さかしまの世界
只野夢窮
文本
抑鬱リアリズムという言葉がある。
私は正しいと思う。
「世界を悲観的に見るから鬱になるのではなく、世界を客観的に見たら鬱になるのが当たり前だ。健常者というのは、嫌なことから目をそらしているだけだ」という理論だ。鬱病患者に言わせたら、当たり前のことを言われても、と思う。
まず、世界中に世界を何度も終わらせるだけの核兵器がある。
この時点で狂わずにいられるだろうか。狂っているのは私ではなく現実だと思う。それを独占している国があって、微妙なバランスの上で世界人類をかけたジェンガをしている。そのジェンガは今地域紛争で崩れかけている。終末核戦争で即死できれば、善い。どうせ死にたい鬱病患者なのだから死ぬことに意義のあろうはずがない。しかし死ねずに全身火傷や全身ガラス片で苦しむようなことは到底納得できない。あるいは放射線で体を蝕まれてゆっくり死ぬのかもしれない。恐怖が私の目を狂わせる。違う。狂ってない。私の目が恐怖を見据える。しっかりと見ろと、私が私に命じる。誰もが見て見ぬふりをする恐怖をしっかりと見る。
見たところで何ができる?
社会はまるでトラックに轢かれて体中血まみれの人みたいに冷たくなっていく。あらゆる社会問題が。少子高齢化、不況、表現規制、隣国の軍拡、温暖化、格差、世代間対立、男女間対立、炎上、私刑、人質司法、地域差別、あらゆる問題が悪化していく。もう救命できる段階はとうに過ぎている。全ては悪くなり、全ては絶望である。現場の人間のもがきが、無為な電気ショックに重なる。脳が死んでもしばらく体は生きるだろう。そして、その後は?
問題は、私が何もできないことだ。見ることしか、できないことだ。見たところで何ができる? わかったところで何ができる? 私には金がない。私には学がない。普通に生きて普通の幸せが欲しかっただけなのに、なぜこれだけの恐怖に晒されないといけない? 私に何かできるのなら私の精神は救われるのだろう。けれども私には何もできない。せめて誰かに分かってほしい。この恐怖を理解してほしい。鬱病という言葉で片づけないで欲しい。私はただ論理的に物事を考えているだけなんだ。
心療内科に行ったら薬をもらった。「働いている人には強い薬は出せない」ということだった。働けなくなったら大変だから早めに来ているのに、それもやっぱり誰にもわかってもらえない。薬を飲んでも気分がよくならないことに気分がよくなった。やっぱり私はただのたんぱく質じゃなかったんだ。そうだ。薬を飲んだらその成分で自動的に気分がよくなるなんて、そんなの人間じゃないどころか動物通り越して機械じゃないですか。ただの化合物にすぎないわけじゃないですかそんなの。私は違いますよ。私は理性的に考えられる人間だから理性理性理性理性的なので化合物を摂取した程度で考え方が変わったりしません。わかりますか? 私がわかってるだけで十分なんです。
私がなぜ生きているかですって。それは二つの理由があります。一つには死は不可逆なことです。死ぬことはいつでもできます。でも死んでから生き返ることはできません。よって、死ぬことに優柔不断がある場合、後回しにすることは次善であり理性的でもあります。もう一つには三大欲求です。いいですか、どれだけ絶望した人間でも、どれだけ理性的な人間でも、三大欲求は気持ちいいんです。脳の深いところに根差した欲望が満たされる快感は人間を強力に生に引きつけます。それはもう悔しいんですけれども仕方がないんです。客観的に見れば私は暴飲暴食を続けブクブクに太りあがり休日には14時間以上の惰眠を貪り起きるなり性風俗に通う性病持ち独身異常孤独肥満男性です。社会的には何の価値もありません。あらゆる規範からも乖離しています。しかしながらそれを止めるのであれば、この世に楽しいことはもはやありませんから死ぬる他ありません。
「健常者」がやっているように目を閉じて、悲しい現実から目を閉じることができれば、なんと素晴らしいことでしょう。目の前の楽しいことだけ、目の前の悲しいことだけ考えるのです。俯瞰する理性を失うことです。そうすれば生きる気力が湧いてくるに違いありません。だからと言って見なかったことにすることはできない。目を閉じても、現実が消えてなくなるわけでも、変容するわけでもない。目を閉じても地球は存在する、当たり前だろう。何より見なかったことにすることは私の理性が耐えがたい。私の理性が私に命じる、理性的であれと。それは私が私であるためのアイデンティティであり、愚かであるほうが、あるいは狂っている方が楽だとわかっていても、私はそうしない。そうするのは私が死ぬのと同等だからだ。
道理がひっくり返り、正しい人が病気となり、目の啓かぬ人が先頭を行く。
嗚呼まさにさかしまの世界。
さかしまの世界 只野夢窮 @tadano_mukyu
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