愛故に

 太陽は、西に向かってかたむき始めていた。

 霊樹ちゃんのもとから出発して、いったい何日目になるんだろうね?

 大陸で追われていた間は、日にちの経過をしっかりと把握できていたんだけど。北の海に入ってから何日経過したのかがわからない。

 だって、鯢竜のクナーシャちゃんのお腹の中では太陽の動きはわからないし、そもそも飲み込まれた際に僕は意識を失ったから、そこでどれくらいの時間が経過したのか把握できていないからね。


 僕は、期限までにアリスさんたちの問題を解決して、無事に風の谷の集合場所へ辿り着けるのでしょうか……


 そんな僕の不安を表してはいないのだろうけど。

 海が、大きく荒れてきた。

 見たこともないような大波が大海原を荒れ狂わせる。どこから流れてきたのか、巨大な氷の塊が大波によってぶつかり合い、ぎしぎしと耳に不穏な音を響かせ始めていた。


 海面下の浅い場所を泳いでいた人魚さまは、荒立つ波の影響を減らすためか、深度を深くする。

 でもそうとすると、上空のアリスさんたちがこちらを見失ってしまうので、クナーシャちゃんが巨体を浮かべて道標になってくれていた。


 きっと、この海域の海水はとても冷たいんだろうね?

 僕はクナーシャちゃんの竜術の泡に包まれていて海水の影響を受けないけど、周りを見渡すだけで冷たさ伝わってくる。

 小島のように見えるほどの氷の塊が流れてきたり、小さいとはいえ僕たち以上に大きな氷が海中にもたくさん流れていた。


 空が晴れていることだけが不幸中の幸いかもしれない。

 これで空まで悪天候だったら、アリスさんたちは追従できていないだろうからね。


 僕たちは、荒れ狂う北の海を進む。

 太陽の位置から、北西に進んでいるようには思えるけど。

 でも、確信はない。

 海では、目印になる丘陵や自然の風景はないんだ。太陽の位置から、どの方角へ進んでいるのかを推測するのがやっとなんだよね。


 それでも、北の海の支配者たる人魚さまとクナーシャちゃんは、明確に目的地を定めて進んでいた。


 大波を立てて荒れ狂う海。

 その大波の先に、陸地らしき海色ではない「何か」が見え始めたのは、太陽が大きく西に傾き始めた頃だった。

 最初は、僅かに確認できる程度だった「何か」だけど、それが草木の生えていない岩場の風景なのだと、すぐにわかるようになる。

 そして、そうした岩場の風景が、荒れた大海原に点々と幾つか見え始めた頃。


「この辺りは岩礁がんしょうが多いのですよぉ。でもそのおかげですねぇ。岩礁に囲まれた先にある小島の周辺は穏やかで、そこに人族が住んでいたのですよぉ」

『私の身体ではこれ以上は進めません。どうぞ、この先は皆様だけで』


 どうやら、スレイグスタ老よりも大きな身体のクナーシャちゃんは、岩礁を越えた先の浅瀬までは進めないみたい。


「ここまで、ありがとうね! また会おうね!」

『はい、お待ちしております』


 鯢竜の咆哮が大海原に響く。

 すると、荒れ果てていた大海原の大波が、見る間に穏やかになり始めた。

 海面から突き出ていた岩礁に激しくぶつかっていた大波が消されていき、遠くの景色が海面からでも見えるようになる。

 それで僕は、目的の場所がもう目前なのだと知った。

 空を飛んで移動してきたアリスさんたちなら、もっと明確に目的の場所が見えているはずだ。


「さあぁ、行きますよぉ」


 人魚さまは海面まで浮上して、岩礁の間を縫うように泳いでいく。

 そして僕たちは、とうとう目的の小島に辿り着いた。






 小島を取り囲む大小の岩礁によって波が打ち消されているせいか、湖畔こはんのような穏やかさで浜辺の砂を撫でる海水は、どこまでも透明だ。

 貝殻かいがらを細かくすり潰したような浜辺に僕を下ろしてくれた人魚さまは、柔らかく手を振って見送ってくれる。

 もしかして、人魚さまはルイララのように人の姿には成れないのかな?


「お母さんは海で待っていますからねぇ。用事か済んだら呼んでくださいねぇ」


 と言うと、すぐに海の先へと泳いで行った。

 気を遣ってくれたのかもしれないね?

 うーむ。やはり伝え聞くような恐ろしい北の海の支配者とは違うよね。

 でも、きっとそれは僕たちが特別扱いなだけで、ルイララと仲が良いだとか、シャルロットの依頼を受けたから、という理由でもない限りは、本当に容赦をしない恐るべき存在なんだろうね。

 僕たちも、あまり油断はしない方が良い。

 気安く北の海の支配者のことを誰かに話してしまい、その者や更に伝え聞いた者が無謀に北の海に入って犠牲者が出た、なんて話になると大変だからね。


 アリスさんたちにも、北の海の支配者のことは他言無用でお願いしなきゃね。

 でも、その前に。

 僕は、きっちりとアリスさんたちを聖域へ送り帰さなきゃいけない。


 そのアリスさんたちは、小島に降り立って驚嘆きょうたんに目を見開いていた。

 僕だって、小島の美しい景色に目が移ってしまう。

 北の海の支配者を見送った僕は、改めて美しい小島を見渡した。


 白く、きらきらと輝く浜辺。

 草木の生えていない周囲の岩礁とは違い、小島には背の低い草花が咲き誇っていた。

 白い砂浜の先にまず見えるのは、こんもりと緑を讃えた小さな木の群生。白い花が緑の中に幾つも見えて、美しい。

 そして、その先は緑豊かな草原が広がっていた。


 びゅうっ、と風が吹く。

 秋を通り越して真冬を思わせるような冷たい風に、僕は震えてしまう。

 気候は、けっして穏やかとは言えない。

 だけど、冷たい風と低い気温とは違い、小島の自然風景は常春とこはるを思わせるような生態系を見せる。

 草原には花が咲き乱れ、冷たい風に乗って花弁はなびらが美しく舞う。

 幻想的な風景に、僕だけでなく全員が見惚れてしまう。


 そんな中。


「ここが南端の白浜だとしたら」


 と、アリスさんが歩き始めた。

 僕は、アレスちゃんを抱いてアリスさんの傍に走り寄る。


「この小島を知っているんですか?」


 僕の質問に、アリスさんはみんなと同じように周囲を見渡しながら、答えた。


「夫からよく聞いていた。ここがあの人の生まれ故郷なら、北側の風除けの丘に集落があるはずだ。大きくない小島だ。すぐに辿り着く」


 でも、その集落にはもう……

 僕は、言葉を飲み込む。

 言えなかった。

 もう、この島に住んでいた人々は滅んでしまっているんですよ、という無慈悲なことは。

 いったい、三十年前のこの島で何が起きたのか。


 僕は、アリスさんと並んで砂浜の先の草原へと足を踏み入れる。

 柔らかな下草を踏み、アリスさんに導かれるままに進む。

 ミシェルさんたちも、緊張した面持ちで僕たちの後に続く。


 季節感を狂わせた小島は、中心部に丘のような小盛りの森があった。

 森にも緑が生い茂り、耳を澄ますと鳥たちのさえずりも聞こえてくる。

 その、小盛りの森の手前に、集落があった。


 何年も人の手が加わらずに、つたや草木によって自然に埋もれた幾つもの古びた家屋を目にして、誰もが息を呑む。

 僕が口にせずとも、全員が一瞬で理解したはずだ。

 ここにはもう、誰も住んでいないと。


 震える両手で口を覆い、目を泳がせるミシェルさん。

 ミシェルさんも、僕と同じ思考のはずだ。

 なぜ、ここの住民たちは滅んでしまったのか。

 この小島で、いったい何が起きたのか。


 だけど、疑問を浮かべる僕たちとは違い、アリスさんだけは動揺していなかった。

 確信していたように一番近くの古びた家屋を見つめて、そして躊躇ためらわずに進んでいく。

 蔦に覆われた家屋の出入り口の前に立つアリスさん。

 蔦を払い、出入り口を開く。

 西陽にしびが差し込み、屋内が照らされた。


 あっ、と戦巫女さまが息を呑む。

 小さな家屋。その奥の寝台に、誰かが横たわっていた。

 アリスさんは屋内に入ると、寝台に横たわる者をた。


「……不思議だな。亡くなっているはずなのに、まったく腐食していない。まるで先ほど眠りに入ったかのようだ」


 驚いて、僕もつい覗き込む。


 アリスさんの言葉通りだった。

 安らかに眠っているような表情で横たわる男性。だけど、息をしていない。

 僕が確認するまでもなく、この男性は亡くなっている。

 だけど、死後の腐食はどこにも見当たらない。

 だから、ミシェルさんたちは勘違いをした。


「何が起きているの!? いつ亡くなったの?」

「何かの危険がある可能性があります!」


 身構えたミシェルさんたちを、アリスさんがたしなめた。


「案ずるな。この者たちは恐らく三十年も前に亡くなっている」


 どういうことですか? と首を傾げるミシェルさんたちに詳しい説明をすることもなく、アリスさんは男性をそっと寝台に戻して、建物から出た。

 そして、何かを目指すように、小盛りの森を目指し始めた。


「アリス様!」


 ミシェルさんたちが慌てて後を追う。

 僕もアリスさんを追った。

 アリスさんは草花に覆われた道なき道を迷うことなく進んでいくと、生い茂る森の奥へと入っていく。


「お願い、説明をして! お母さん!!」


 何も語らないアリスさん。

 何も説明してくれないアリスさん。

 それにしびれを切らしたミシェルさんが、悲痛に叫ぶ。

 それでようやく、アリスさんは歩みを止めて振り返ってくれた。


「この先に、神殿がある。あの人が生まれ育った神殿が」

「お父さんが?」


 首を傾げるミシェルさん。だけど、アリスさんはそれだけを言うと、またきびすを返して歩き始める。


 僕たちは仕方なく、またリアさんについていく。

 すると、アリスさんの言葉通りに、森の奥の浅い場所に、木造の小さな神殿が現れた。


 昼夜を問わずに礼拝に訪れる者たちへの配慮で、開け放たれたままの入り口。

 だけど、ここもやはり何年も人の手が加えられていないせいか、入り口だけでなく神殿全体が苔や蔦に覆われていた。

 アリスさんは、開け放たれたままの入り口を潜って、神殿内へと入る。


 そしてようやく、深く息を吐いた。


「……ここが」


 これまでの武人然とした雰囲気ふんいきと口調からがらりと変わり、悲哀ひあいに満ちた気配と吐息といきを漏らして、神殿内をじっくりと見渡すアリスさん。

 瞳には、涙さえ浮かばせていた。


「アリスさん……」


 僕は、躊躇いがちにアリスさんへ声をかける。

 アリスさんの心情は理解できる。だけど、このままでは駄目なんだよね。

 アリスさんは、もうそろそろ話すべきなんだ。

 なぜ、この小島へと来たかったのか。

 人は、時として言わなくても心情を伝え合えるという深い絆で結ばれることがある。でも逆に、口に出さなきゃ伝わらないことだってあるんだよね。

 だから、アリスさんには話をしてもらいたい。


 最愛の夫の故郷の小島に辿り着き。その人が生まれ育ったという神殿に来た今。

 アリスさんの口から、全てのことを話してもらいたい。


 僕がみなまで言わずとも、アリスさんには伝わったようだった。

 じっと見つめていた神殿から、僕やミシェルさんへと視線を移すアリスさん。


「君がいなければ、私は絶対にここへは辿り着けなかった。君はここまで、あの北の海の支配者と仲良く来ただろうか。知っているか? あの者は、私たちに対してはずっと殺気を向けていた。あの恐ろしい殺気に耐えられたのは、君という保証人がいてくれたからだ」


 知らなかった。

 僕にはおっとりとした口調で話しかけて、天然とも思えるような性格を見せていた人魚さまだけど。やはりそこは、北の海の支配者だったんだね。

 アリスさんたちは、深海に沈められたような全身を包む恐ろしい殺気の圧迫に、ずっと耐えていたんだね。

 道理で、途中に何度も休憩を入れていたはずだ、と今更ながらに思い知る僕。


「君がいてくれたから、私たちはお目溢めこぼしでこの小島へと来られた。その君に、不義理を通すわけにはいかない」


 できれば、僕ではなくて娘のミシェルさんに義理以上の愛情を向けてほしい。

 でも、そこは武人のごときアリスさんだ。身内とはいえ、甘やかしたりはしない。

 ミシェルさんたちは、あくまで自分の目的を阻みに来た追っ手だ。

 とはいえ、ここまで一緒に来て無慈悲な対応を取らないところが、やっぱり清く正しい巫女さまの本質だよね。


 アリスさんは、礼拝所の壁際に置かれていた椅子いすを並べて、僕たち全員を座らせた。


「エルネア君以外の者は、知っているはずだ。私はこう見えて、四十を越えた年齢だ」

「っ!」


 息を呑む僕。

 気づいていたことだけど。

 アリスさんは寿命の制約を受けない、僕たちと同じ立場の者だとわかっていたけど。

 実際の年齢を聞いて、やっぱり驚いてしまう。


「私は同じ巫女騎士であるノーブル様に師事し、幼少の頃より次代の巫女騎士になるべく修行を重ねてきた」


 アリスさんは語る。


 聖域には、時代によって十人前後の巫女騎士が守護に就いているという。

 だけど、聖域周辺はとても厳しい環境であり、巫女騎士といえども命を落としたり、守護職を担えないほどの重傷を負ったりすることがある。

 現代も、巫女騎士はアリスさんを含めて八人しかいないらしい。


「私は私情を捨てて修行を積み重ねてきた。それで、姫巫女様が不憫ふびんに思ってくださったのだろう。私が正式に巫女騎士として就任する前に、言ってくださった。一年間の自由を与えると」


 巫女騎士として聖域の守護に就けば、それこそ自由な行動はできなくなるという。

 それで、姫巫女様がアリスさんに最初で最後の自由を与えてくれた。


「私はお言葉に甘えて、聖域を離れて一年間の旅に出た」


 聖域は、どこよりも特殊な場所だという。

 外来の者の侵入を許さない。未熟な者が聖域を出ることも許されない。

 巫女騎士に就けば、場合によっては任務で聖域を離れることはある。だけど、そこはやはり聖務だから、自由な行動は許されない。

 アリスさんはたった一年間だけど、自由に世界を旅することを願った。


「そして、私とあの人は北の海岸で出逢った」


 浜辺に打ち上げられて瀕死ひんしだった神官さまを発見したアリスさん。


「君たちの前で口にするのは恥ずかしいが、一目惚れ、というものだったな。私は、海岸に漂着していたあの人に一目惚れをした」


 これまで、恋愛だとかそうした浮ついた感情を殺して、次代の巫女騎士として必死に修行してきたアリスさん。

 だけど、一年間の自由を得て。

 そこで、恋に落ちた。


「私は、あの人を必死に看病した。だが、私では救えなかった。衰弱すいじゃくし切ったあの人を救うためには、聖域へと連れて行き、姫巫女様に願うしかなかった」


 アリスさんは躊躇わなかった。

 恋した人を死なせまいと、アリスさんは聖域へと戻った。

 そして、姫巫女様の力で死を免れた神官さまとアリスさんは、結ばれることとなった。


 はたから見れば、それは胸踊るような素敵な恋愛のお話だった。

 だけど、違った。

 アリスさんは言う。


「私は、意識のなかった瀕死のあの人を勝手に聖域へと連れて行き、束縛そくばくしたのだ。言っただろう? 聖域からは、未熟な者は出られない」


 神官さまが聖域へ入れたのは、次代の巫女騎士であるアリスさんが連れてきた特別な人だったからだ。


「いわば、君という特別な存在のおかげで私たちが北の海を越えられたようなものだ」


 と話すアリスさん。


 だけど、聖域で元気になった神官は、今度は聖域から出られなくなってしまったんだね。


「あの人の生まれ故郷は……。この小島には、やまいが流行っていた」


 神官さまは、元気になった後にアリスさんに伝えたという。


 ある病が、北の海の先の小島に蔓延まんえんしてしまった。

 だが、神官であり法術の仕えない自分では、島民たちを救えない。このままでは、人々は病に冒されて死に絶えてしまう、と。

 神官さまは、決死の覚悟で海へと出た。

 大陸へ渡れずとも。近くの別の島の者であれば、救えるすべを持っているかもしれないと、一縷いちるの望みを賭けて。


 だけど、僕だけは知っていた。

 神官さまの生まれ故郷であるこの小島こそが、北の海に残った最後の人族の生活圏だったのだと。

 でも、そもそも海に出られない神官さまやアリスさんたちは知らなかった。


 なにも知らなかった神官さまは大陸へと運良く流れ着いて、アリスさんに救われた。


「聞けば、薬草さえ揃えられれば治療できるような病だった。だが、あの人から伝え聞いた場所が最悪だった」


 そう。北の海には、絶対の支配者が君臨していた。


「私とて、手をこまねていていたわけではない。だが、私はその時既に、巫女騎士としての役目に就いてしまっていた」


 武人然としたアリスさんだ。

 愛する人の言葉とはいえ、請け負った守護の任を放棄はできない。

 きっと、アリスさんにしかわからない大きな葛藤かっとうがあったはずだ。

 もしかしたら、姫巫女様や他の誰かに相談したかもしれない。

 だけど、結果はくつがえらなかった。

 誰も、北の海を渡ることはできない。

 神官さまが大陸の北へ漂着したのは、運が良かっただけだ。


「私は泣く泣くあの人を説得して、聖域に留まらせた。それが私の最初の罪」

「罪? どうして神官さまを説得したことが罪になるの?」


 僕の問いは、ミシェルさんたち全員の疑問でもあった。

 アリスさんは答える。


「私は、あの人の故郷に対する想いを潰してしまった。それが罪ではなくてなんだという?」


 アリスさんは、正義感が強すぎるんだ。

 アリスさんの行いは、決して間違いではない。

 誰でも同じ選択を強いられたはずだよね?

 自分の実力では救えない。でも、聖域になら救える者がいる。それを頼る代価として、もう聖域からは出られないとしても、好きな人のために全力を尽くすことは間違いではない。

 ましてや、当時の神官さまは死を目前にして意識を失っていたんだよね?

 アリスさんは神官さまに相談できずに、事後に小島のことを聞いたんだよね?

 それのどこに罪があるというんだろう!?


「それだけではない。私はあの人の望みを叶えられなかった」


 アリスさんは続ける。


「あの人は、最期まで故郷を想い続けていた。だが、私はその想いに応えられなかった」


 神官さまは、よくアリスさんに話していたという。

 自分の生まれ故郷がどれ程に美しい場所なのか。島民たちがいかに素晴らしい者たちなのかと。


 きっと、神官さまには微塵も悪気わるぎや悪意はなかったはずだ。

 それでも、神官さまを勝手に聖域へと連れてきて閉じ込めて、島民を見捨ててしまったと思い込んでいるアリスさんには、重いかせとなっていたんだね。

 神官さまが生まれ故郷の話をすればするほど、アリスさんの心に刺さった懺悔ざんげとげは深く突き刺さっていく。


 そして、とうとう神官さまを失うような結果になってしまった。


「私は願っていた。いつかあの人を生まれ故郷に帰してやりたい。だから、邪族と取引をしてまで、あの人の命を守った。それだというのに……」


 邪族との戦いがどれほどに熾烈しれつを極めるのか、僕はよく知っている。

 厳しい修行の果てに巫女騎士となったアリスさんでさえ、きっと厳しい戦いだったに違いない。

 そして、そんな戦いに身を置いた者がどういう運命を辿ってしまうかなんて、考えるまでもなく全員が理解していた。

 娘のミシェルさんだって、そのことでアリスさんを責めたりはしないし、聖域の者たちもアリスさんの罪を許していた。

 それでも、アリスさん自身が許せなかったんだね。


「神官さまの自由を奪い、島民を見捨てて、最後には邪族と取引をしてまで守った神官さまの命を救えなかった。だから、アリスさんは自分に罰を与えたいんだね?」


 僕の言葉に、アリスさんは瞳をきつく閉じる。

 そして、喉の奥から絞り出すように声を漏らして、僕に懇願こんがんした。


「どうか、私の命をこの島で終わらせてくれ。あの人が最期まで愛したこの島で死ねるのなら、私は本望だ」

「お母さんっ!!」


 ミシェルさんがたまらず叫ぶ。

 金切り声にも似た声で泣き叫び、アリスさんにしがみつくミシェルさん。


「嫌だよ! そんなのないよっ! お母さんは悪くないじゃない!! お父さんだって、お母さんを責めていたわけじゃないよ!! それなのにっ!」


 ミシェルさんの悲痛な訴えが、小さな神殿内に響く。

 戦巫女さまたちも全員がアリスさんに駆け寄って、アリスさんの考えが間違いなのだと口々に叫ぶ。


 それでも、アリスさんの心は折れなかった。


 愛する夫への不義理と深い愛情がアリスさんの心を侵食してしまっていて、もう誰の声も届かないんだね。


「……わかりました」


 僕は立ち上がる。

 そして、アリスさんに言った。


「アリスさん、決闘をしましょう」

「エルネア君!!」


 ミシェルさんの悲鳴が響き、古びた小さな神殿が揺れた。

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