■1 〈司書のルールブック〉


 ――物語は、人を喰う。



 狼が、牙をむき出しに森を駆ける。

 四本の脚と柔らかな尻尾を備えた狼は、深い森の木々も、山の斜面も意に介さず、風と同じ速さで走る。昼なお暗い森の中、わずかな木漏れ日に、しなやかで強い黒灰色の毛並みが影のように浮かび上がった。並の狼よりも二回りは大きい。


 獰猛な足音が向かう先に、二人の人間が見えた。無論、視覚よりも先に、狼は鋭い嗅覚で既に二人の存在を捉えている。ローブを羽織り荷を背負った姿は身軽な旅人という風情だ。ひと噛みで頭から胸まで。その感触を想像し、あぎとから涎がぼたぼたと垂れた。巨大な狼にとっては、手ごろな獲物であった。


 背後から迫る荒い吐息に気付いたか。旅人が振り返り、身構える。年若い女の二人組だ。一人は頭に丸い獣耳を備えた剛熊族。もう一人は眼鏡をかけた人間族。

 剛熊族の女が一歩前に出て、ローブを跳ね上げた。旅人には似つかわしくない、深緑のジャケットと同色のネクタイが露わになる。


 その装束が、図書館の司書の制服であると知っていれば、狼ももう少し警戒しただろう。残念ながら、狼には餌の区別をつけるだけの知性はなかった。

 剛熊族の女は腰のポーチに手を入れ、中のものを掴む。恐れる様子もなく、迫る獣の眼前に掴んだものを投げつけた。


 ダイスだ。

 白い、何の変哲もない立方体が二つ、狼へ向けて投じられた。


「スピア」


 女が声を上げる。鋭く、張りがある声。甘さはないが、恐れもない。逃げ惑うだけの獲物の声ではなかった。


 声と同時、二つのダイスの一面ずつが輝く。『一』と『三』の面。輝きはすぐにダイス全体を覆い、その輝きの中から、一振りの槍が現れる。

 木製の柄に、鋼鉄の穂先。出目は合計で『四』であるから、切れ味はさほど鋭くはない。それでも、達人が振るったような速度で射出された槍には、並の獣なら軽々と串刺しにする威力があった。


 だが、黒灰色の獣は尋常の生物ではなかった。

 大きくあぎとを開き、飛び込んできた槍に噛みつく。鋼鉄の穂先を噛み砕き、首を振るって放り捨てた。ばぎり、金属が割れ砕ける不快な音が響いた。


「おお。中々の存在強度だ」


 ダイスを投げた女は感心したような声とともに、既に掴んでいた次のダイスを投げる。

 やや高く、狼の頭上へ。『一』と『五』の面を輝かせるダイスを無視して、狼は女を食い殺すべく四つ足に力を込めた。


「ファルシオン」


 ダイスの輝きから、曲がった刃を持つ剣が現れる。優美な曲線を描く刃が木漏れ日に煌めく。四つ足の獣にとっては死角となる頭上から、背を断ち割る軌道で刃が落ちる。


 剛熊族の女の後ろでは、人間族の女が跪いていた。人差し指、中指、薬指の間に二つのダイスを挟み、指先とダイスを地面へと触れさせる。

 眼鏡の奥に真剣なまなざし。落ち葉が積もった森の地面を見つめ、叫んだ。


「水分……浸食……撹拌……〈泥濘〉!」


 狼の四つ足が、ずぶりと沈んだ。刃から逃れるために横に跳ぼうとした脚は、突如として足元に現れた泥沼にとらわれて動かない。適度な湿り気はあれど、歩く走るには支障がなかったはずの地面は、今やぐずぐずにぬかるんでいた。表面だけではない。深い沼になってしまったかのように、狼の足は沈む。抜け出そうと力を込めても、踏ん張った分だけ沈み、持ち上げようにも絡みつく。


『グ、ッルルォオオ!』


 いらだった唸りを裂いて、無慈悲なファルシオンの刃が、ぬかるみに絡めとられた大狼を断ち切った。強い黒灰色の毛並みも、硬い骨も意に介さず、縦に真っ二つ。冴え冴えとするほどの切れ味を見せた曲刀は、地面に着く前に幻のように消え去った。


 断ち割られた狼は、その断面から血ではなく、黒い液体をまき散らして消えていく。黒い液体は、幾重にも折り重なった文字の集合だ。空中に散った文字は徐々に薄くなり、やがて消えた。毛の一本も残さず、もはや、狼が存在した証は、唸り声の残響と地面に刻まれた足跡のみ。

 残響もやがて木々の間に消え、森が静寂を取り戻す。


「いい精度だ」


 残心を解いた女が、跪いた方へと声をかける。女にしては硬い話し方だが、力強く、やや低い声に似合っていた。


「ありがとうございます、先輩」


 眼鏡の女も立ち上がり、会釈して応じる。指先についた土を払い、眼鏡の位置を整える。


「だが遅い。完璧主義も悪くはないが、せめて二投目よりは早く撃て」

「う、ぐ。はい……努力します」


 悔しげな声に、先輩と呼ばれた女は高く笑った。


「そうだ、努力しろ。いみじくも図書館のテーゼの通り、"楽しむことを学べ"」

「……はい」


 二人は道を外れ、狼が襲ってきたルートを少し遡る。地面に刻まれた足跡を調べ、帳面にスケッチを残した。


「確かに狼の要素を備えていますが、ここまで巨大な狼は発見されていないはずです」

「別大陸の新種か、架空の獣か」


 先輩と呼ばれた女の笑みが深くなる。

 足跡のみから得られる情報には限りがある。手早く切り上げて再び歩き出した二人は、ほどなく森を抜けた。周囲を山に囲まれた地形。見下ろす道の先に、ひとつの街があった。


「さて、どの書物から迷い出た【物語】か」


 立派な市壁を備え、なおその周囲へと広がっていく、大きな街。

 山間の土地とは思えぬほどにぎわう街の名は、モンテ領コナド。


 書物から現れる怪異――【物語】に脅かされ、図書館に助けを求めた街であった。

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