荒れる大海

 天馬のイヴは疲れを見せることなく、竜脈に乗って走り続けた。

 基本的には北に進路を取りつつ、わずかに東寄りにずれながら進んでいる様子から、イヴもアリスさんも追っ手の更なる追撃を警戒しているんだと読み取れる。


 竜脈は、広い範囲に渡ってユーリィおばあちゃんによる迷いの術が掛けられているから、そう易々とは突破されないはずだけど。

 それでも警戒をおこたってはいけない相手がアリスさんを止めようと追ってきているのだと、僕も肝に銘じておこう。


 とはいえ、竜脈を走るイヴに乗っている僕には、何もでいきない。

 イヴから降りることも、アリスさんを説得することも。

 何せ、イヴから降りたらたちまち竜脈の流れに溺れて地上に手荒く弾き出されるか、そのまま竜脈の中で溺れ死んじゃうだろうし、そもそも背後からアリスさんにしっかりと抱きかかえられているので、降りるどころか暴れることもできません。


 まあ、プリシアちゃんみたいに暴れたりなんてしないけどね?


 そして、僕を抱き寄せるアリスさんは、いつまでも張り詰めた気配を解こうとしない。

 まさに常在戦場の武人のごとく、油断を見せないアリスさん。


 僕が落馬しないように腰に回した腕の温もりと心遣いは優しいのに、周囲を警戒する背後からの気配はいつまで経っても緩まない。

 だから、僕はなぜアリスさんがそこまで裏切りの巫女さまを許せないのかを聞き出す機会を逃し続けていた。


 仕方なく、僕は流れる景色に意識を向ける。


 深い樹海の樹々がぐんぐんと迫ってくるけど、イヴが避けるまでもなく迫った樹木が横にれて、だからイヴはなんの障害も気にすることなく真っ直ぐに走れる。

 僕が視ている景色は、竜脈の上、地上に広がる景色だ。だから、竜脈の中を走るイヴには地上の障害なんて何の影響も及ぼさないんだね。


 だけど、それも禁領の下を流れる竜脈を走っている間だけだった。

 珍しく、イヴが慌てたように進路を変えた。


「イヴ?」


 アリスさんの問いに、イヴがうなりながら答えた。


『どうやら、竜の縄張りに入ったようだ。あちらこちらから竜の存在と竜脈を吸い上げる気配がする』


 禁領を東寄りに走れば、すぐに竜峰へたどり着く。

 そして、竜峰の北部は「竜の墓所」と呼ばれていて、老練な年老いた竜たちが静かに最後の余生を送っている。


「竜脈に潜っていても、竜族だと攻撃手段を持っているだろうから、気をつけてね!」

『承知』


 僕に言われるまでもなく、魔獣のイヴも竜族の恐ろしさは理解しているよね。

 イヴは幾分か速度を落とし、その代わり周囲を慎重に探りながら、北へと走る。


「このまま竜脈に乗って北の海は越えられないのかな?」


 始祖族であり、北の海を支配しているルイララの親は、竜脈にまで影響を及ぼせるような存在なのかな?

 僕の疑問には、アリスさんではなくイヴが答えてくれた。


『無理だ。あの化け物はあらゆる手段で北の海の往来を禁じている』

「あらゆる手段?」

『陸海空霊脈、精霊や妖精その他の世界の重なり。北の海の化け物の魔法は全てに影響を及ぼす』

「うわっ! そんなに凄いんだね。それで、なんでイヴは北の海の支配者のことについてそんなに詳しいの?」


 北の海の支配者の子供であるルイララと親友の僕でさえ、どんな方法で広大な海を支配しているのか知らない。

 というか、北の海の支配者が恐ろしいという話はよく耳にするけど、これまで具体的な中身は聞いたことがなかったよね。

 イヴは魔獣として、北の海の支配者のことを知っているのかな? そう思って何気なく聞いたら、意外な言葉が返ってきた。


かつて、北の海を越えようとしたことがある』

「えっ!? それじゃあ、その時は……?」

『無論、渡れるわけもない。命辛々逃げ帰った』


 なんということでしょう。

 イヴは過去に経験済みだったんだね。北の海の支配者の恐ろしさを。

 ということは、騎手のアリスさんも……?


 背後から僕の腰に腕を回して、優しく抱いてくれているアリスさん。僕は質問してみようと、上半身をひねる。

 だけど、気安く話せる時間は過ぎてしまっていたみたいだ。


 視えていた樹海と山の景色が終わりを告げて、新たな風景が広がる。

 竜峰の終わり。北の端まで走り抜けたイヴは、とうとう沿岸までたどり着いた。


「イヴ」

あるじよ……』


 振り返りあおぎ見たアリスさんの気配が、より一層に険しくなった。そして主の意図を汲んだイヴが、何かもの言いたげながらも、迷いなく大海原に向かって走る。


「えええっ! 待ってくださいよ、アリスさん!」


 まさか、このままの勢いで北の海に突撃する気じゃないよね!?

 というか、既に突っ込んじゃっています!


 でも、ちょっと待って!


 北の海を渡る手段を、アリスさんは持っていないんだよね?

 イヴだって、過去に渡ろうとして痛い目にあったと、今まさに話したばかりじゃないか!

 もちろん、僕だって何の方法も持っていない。

 それなのに、計画性もなくいきなり突っ込んじゃうの!?


 慌てる僕を余所よそに、イヴは海の下にまで続く竜脈の流れに乗って突っ込んでいく。

 アリスさんも、立ち止まる気はないみたいだ。


 竜脈を通して視える景色が、陸地の砂浜から海の模様に変化する。

 まばゆく輝く世界。

 いつの間にか太陽が昇り、果てしなく広がる海原を青く輝かせていた。そして、陽光が届く浅い海域で泳ぐ魚たちを美しく映し出す。


「僕たちは北の海の往来ができないけど、魚たちは自由に暮らせているんだよね」


 ルイララと海を渡った時も、たくさんの魚の群や様々な海の生物を見たよね。

 では、北の海の支配者はなぜ、海域を支配して海の生物以外の存在を排除しているのかな?

 疑問を浮かべても、答えてくれる者はいない。

 その代わりに、違う応答が返ってきた。


 イヴが海の下に続く竜脈を走り初めて間もなく。

 ぞわり、とこれまで感じたことのないような、全身を分厚く包む敵意と殺気を感じ取る。


「イヴ!」


 アリスさんが叫ぶ前から、イヴは全力で回避行動を取ろうと反応していた。

 アリスさんも、手綱を引き締めながら両刃薙刀を構え、防御系の法術の祝詞の奏上に入る。


 でも、それじゃあ間に合わない!


 全身を分厚く包む、濃い殺気。

 僕たちを押し潰すような圧力が世界を満たす。


 これは!


「駄目だよ、イヴ! 逃げるなら竜脈を抜けて空へ!!」


 僕たちを押し潰そうとする圧力と殺気の正体は、竜脈そのものを魔法源に変えた、恐るべき大魔法だ!

 だから、竜脈に潜ったままだと、逃げ場なんてどこにもない!


 僕の警告に、イヴが慌てて急上昇する。

 竜脈の流れに逆らうような手荒なイヴの動きに、僕の視界が激しく揺らぐ。今にも溺れてしまいそうな目眩めまいを感じて上半身が傾いたところを、背後からアリスさんに支えてもらう。


 イヴが慌てて飛び出した先は、海の底。

 殺気と大魔法の圧力から逃れたと思ったら、今度は僕たちに水圧が襲いかかる。

 それでもアリスさんの法術が間に合って、僕たちは海の底で溺れずにすむ。

 僕たちを包み込む、満月色のような半透明の膜。

 イヴはそのまま一気に浮上すると、海面へと躍り出た。


「うわっ!」


 息を呑む僕。


 先ほどまで視えていた美しく輝く海原は何処どこにもなく、荒れ狂って大波を立てる恐ろしい海の風景が延々と果てしなく続いていた。

 しかも、白波を立てる巨大な波のひとつひとつに膨大な魔力が込められていて、見ているだけで恐怖に駆られそうになってしまう。


 イヴが必死に翼を羽ばたかせて、高度を上げていく。

 だけど、その向かう空にも計り知れない魔力が満ちていた。


 夜明けだったはずの晴天が、嵐の只中ただなかのような暗さに覆われていた。そして、大気に満ちて流れる竜脈にさえも、殺気の籠った魔力が乗せられていた。


「くっ。空も駄目か! イヴ、陸地の方へ!」


 僕の背後から、切羽詰まったアリスさんの声が届く。

 イヴの横腹を強く蹴って方向を転換させて、遠くに見える砂浜へと走らせる。

 そうしている間にも、海と空を満たす魔力と殺気が恐ろしくうごめいて、僕たちを狙う。

 上空へと駆け上がったイヴを追うようにして、大波がうずを巻きながら空へと昇ってきた。

 イヴは陸地へ向かいながら、必死に翼を羽ばたかせる。

 だけど、大気に満ちた魔力がイヴから浮力を奪う。

 がくんっ、と急に高度を下げるイヴ。

 鞍の上で僕とアリスさんが体勢を崩す。

 それでもアリスさんが踏ん張って、僕を支えてくれた。


 このままでは、陸地に辿り着く前に荒れ狂う海へと墜落してしまう!

 そうじゃなかったとしても、渦巻く高波がこちらの高度まで達して、呑み込まれるだろうね!


 僕はアリスさんに支えてもらいながら、竜気を練り込む。

 嵐の竜術で大気の魔力と殺意を吹き飛ばして、撤退する時間を稼ぐんだ!

 そう思って解き放った竜気が、振るった手の先で制御を失った!


「なっ!?」


 絶句する僕。


 嵐の竜術の前段階として解放した竜気が、大気を満たす魔力に染め返された!?

 いや、違う!

 僕は竜術を使うために、内包する竜宝玉や自分の竜気だけでなく、無意識に竜脈の力を利用する。でも、海の底を流れる竜脈どころか大海や空に流れる竜脈さえも、既に計り知れない魔力で汚染されてしまっている。

 つまり、僕が無意識に利用してしまった竜脈は、最初から魔力で支配されていて、だから僕が嵐の竜術を使う前に制御を奪われたんだ!


 僕の困惑理由と危機的状況をアリスさんも瞬時に理解したのか、背後から伝わってくる気配が緊張に満たされていた。

 それでも、アリスさんは動きを止めない。

 歌のように祝詞を口ずさみ、両刃薙刀の先で器用に法術の紋様を書き出す。

 そして、守護法術を一瞬で発動させた。


 イヴの足もとに満月色の道が灯る。

 道は陸地の方まで伸びて、イヴはその上を疾駆する。

 必死に走るイヴや騎乗する僕やアリスさんを追うように、見上げる高さまで上昇した高波が迫ってきた!


「はあっ!」


 竜脈の力を借りない、自分の竜気だけで練り上げた「竜槍りゅうそう」を高波に向かって放つ。

 だけど、竜槍は巨大な高波に呑まれただけで、爆散さえしない!


「こ、これは手のほどこしようがないね!」


 竜脈と大海原と大気の全てを満たす計り知れない魔力に、僕の小さな竜術は意味をなさないんだ。

 くやしいけど、これが現状だ!

 無力さにいきどおる僕を、アリスさんが背後から優しく抱き止めてくれた。


「君は悪くない。無計画に海へと侵入した私の決断が間違っていたのだ」


 満月の輝きに導かれて、必死に走るイヴ。

 アリスさんも休むことなく守護法術を放って、背後から迫る大波の妨害や、大気に満ちる魔力を退けようと試みていた。


 そして、イヴとアリスさんの努力のおかげで、僕たちはなんとか砂浜の上空に到達する。

 すると、これまで恐怖の象徴のように迫っていた巨大な高波は津波になることもなく大海原に戻り、周囲を包み込んでいた殺気と魔力も霧散した。


「海へ入らなければ、見逃されるというわけか」


 周囲の状況を慎重に読み解きながら、アリスさんが悔しそうにつぶやく。

 アリスさんの言葉通り。

 これまで世界の全てに満ちていた敵意や殺意や魔力は、陸地のどこにも存在していない。

 僕たちを退けた荒れ狂った大海はすぐに平穏な海原へと戻り、空にも晴天が戻る。


『これは……。やはり、海を渡るのは無理だ、主よ。今のはなんとかしのぎ切ったが、海を渡るどころではない』


 イヴが、心底疲れ切ったように嘆息たんそくする。

 でも、イヴの認識でさえ僕は甘いと直感で理解していた。


「違うよ、イヴ。それと、アリスさん」


 僕は、通常の海に戻った美しい景色に視線を向けながら、感じたことを口にする。


「僕たちは、なんとか凌ぎ切ったわけじゃないよ。北の海の支配者に見逃してもらったんだと思う」


 竜脈の中を進んで海へと入った時のことを思い出す僕。

 振り返りながら、改めて先ほどまでの絶望的な状況を話す。


「北の海の支配者がその気だったら、僕たちは竜脈の中から飛び出す以前に殺されていたと思うよ? だって、全てが魔力に汚染されていたんだから」


 僕が取り込んだ竜脈の力でさえ、魔力に染め上げられていて制御さえできなかった。そう考えると、北の海の支配者がもしも最初から僕たちを殺そうと思っていたのなら、竜脈の流れを走っていたイヴの動きを封じて、そのまま竜脈に溺れさせて逃がさないようにすることもできたんだ。

 それに、周囲全てに魔力が満ちていたのなら、空にまで迫り上がった大波なんてわざとらしく目立つ魔法なんて使う必要もなく、僕たちの不意を突いた魔法で瞬殺できたはずだよね。


 それと、と僕はもうひとつだけ小さな違和感を覚えていた。

 世界の全てを汚染していた圧倒的な魔力は、一種類だけではなかったような……?

 あの魔力は……

 でも、これは確定事項じゃないから、口にはできないね。と小さな違和感だけ喉の奥に飲み込む。


 ともかく、北の海の支配者は、僕たちをいつでも殺せる状況を維持しながらも、陸地に逃げ込むことを許した。

 それってつまり……


「僕の勝手な推理だけど。多分、北の海の支配者が僕のことを知っていて、ルイララとの繋がりがあったから見逃してもらえたんじゃないかな?」


 僕とルイララが前に海を渡ったことくらい、北の海の支配者なら当然のように知っているはずだからね。

 だから、今回は大目に見てもらって見逃してもらえたのではないか、と僕は直感で感じていた。

 僕の意見に、アリスさんとイヴが「無謀すぎたか」と低く唸る。


「私は、君と北の海の支配者の子との繋がりであわよくば海を渡れるのでは、と思ったのだが。考えが浅はかすぎたようだ」

「それで、問答無用で海を渡ろうとしたんだね? 事前に相談したら、僕が拒否すると思って?」

「そうだ。全ては私に責任がある。怖い思いをさせてしまい、申し訳ない」



 深々と謝罪するアリスさん。

 僕は笑って受け流した。


「いいえ、大丈夫ですよ。でも、今度からはちゃんと相談してくださいね?」


 誰にだって、間違いや失敗はある。特に、切羽詰まった状況で精神が追い詰められていたらね。

 今回はとても危なかったわけだけど、直感的に北の海の支配者から見逃されているとも感じていたし、だから今回はアリスさんの暴挙を許しましょう。


「それにしても。北の海を渡ろうとする者がこれだけ圧倒的な力で排除されるのなら、アリスさんが追っている巫女さまはどうやってこの海を越えたのかな?」


 大きな疑問だよね?

 だけど、アリスさんもイヴも応えてはくれなかった。

 そして、北の海を渡ろうとして騒ぎを起こした僕たちには、新たな問題が待ち受けていた。


 南に見える竜峰の端から、竜族の咆哮が響き渡る。


「まさか、老竜たちを怒らせちゃった!?」


 最後の安息を望む年老いた竜族たちが、今の騒動で怒ったのかもしれない。

 でも、僕の考えは甘かった。

 老竜たちが怒りの咆哮を放った原因。それは、竜峰がそびえる南の空に視線を向ければ一目瞭然だった。


「追っ手の人たちが竜族の縄張りに触れて、怒りを買っちゃったんだ!」


 黒い天馬が五騎。そして、それを追うように竜峰から飛び立った飛竜と翼竜が併せて九体。

 新たな問題を前にして、僕たちは休む暇もなく臨戦体制に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る