進む時代
「帰りたくても帰れない……」
僕は、どんよりと重い雪雲を見上げて、ぽつりと
口から漏れた白い息が、湯船から立ち昇る湯気と合わさって、ふわりと流れた。
空から舞い落ちてきた雪が、湯気と湯船の熱に溶けて、
「ああ、僕たちはいつになったら禁領へ帰れるんだろう……」
「なんて言いながら、本日二度目の温泉に浸っちゃっているところが君らしいわよね?」
「わわわっ、アイリーさん!? きゃーっ」
背中を洗ってあげるわよ、と湯船の中で密着してきたアイリーさんの大胆さに、僕は悲鳴をあげる。
すると、すぐさま隣りの露天風呂からユフィーリアとニーナが飛んできて、男湯は修羅場と化した!
「うーむ、僕たちは本当に、いつになったら帰れるんだろうね!」
見上げた空は雪雲に覆われて、遠くに見える高山の
アリスさんと、それを追ってきたミシェルさんたち。その騒動の際に、竜の墓所で静かに余生を送っていた老竜たちに迷惑をかけてしまった。
アイリーさんは、老竜たちの心の平穏を取り戻すために竜の祭壇を離れて、僕たちを呼びに来たんだよね。
僕たちはアイリーさんの要請を受けて、騒動のお
そして「竜神様の御遣い様の来訪」という久々の話題に盛り上がる老竜たちに奉納の舞を披露する旅を続けて、数日前にようやく竜の祭壇まで辿り着いたんだ。
竜の祭壇と、それを囲む噴火口跡の湖には、老竜たちでさえも入ってこない。だから、僕たちは火口跡の
心を込めて舞ったおかげか、老竜たちは満足そうに帰ってくれた。
だけど、そこから困ったことが起きたんだ。
竜峰の北部は、どこよりも冬の訪れが早い。
禁領に雪が降り積もる前から竜峰は真っ白に染まって、僕たちに本格的な冬の到来を教えてくれる。
その竜峰の雪が、僕たちを襲った。
はらりはらりと舞い始めた雪は、次の日には大雪となった。
視界を埋めるほどの雪と、太陽を遮る
それで、ここ数日はアイリーさんの住む竜の祭壇にお邪魔しているんだけど。
雪が止む気配が、全くありません!
「それはそうよ? 一度降り始めたら、春まではもう雪ばかりになっちゃうんだから」
「アイリーさん、背中に良からぬものが当たっています!」
「あら、遠慮しなくても良いのよ?」
「遠慮しますーっ!」
「アイリーが下品よっ」
「エルネア君が下品よっ」
「ユフィ、ニーナ、僕は無実だからね!?」
竜の祭壇は、普段はアイリーさんがひとりで生活する場所だからね。それほど広くはない。だから、露天風呂で騒ぐと、すぐに他のみんなにも届いちゃう!
「エルネア、何をしているの!」
「エルネア君、はしたないですよ?」
「アイリー様、いけませんわっ」
「エルネア君、アイリー様、また騒いでいるのね?」
「むきいっ、みなさん
と、あっという間に露天風呂で大騒動になる。
裸のアイリーさん! それと、ユフィーリアとニーナ。
服を着たまま飛び込んできたミストラルとルイセイネとライラとセフィーナとマドリーヌ。
賑やかになった露天風呂から、僕はそっと逃げ出す!
慣れたものです。
だって、ここに来てこれで五度目くらいの騒動だからね!
露天風呂をそっと抜け出して、温まった体を綺麗に拭いて、服を着る。
そして、誰にも見つからないように逃げる!
「にげろにげろ」
「おわおっ、鬼ごっこだね?」
「ついでに隠れん坊もしちゃおうかな! ……って、プリシアちゃん!?」
「にゃあ」
「ニーミアまで!」
すたこらさっさと竜の祭壇の奥へと逃げていたら、ちびっ子組に遭遇しました。
でも、プリシアちゃんとニーミアは北の地の獣人族の集落へ遊びに行っていたんだよね?
「エルネアお兄ちゃんたちの方が遊んでいるにゃん。ずっと帰ってこないから、リディアナお母さんに連れて帰るように言われたにゃん」
「うっ……」
僕たちが留守にしている禁領のことは、プリシアちゃんのお母さんにお願いしていたよね。
でも、そのプリシアちゃんのお母さんがニーミアを派遣してきたということは……
帰ったら怖いことになりそうです!
「でもね、ニーミア。僕たちだって遊んでいたわけじゃないんだよ? 数日前まで老竜たちのために奉納の舞を舞っていたし、帰ろうとしたら雪が降り始めたんだ」
「んにゃん。早く帰らないと、アステルお姉ちゃんとエリンお姉ちゃんが暴れるにゃん」
「そ、それは大変だっ!」
ニーミアに言い訳をしても仕方がないよね。それに、始祖族二人組が痺れを切らして悪戯暴走を始めたら大変です!
「でも、その前に! プリシアちゃん、アレスちゃん、ニーミア。逃げるよ!」
「にげようにげよう」
「おわおっ!」
「にゃーん」
僕がひっそりと露天風呂から抜け出したことを知った妻たちが、騒ぎながら追いかけてきた!
このままでは、僕は大変な目にあっちゃいます! ……いや、それはそれで有りなのかな?
「にゃ?」
「しまった! 僕の心を読む悪竜の存在を忘れていたよ」
「エルネアお兄ちゃんは、心を読まなくても表情に出ているにゃん。鼻の下が伸びているにゃん?」
「き、気のせいだよっ」
「んんっと、お鼻の下が伸びたら大変なの?」
「プリシアちゃん、気にしちゃ駄目だからね?」
現在も、竜気と法力の使用を禁止されている僕たち。だから、足を使って全力で逃げるしかない!
でもそれだと、竜人族のミストラルからは絶対に逃げられない。
では、どうするのか。
「気配を消し、物陰に潜んで、やり過ごすんだ!」
「あら、そうなのね? でも、それはわたしに追いつかれる前に実行していなきゃ意味がないのじゃないかしら?」
「ミ、ミストラル!?」
もう追いつかれていました!
そして、あっさりと捕まる僕。
ミストラルに、背後から
ミストラルの
「細やかなお胸様にゃん?」
「エルネア?」
「ニ、ニーミア!? ……ぐえっ!」
僕はミストラルに締め上げられて、降参したのだった……
ニーミアは、これから
「助かっちゃうわ。竜人族からの物資はまだまだ期待できないから、君たちの善意が嬉しいわ」
「竜奉剣をお借りしちゃっていますからね。むしろ僕たちの方がもっとお返しをしなくちゃいけない立場ですよ」
いつの間にかユフィーリアとニーナの愛用となった竜奉剣だけど、本当の所有者はアイリーさんなんだよね。そして竜奉剣は、竜峰北部の竜人族が竜の祭壇を目指すための、大切な宝剣でもあった。
ただし、現在は竜峰北部に住む竜人族の人たちにもまだ余裕がないようで、竜の祭壇へ奉納物を届けられていないみたい。
けっして、ユフィーリアとニーナが返却しなかったからじゃないよ?
竜奉剣の所有と使用にあたっては、ちゃんとアイリーさんや竜人族たちに了承を得ているからね。
ニーミアが運んできてくれた大量の物資の一部は、そのまま本日の食卓に並ぶ食材として使われた。
猪肉のお鍋、根野菜の盛り合わせや、魚焼き。
魚焼きはもちろん、北の海でお土産として貰った海の魚だ。
「海魚だなんて、とっても贅沢だわね。何十年ぶりかしら?」
「そうなんですね! それじゃあ、これからも手に入れたら奉納しますよ」
「あら嬉しい!」
「エルネア、次に北の海へ行くときは絶対に単独行動しないこと。いい? 約束できる?」
「プリシアちゃんみたいな注意をされちゃった!」
「んんっと、仲間だね?」
「にゃーん」
「どうるいどうるい」
プリシアちゃんとニーミアが加わった夕食は、やはり賑やかになった。
プリシアちゃんは、両手に羊のお肉の串焼きを持って、身振り手振りで北の地での大冒険を語る。
メイと一緒に
どうやらプリシアちゃんは、北の地でいっぱい楽しんだみたいだね。
そして、そのプリシアちゃんのお話のなかで僕たちが最も関心を向けたのは、もこもこメイの成長だった。
「あのね、メイがプリシアと同じ背の高さになっていたんだよ!」
無邪気に、そしてまるで自分の自慢話のように語った内容に、僕たちは種族の違いを改めて思い知らされたんだ。
プリシアちゃんは、耳長族。
メイは、獣人族。
寿命の全く違う二人は、成長の速さも大きく異なる。
年齢的にはプリシアちゃんの方が年上なんだけど、耳長族の成長はとてもゆっくりで、見た目の年齢はまだ四歳から五歳児くらいにしか育っていない。
だけど、メイは違う。
人族と同じくらいの寿命を持つ獣人族の成長速度は、人族と同じ早さなんだ。つまり、人族の僕たちが常識だと思っている年齢と見た目の成長速度が比例している。
メイは、見た目も精神年齢もなかなか成長しないプリシアちゃんをあっという間に追い抜いて、大きくなっていくだろうね。
プリシアちゃんは、獣人族以外の種族にも多くの親友を持っているけど。はたして、周りとの成長の違いや寿命の長さを正しく捉えられているのかな?
もしも勘違いや思い違いをしているようなら……
そんな不安が、今更ながらに僕たちのあいだで過ぎる。
だけど、
プリシアちゃんが、これまた嬉しそうにお話ししてくれた。
「あのね、メイがもっと大きくなったら、プリシアはメイに抱っこしてもらうんだよ! 約束したの」
もぐもぐと羊のお肉の串焼きを頬張りながら、プリシアちゃんはメイとの未来の約束を教えてくれた。
どうやら、プリシアちゃんはメイの方が先に大人になることをきちんと理解しているみたいだし、それならばと甘える約束まで取り付けているみたいだ。
きっと、僕たちの知らないところでプリシアちゃんのお母さんが正しい知識を教えくれていたんだろうね。
「それじゃあ、プリシアちゃんはそれまでにいっぱいお勉強をして、大人になったメイのお役に立てるようにしておかなきゃね?」
「んんっと、それはお兄ちゃんにお願いしますね?」
「なんで僕なのさ!?」
見た目は
ちゃっかり者のプリシアちゃんに、みんなが笑う。
「ふふふ、将来が楽しみになっちゃうわね」
アイリーさんも、可愛いプリシアちゃんには
プリシアちゃんの汚れたお口を拭いてあげたり、食べ飽きてお皿に戻した残し物を代わりに食べたり。
服を汚されても、食事中に賑やかに騒いでも、アイリーさんは慈愛に満ちた笑みで許してくれる。
そのアイリーさんが、ちょっとだけ真面目な視線を僕へと向けた。
「プリシアちゃんの将来は安泰だわね。でもね、別の未来のことで君たちにちょっと相談があるのよね?」
ふむふむ。どうやら、アイリーさんが僕たちを竜の祭壇に招いた理由は、老竜たちを労うためだけではなかったようだね?
なんだろう? と少し身を正して、アイリーさんのお話を聞く。
「少し話は戻っちゃうんだけど。ほら、竜奉剣をユフィちゃんとニーナちゃんに託しているじゃない? ああ、べつに返してほしいとかそういうお話じゃないのよ。だけれど、今後のことを考えて、ちょっと思っちゃったのよね」
竜奉剣は、負の
今後、竜峰北部に住む竜人族の人たちの生活環境が整って、竜の祭壇へと向かう慣例が戻ったら、必要なときは竜奉剣を竜人族の人たちに渡さなきゃいけないのです。
アイリーさんは、そのことについ色々と思案を巡らせたようだ。
考えを、僕たちに話してくれた。
「よく考えてみてちょうだい。昔からの竜奉剣は、ユフィちゃんとニーナちゃんに引き継がれたわよね? もちろん、竜人族が納得したうえでね。それで、ユフィちゃんやニーナちゃんや君たちは、今や竜神様の御遣いじゃない。それで、思いついちゃったのよ。これから竜の祭壇を目指す者たちには、竜奉剣を継承した竜神様の御遣いが準備した宝物を持つ選ばれた者の役目にしちゃうっていうのはどうかしら?」
アイリーさんの提案に、僕たちは目を丸くして驚いた。
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