、アンドレアが頷く。手に掴んでいた鋼鉄のダイスを、腰のポーチへと戻した。

 他の三人も、詰めていた息を漏らす。ノーマが、身構えたまま問う。


「終わった……のか?」

「ああ、【物語】は文字に還った……消滅した」

「す、凄い……!」


 場違いな感動の声は、ニギンのものだ。恐怖など忘れて、瞳を輝かせている。


「今のが、司書のダイスなんですね!」

「その通り、よく知っているな。君も、悲鳴を上げずよく堪えた、ニギンくん」


 アンドレアがほんの少しだけ微笑んで、ニギンの髪を撫でてやる。

 その様子を見ながら、山羊を落ち着かせたノーマが、フォルカの方に視線を向ける。


「なあ」

「どうしました、ノーマさん?」

「……あの先輩、もしかして、結構ヤバいやつか?」

「まさか。とても人格者で、いい先輩ですよ。〈天文機器〉の二つ名は、技術に関する最高の知識を讃えてのもの。偉大な司書です」


 首を横に振ってから答える。そして、声をことさらに小さくして、続ける。

 ノーマの耳が、囁き声を聞き取ろうと少し動く。


「……色んな意味で少し厳しくて、その。【物語】も、師事した後輩もなぎ倒して、ついた仇名が〈虐殺機器オーバーキル〉アンドレア、と……」

「……頼もしいといえば頼もしいが」

「はい。それは間違いありません」


 どこか誇らしげに言うフォルカに、ノーマは頷く。褪せた金髪の髪をかき乱して笑った。


「とにかく、助かった。アンタたちと一緒で良かったよ」

「お気になさらず。【物語】の脅威から人を守るのは、司書の仕事です」

「脅威……ねえ」


 ふと、ノーマが特に悪気もない様子でこぼす。


「【物語】を見たのは人生で二度目だが。そんなに危ないものなら、本なんて燃やしちまえばいいのに」

「いけません!」


 何気ないノーマの言葉に対して、しかし、フォルカは声を張り上げた。アンドレアとニギンが、何事かと視線を向ける。


「本は、脈々と受け継がれてきた、人の知識の具現です。失われれば、二度と戻らないのですよ」

「……だがな」


 頭ごなしに否定されて、ノーマの方も少々血が上ったようだった。迅虎族がよく言う、尻尾に来る、という状態だ。ゆらゆらと縞の尻尾が揺れている。


「実際、本なんてなければ、今、襲われることはなかった。役に立つ本もあるのかもしれないが、誰も読まないような本も、読まない方がいいような本も、あるんだろ?」

「それでも、必要です。今この瞬間に必要がなかったとしても、別の誰かが求めているかもしれません。十年、百年かけて集めた知見が、新たな発見につながるかもしれません。知識とは、そういうものです」

「百年後の誰かのためだから、鴉に襲われるのも我慢しろ、と?」

「そうならないために我々、司書がいるのです!」

「今、偶然アンタたちがいなかったら危なかっただろうが!」


 にらみ合って、声を上げる。その様子をニギンがおろおろと、アンドレアが愉快げに見つめている。

 山羊が、めえ、と鳴いた。【物語】の脅威が去ったのを理解したのだろうか。平和なその鳴き声に、二人も冷静さを取り戻す。


「……失礼しました、大きい声を出してしまって。でも、本は、書物は、本当に大切なものなんです」

「そうかい。字も読めない俺みたいな人間には、わからねえが」

「ちゃんとわかってもらえるよう、説明を考えておきます!」


 眼鏡のレンズの奥で、ノーマをにらむように見つめたままの瞳。先に視線を逸らしたのはノーマだった。


「……要らねーっての」


 話が一段落ついたのを察してか、アンドレアが歩み寄ってくる。

 愉快げな表情を隠しもしていない。


「楽しそうな話をしていたな、ふたりとも?」

「いえ」

「何も」

「議論は大切だとも。やりすぎオーバーキルでなければ、な?」


 顔面を蒼白にして、フォルカは視線を逸らす。

 ノーマとニギンは改めてアンドレアにも礼を告げた。


「なに、これも司書の務めさ。……さて、少し急いだ方がいいかもしれないな」

「何か用事でもあるのか? アンドレアさんよ」

「いや、そういうわけではないが……」

「……?」


 いつも果断な先輩の、珍しく歯切れの悪い様子に、フォルカが首をかしげる。

 鼻をすんと鳴らしたアンドレアは、視線を行き先へと向けた。

 森の向こうを透かすように、睨む。丸い熊の耳もまた真っ直ぐ立っていた。


「火の匂いがする。司書にとっては、一番恐ろしい匂いだ。……急ごう」


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