■5 インクの匂いを嗅ぎ付ける猟犬
モンテ伯ヘルツェル家の現当主、マティアス・ヘルツェルは、豊かな口ひげをしっかりと整えた壮年の伊達男だ。整った顔立ちに、にこやかな、人懐こい笑みを浮かべている。
執務室を訪れた来客へ、わざわざ立ち上がり、丁寧に礼をして見せた。
「モンテ領へようこそ、図書館の司書殿。招きに応じて頂き、感謝する」
向かいのソファに座るのは、深いグリーンのジャケットと同色のネクタイを身に着けた女が二人。山森を抜けてコナドの街についたばかりの二人であった。
剛熊族の女が目配せし、人間族の女が応じた。懐から、図書館のシンボルである三日月をあしらったメダルを取り出して見せ、身の証とする。窓から差し込む朝の陽光が、くすんだ光沢のメダルに反射して煌めいた。
「二級司書、フォルカと申します。こちらは一級司書、〈天文機器〉アンドレア。【物語】による被害が出ている、ということですね」
ローテーブルを挟んで、ソファに座った司書と伯爵が向かい合う。
眼鏡越しに真剣なまなざしを向けるフォルカは、瞳に緊張を隠しきれていない。主に話す役割を申しつけられているのだろう。若々しい緊張に気付かぬ素振りで、マティアスは頷く。
「いやはや、図書館が遣わす【物語】対策のエキスパート、巡回司書! どれほど恐ろしい戦士が来るかと思えば、麗しい女性が二人とは。実に驚きだ」
「司書の実力に、男女の差はありませんので」
「おお、そのような意味では、決して。お二方の美しさと知性に感動のあまり、余計な言葉がこぼれてしまった。どうか気を悪くせず」
「……その。本題に入らせていただいてもよろしいですか」
「無論だとも。【物語】と思われる獣が、このところ我らの山を荒らしていてね」
大袈裟に二人を褒め称えていた調子のまま、マティアスは嘆いてみせる。額に指をやり、深々とため息をつく仕草付きだ。演劇好きとはまさかそういう意味でしょうか、と、フォルカの内心に呆れが浮かぶ。
「図書館にくださった手紙では、様々な動物が人を襲っている、と」
「その通り。最初に報告があったのは一月ほど前で、凶暴な牡牛だった。村人では対処出来ないということで、我がモンテ領が誇る精強なる騎士団を動員したのだよ。山狩りを行い、その牡牛を討ったのだが……」
マティアスは書類の束を執務机から取り、ローテーブルへ置く。失礼、とフォルカが目を通し、アンドレアへ回した。
「騎士が記した通り、文字となって消えた。数日と置かず、他の村でも様々な獣が現れるようになった。それで、図書館に連絡し助けを求めた次第なのだよ」
「なるほど……。実は、私たちがコナドの街に来る途中の山でも、大きな狼の【物語】の襲撃を受けました」
「なんと。怪我はなかったかね?」
「問題ありません。その狼も文字に還しました。ですが、確かに【物語】の発生確率としては、異常な事態です」
『文字に還す』とは、【物語】を討伐することを指す司書の表現だ。完全に文字に還った【物語】が復活することは、ない。
「このように【物語】がいくつも現れるというのは、よくあることなのかね?」
「いいえ、伯爵。図書館の外で【物語】が現れるのは、本来まれなことです。一年に一体でも見れば、多い方かと」
「ふむ……何かの異常があることは間違いないか」
マティアスは悩ましげにため息をついてみせる。首を横に振る仕草すら、どこか芝居がかって見えた。
「騎士たちは【物語】などに負けはしないが、ご存知の通り、我が領地は少々……そう……自然豊かでね。どうしても、情報収集と移動に時間がかかってしまう。根本的な解決を、早期に、お願いしたい」
「お任せください。まず、実際に対応された騎士の方からお話を伺えますか」
「引き会わせよう」
「それと……その、もうひとつ。ご協力をお願いしたいことがあります」
「無論、私にできることなら何なりと協力しよう」
言いにくそうにしたフォルカが、一度アンドレアを振り返る。アンドレアは当然のように頷いただけで、助け舟を出すつもりはないようだった。
改めて向き直り、すう、と息を一つ吸う。話すうちに薄れかけていた緊張を再びまとって、フォルカは告げた。
「伯爵の書庫を拝見させていただきたいのです」
「ほう?」
芝居じみた仕草で、マティアスは眉を上げる。
「当家の図書は、優秀な人材に開放しているのでね。かの図書館の司書に見て頂けるならば光栄だ。こちらからお願いしたいくらいだよ」
「ありがとうございます。ですが、開放されている書庫だけではなく……伯爵が所蔵されている、神話に関する本も、です」
「……」
マティアスの笑みは――変わらない。ゆっくりと口ひげを撫でて数秒黙ってから、答えた。
「よくご存じだ、と言っておくべきかな。それをどこで?」
「図書館の追跡班の仕事です。……貴重な書物であることは承知していますが、どうか」
「申し訳ないが、フォルカ殿」
言葉を遮って、マティアスは立ち上がる。あくまで丁寧な調子は崩さず、笑顔も変わらず、だが確かに拒否の気配を示す。
「先祖伝来の書物ゆえ、余人の目に晒すことまかりならん、という代物なのだ。ご容赦いただきたい」
「そんな……お願いします。もし、神話に由来する【物語】だったとしたら、少しでも情報を集めないと」
「それだ、と確定したならばもう一度相談にきたまえよ」
話は終わりだと言わんばかりに、マティアスは部屋の扉を示す。
言葉に詰まるフォルカの背に軽く触れて、アンドレアが立ち上がった。剛熊族の女の口元には、小さく笑みが浮かんでいる。明らかに楽しんでいる様子だ。
「ごもっとも、だ、伯爵閣下。我々も、確率は極小だと考えている。それ以外の可能性がなくなった時に、改めて、無理にでも見せてもらうとする」
「無理にでも、と来たかね? 流石は巡回司書殿。冷酷なる書物狩り、インクの匂いを嗅ぎつける猟犬という評判は真実だったか」
「実に的確な評価だ。ともあれ、安心してほしい」
一拍。
司書と伯爵は、実に楽しそうに笑いあう。
「万が一にも【神話】が相手なら、世界が終わる。田舎貴族の首ひとつ、誤差のようなものだろう?」
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