偽証

Aiinegruth

第1話

 は、靴に履き替えることもなく、玄関を飛び出した。

 背後から響く、自分を呼びつける声なんて気にしない。

 息を切らし、何度も転びそうになりながら、街道の端にある警察署の扉を開く。

「聞いてください、僕は昨日、人を二人殺したんです!」

 

 ・・・・・・

 

 リビングに足を踏み入れた途端、誕生日ケーキが手から零れ落ちた。蛾の舞う薄暗い電球の明かりの下、こたつの横。仰向けで倒れている祖父の隣に、血塗れのナイフを持った弟がうずくまっている。仕事終わりの小坂香奈実こさか かなみは、スーツのまま数歩後退って壁に背中をぶつけたあと、ゆっくりと崩れ落ちながら、呟いた。

「……何で待てなかったの、隆敏たかとし

 弟、小坂隆俊こさか たかとしは答えない。今日一四歳になった少年は、血塗れの服のまま、嗚咽を漏らしながら下を向いている。

「もうすぐ死ぬじゃん、こんなやつ。……何で、待てなかったの」

「ごめん……なさい……」

 うめき声の中に響いた小さな言葉を聞いて、香奈実かなみは天井を見上げ、もう一度深いため息を吐いた。冬の外気を、気持ちの悪いエアコンの暖房が均す。一気に吹き上がった汗でべたべたの髪を掻いて眺める。九〇歳の祖父は、肌着から露出した脇腹に大きな刺し傷を刻まれ、ほとんど死にかけている。いまから救急車を呼んだって間に合わない。

隆敏たかとしは、悪くないよ」

 香奈実かなみは鍵をポケットからこぼしながら立ち上がると、弟からナイフをひったくった。指紋が洗ったくらいでとれるかは分からなかったが、台所に向かって蛇口を捻る。蛾の羽音は一瞬で消えた。どうも、キィイっと流れ出した水道の音に感情をかき乱されたらしい。張り裂けそうな弟の叫び声を背後に聞きながら、姉は部屋端のゴルフバックに目を向ける。

 弛緩した隆敏たかとしの身体を何とか引きずって数メートル祖父から引きはがすと、香奈実かなみは握っていたドライバーを振り上げた。天井の低い土壁の平屋一戸建て。バチンと吊るされた電球が叩き割れた瞬間に、社会人四年目の彼女の脳裏に様々な記憶が蘇る。この男にゴルフ道具で殴られ、道端の草花を食べさせられ、性行為を強要され続けた二二年間の記憶が。

 腕力が足りなかった。だから何度も殴った。手に痕が残るほど振り下ろしてから、記憶を頼りに固定電話の方へ歩き、自分のスマホを鳴らした。暗い部屋の中で、甲高く鳴るアニメのOP。弟は息を詰まらせるだけで、もう叫びはしなかった。

「うえっ……」

 死体は不細工な感じに損壊していて、狙った脇腹はそこまでではなく、狙っていない顔面がひどい有り様になっていた。知らない間に踏みつけていた誕生日ケーキがいちごの色に染まっていくのをみながら、香奈実かなみはドロドロの靴下を脱いだ。ピッという音。正面、ヒトを感知するタイプのエアコンのカメラが祖父から汗まみれの自分に向くのが、こんなに悍ましいことだとは思わなかった。腰を下ろして視線を上げると、病死した母の遺影と目が合う。涙が流れるままに目線を逸らし、彼女はいまだ座り込んだ弟に声をかける。

隆敏たかとしは何も悪くないよ。大丈夫、大丈夫だからね」

 何度も手から滑り落ちそうになるスマホをどうにか掴んで、番号を打ち始める。祖父を殺した。自分が。心拍は激しく、血に手が滑り、たった三つの数字を何度も間違える。110,警察、殺人、自首。数分経ってようやく正しいコール音が響いたところで、弟の声がする。

「来たん……だ、父さ……ん……が」

 何がありましたか、もしもし、何がありましたか。電波越しの質問の言葉も遠く、香奈実かなみは続く言葉に耳を奪われた。

「見られ……た、庭だ……と、思う」

 泣いていた。思考がぐちゃぐちゃのまま、立ち上がって、台所に走る。シンクに腕を打ち付けながら、掴んださっきのナイフ。勝手口を空けて、裏庭に降り立つと、標的はいた。祖父よりまだ十分息があることに、香奈実かなみは青ざめた。ぼさぼさの髪に無精ひげを生やして物置小屋に腰を預けた父は、足にけがを負って動けないだけだ。

「痛ぇ……、オイ、香奈実かなみか、包帯取ってきてくれ」

「パパ」

「仲間にゃ連絡してあんだ、あんの不具カタワのクソガキは今日バラシて売る」

 冷えた月明かりが、大柄の男の闇色の瞳に差す。隆々とした筋肉は、反射的に吐き気がするほどの威圧感を宿している。負った傷をそこまで気にする様子もなく、父はいつもの調子で続ける。

香奈実かなみ、お前は馬鹿じゃねえ。かわいいオレの子だ。わりぃけど、三万、三万で良いから今月も頼むよ。二着にゴミみてえな馬が入りやがってさ。一二番人気とか流石のオレでも考えてねえって、お前もそう思うだろ? ママに似て頭いいからオレの気持ちわかるもんな?」

 明後日が二〇〇万円返してくれる期限じゃなかったの。とは、彼女はもう返さなかった。最初に問い返したときに、そうする気力がなくなるほど殴られたからだ。隠したナイフを放さないように強く握る。家から一本道を挟んだ公園からは、沢山のバイクが集まってくる音が聞こえる。

「オイ、何やってんだ。走れよ、分かんねえのか? あ? 先にジジイにヤられて、マワしてもクソつまんねえから金で勘弁してやってんだろうが。社会人にもなって、父さんがそんなジョーシキを教えてやんなきゃいけねえか?」

 喉から吹き出しそうになる悪寒と、目を泳がせる怯えを必死に抑えつけながら、ブラウス姿の女性は首を横に振る。聞こえない。聞こえない。もう一人は殺した。怖くない。大丈夫。あとはこいつだけ。

「ごめんなさい、パパ、待ってて」

 揉み合いになったら勝てない。台所に戻った彼女はナイフをシンクに投げ込むと、サラダ油をいっぱいに満たした鍋を火にかけた。何度も響く怒鳴り声の代わりに、近付いてくる恐ろしい人たちの言葉に注目する。カーテンの隙間から視れば、一つしかない街灯に照らされた男の影が八つ。父の友達だ。腕に棒やナイフなど武器を持っているのが分かる。隆俊たかとしは終わりだ。きっと、捕まったら。

 刺すよりも殴るよりも簡単だった。二〇〇度くらいの油をぶちまけて喚き散らす一人を倉庫ごと燃やすと、歩けるようになった弟と一緒に車に乗り込む。バック駐車のおかげで、一本道は直ぐに大きな弾丸の射線に変わった。駐車場の正面、火災の異常を察して恫喝しながら詰め寄ってきた数人を轢き倒し、香奈実かなみは右へとハンドルを切る。

「は、ははは、はは、何、何やってんだろ私、明日も仕事なのに」

 真っ赤に染まって変形したボンネット。衝撃でパーツがおかしくなったのか、何かガタガタと異音がする車体。ただただ最悪の夜だった。中国道の下道はトンネルが多い。こんな時には何か音楽をと思ったが、スマホを家に置いてきてBluetoothも繋がらない。CDは祖父の好きな演歌だ。かけるわけがない。

「お姉ちゃん……ごめん……僕……おかしくて」

 隆敏たかとしは軽度の発達障害だった。特別支援学級には通っていないが、クラスではそこそこ浮いているという。嘘を吐くのが苦手で、その不器用のために父や祖父の不機嫌の餌食になっていた。いつも家にいるわけではなかったので、香奈実かなみが庇いきれたとはいえない。声を出せなければ、誰も気づかない。痣を残さずにひとを傷付けることに、暴力者たちは長けていた。

「いいよ、全然。正直なところが、隆敏たかとしのいいところだよ。私は大好き」

 窓ガラスを開けると、冬の空気が火照った身体を冷やした。悪寒が澄んだ風に抜け、何も知らない顔の星々が昨日と同じように二人を照らす。逃げ切れる気は、はじめからしていなかった。着替える時間もなかったから、姉弟きょうだいはちょっと茶色のままだ。

 こんな人殺しが、将来ある弟を狂わせてしまってはいけない。香奈実かなみはコンビニの駐車場に車を停めると、ゴミ捨てに出てきた店員が慌てた顔で警察に通報するのを横目に、一つのことを、最も大切な家族に伝えた。

「きっと、忘れないでね。死んでいいひとなんていないの。だから、私は捕まる。隆敏たかとしは、立派になって。おじいさんや、お父さんや、私みたいになってはだめ。お母さんみたいになりなね」

 自分よりまだ背の低い弟がまた泣き崩れるのと同時に、姉もまた平衡を失ってアスファルトの床に転がった。ざらざらした地面に頬を擦りながら、香奈実かなみはゆっくりと歌い始めた。今日、一番の思い出になるはずだった誕生日の歌だった。間もなく聞こえてきたサイレンの音がうるさくて、弟の耳にそれが本当に届いたのか、姉には最後まで分からなかった。けれども、その額を撫でて、怪我のないことを想うだけで、彼女には十分だった。

 

 ・・・・・・


「僕は、――中学校二年、小坂隆俊こさか たかとし。昨日、人を二人殺したんです!」

「す、すみませんこの方、過去のショックで記憶が混濁することがあるんです。迷惑をかけて、申し訳ない」

 は、警察に掴みかかって叫んだ。慌てて追いかけてきた施設の若い男性職員が署に飛び込む。三五歳になった少年は、今朝のニュースで、溢れ出る涙と共にかつての出来事を取り戻した。


 二一年前の――市連続殺人事件において、小坂香奈実こさか かなみ容疑者(43)の死刑が本日執行されました。閑静な住宅街で家族二名を殺害、通行人三名をひき逃げしたこの残虐な事件の詳細は、ついに犯人の口から語られることはありませんでした。


「僕がどっちも殺した、ナイフで刺した! 僕は嘘を吐かないぞ!」

「落ち着いてください、施設に戻りますよ」

「父さんも、おじいさんも、昨日、お姉ちゃんにどうやって酷いことをするか話してた! だから僕が、僕が! お姉ちゃんは悪くない、何にも悪くない、何で、どこ、返して、お姉ちゃん返してっ!!」

「ちょっと施設長に連絡取ります、騒がせてすみません、抑えておいていただけますか」

 謝りながら電話をかける職員に従って、カウンターから別の案件に対応中だった警官までやってきて、落ち着いて下さい、と手を伸ばす。小さな建物の中に、溢れんばかりの涙が散り、張り裂けるような慟哭が続く。隆俊たかとしは、何本もの腕に取り押さえられながら、周囲の一人ひとりに目を合わせ、必死に伝えるように、繰り返しこう叫んだ。


 僕は嘘をつかない!

 僕が殺した!

 お姉ちゃんは悪くない! 

 

 あの二人は死んでいいひとでした! 

 あの二人は死んでいいひとでした!

 あの二人は死んでいいひとでした! 

 あの二人は死んでいいひとでした! 

 あの二人は死んでいいひとでした!

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