スレイグスタ老の覚悟

 金剛の霧雨がゆっくりと東進する様子を見た後。僕たちは急いで、竜峰の麓に戻った。


「おじいちゃん!」


 スレイグスタ老は、アームアード王国の王都の西のはし、竜峰への入口となる関所せきしょの近くに姿を現していた。

 苔の広場から出てきている様子からも、深刻さが伺える。

 アシェルさんは、スレイグスタ老の隣に着地する。僕たちはお礼を言って、急いでスレイグスタ老の前まで駆け寄った。


「おじいちゃん、早まらないで!」


 僕が声を掛けると、スレイグスタ老は金色の瞳でこちらを見下ろす。だけど、いつものような冗談や悪戯いたずらは降ってこない。

 代わりに、ぐるぐると喉の奥を鳴らした。


「よく戻った。汝らには汝らの事情があるだろうから、余計な迷惑を掛けるわけにはいかぬとアシェルには伝えたのだがな」

「緊急事態なのに、僕たちの事情なんて関係ないですよ。僕たちは、おじいちゃんのためなら世界のどこに居たって駆けつけます!」


 僕の言葉に「嬉しいことを言う」と返すスレイグスタ老。だけど、瞳が全然笑っていない。


「さっき、金剛の霧雨を見てきました。猩猩の炎の縄張りのような威圧感は全然なかったですけど、間違いないんですよね?」


 竜峰の山間部をゆっくりと東へ進む金剛の霧雨の様子を伝える。

 スレイグスタ老は僕たちの報告を黙って聞き終えると、視線を竜峰へと向けた。


「うむ。間違いなかろう。我も長く生きているが、話にしか聞いたことはない。しかし、我は確実に感じ取っているのだ。彼奴あやつの存在をな。汝も、その気になれば彼奴の恐ろしい存在の在り方を感じられるだろう」

「存在の在り方?」

「左様。試してみよ。竜脈を辿り、彼奴の正体を探るのだ」


 スレイグスタ老は、苔の広場に居ながら、竜峰で活動する僕たちの気配を正確に読み取ることができる。竜脈を使って、遠く離れた者の気配を読むすべを持っているんだよね。

 僕も、スレイグスタ老にならって竜脈に意識を向ける。

 地下深くに流れる竜脈の流れを辿り、遠くの気配を読み取っていく。

 すると、すぐに竜脈の流れが途切れている場所を見つけた。

 最初は、猩猩が何もかもを喰い荒らした場所の気配かな、と思ったけど。

 違う。そういう気配の途切れ方ではない。

 それに、場所も違う。


 位置は、竜峰の東端の村の、もう少し西側。山を三つ分ほど奥に行った辺り。そこまで辿っていくと、忽然こつぜんと大河のような竜脈の流れが途切れてしまった。

 猩猩に食い尽くされた竜脈も途切れてしまっているけど、その途切れ方とは違う。

 猩猩の縄張りだった一帯の竜脈の途切れ方は、川が上流に差し掛かると徐々に水量を減らして細くなり最後には枯れて流れが消えてしまう、という自然な感じの途切れ方だ。

 一方、僕が感知した竜脈の途切れ方は、ある場所でいきなり寸断されたような、不自然な途切れ方だった。


「これって……。途切れている、というよりも、それから先の気配が完全に遮断されているって感じですね? ……ううん、違う!」


 竜脈が途切れた先はどうなっているのかな?

 周囲の様子は?

 と、慎重に気配を探っていた僕は、あることに気づく。


 まさに山二つ分程の範囲が、完全に遮断された空間になっている。最初は、そう思った。

 だけど、違うんだ!

 気配が遮断されているわけではない。

 遮断されていると感じる「もの」こそが、金剛の霧雨の気配なんだ!


「こ、これって……!」


 人や竜や精霊。それに動物や植物。世界に息づく生命は、全て「世界の上」に存在する。

 たとえ目に視えない精霊の世界だろうと、そこは「世界の上」に在るんだ。ただ、普段は僕たちの目に映らない別の階層に存在しているだけなんだよね。


 でも、金剛の霧雨は違う!


 金剛の霧雨は、世界を侵食するように存在しているんだ。

 僕たちの住む「世界」とは別次元の存在。だから、気配を探ると遮断されたように感じる。僕たちには感知できない「存在定義」の生物だから、何も感じることができない。

 しかも、金剛の霧雨が存在するのは、地上だけではなかった。

 空と大地と地下を侵食し、金剛の霧雨は世界を切り取ったのように「そこ」に在る。


「そ、そんな……」


 だからか、と戦慄せんりつをもって今更ながらに思い知る。

 しとしとと降り続く霧雨のように見えた。でも、それは大きな間違いだった。

 僕たちとは存在の定義そのものが違う魔物「金剛の霧雨」を、僕たちの常識に合わせて視認しようとしたら「霧雨」のように見えただけ。

 気配そのものが読めないから、危険な存在だと認識できなかっただけ。

 あまりに規格外すぎて、僕たちが理解できていなかっただけだ。

 それが、金剛の霧雨と呼ばれる化け物の正体だった。


「こんな相手に、わたしたちの力が通用するのかしら?」


 ミストラルも気配を読んでいたみたいで、不安そうに僕やスレイグスタ老を見る。


「でもさ。僕たちは妖魔の王だって討伐できたんだよ。もう一度みんなで力を合わせれば、金剛の霧雨も倒せるはずだよ!」


 僕たちは、魔物と妖魔の頂点に君臨する妖魔の王を倒したんだ。

 だから、たとえ伝説級と云われる魔物だとしても、妖魔の下位種族である魔物「金剛の霧雨」を倒すことはできるはずだよ!

 力説する僕。だけど、スレイグスタ老は低く喉を鳴らして、僕の言葉を否定した。


「時に、希望的な予測は有益な気構えをもたらす。しかし、それで正しく物事を判断できぬようになっては、意味がない。汝らは知っているはずだ。下位の存在であれ、上位の者を凌駕りょうがする力を持つことがあるのだと。エルネア、汝がそうであろう?」


 スレイグスタ老に指摘されて、僕たちははっとする。

 そうだ。上位種だ、下位種だと都合よく決めつけて相手の力量を見誤るなんて愚行は、犯すべきじゃない。もしもそんな意味のない価値観で相手を判断してしまったら、それは即座に、僕自身の価値やこれまでの努力を自分で否定してしまうことに繋がってしまう。

 だって、僕こそが人族の常識を越えて、竜人族の称号である「竜王」を得た者だからね。


 僕は、人族でありながら「竜王」として、竜人族が称賛してくれるくらいの実力と実績を積み重ねてきた。

 それと同じだ。

 魔物であっても、金剛の霧雨は油断のならない化け物であることを見誤ってはいけない。場合によっては、妖魔の王を凌駕する存在かもしてない。


 あの妖魔の王を超える魔物が存在するなんてにわかには信じられないけど、ここで金剛の霧雨の脅威を軽く見てしまってはいけないんだ。

 僕たちがそうであるように、魔物であっても上位の妖魔や邪族を超える存在にまで成長した化け物が現れた可能性は否定してはいけないんだね。


「金剛の霧雨は、妖魔の王に匹敵するか、それ以上の化け物なんですね? それに……。妖魔の王の時とは違う脅威を金剛の霧雨は持っていると、おじいちゃんは考えているんですね?」


 スレイグスタ老の反応を見ながら、冷静に現状を確認する。

 妖魔の王を討伐したときは、持てる限りの戦力を結集させて、ようやく勝てた。

 では、今回はどうだろう?


 アシェルさんは居るけど、他の古代種の竜族はいない。巨人の魔王を筆頭とした魔族の精鋭も、アレクスさんたち神族もいない。

 竜人族や竜族は、竜峰の危機に立ち上がるだろう。人族や耳長族、それに他の種族だって、声を掛ければ集まってくれるかもしれない。

 そういう状況で金剛の霧雨と戦いになったとしたら、どうなるんだろう?


 ううん、違う。今回は頭数を揃えれば良いという問題じゃないのかもしれないね。

 金剛の霧雨は、竜族でさえ容易く飲み込んだ。そこに頭数だけ揃えて挑んだとしても、余計な犠牲が増えるばかりかもしれない。


 スレイグスタ老は、苔の広場を離れて人の目のつく場所に姿を現した。当然、アームアード王国は大騒ぎになっているはずだ。

 先の魔族との大戦で、竜の森の守護竜は実在した、と人々から認識された。その守護竜が、意味もなく竜の森の奥から出てくるとは考えないはずだ。きっと、何事かと調べたはずだよね。

 スレイグスタ老だって、に及んで情報を秘匿ひとくするはずはない。だって、金剛の霧雨がこのまま東に進んでくれば、いずれは竜の森だけでなく王都も飲み込まれてしまうだろうからね。

 スレイグスタ老は自ら姿を現し、人々にこれまでになく恐ろしい危機が迫っているということを知らせてくれたはずだ。


 だけど、スレイグスタ老の周囲に人影はない。関所には大勢の兵士が集まっている気配を感じるけど、関所を超えてこちらに集合する様子は見られない。

 間違いなく、スレイグスタ老が伝えたんだ。

 今回は、数合わせの戦力は意味をなさないと。


 つまり、妖魔の王を討伐した時と今回の危機は、全く別の性質だということだね。

 王都の人々も、スレイグスタ老も、僕たちが到着する以前からとっくに理解していた。

 今回は、大勢で協力すれば乗り越えられるというような単純な危機ではいない。力を持たない者はどこまでも無力でしかなく、運命に逆らうことさえできない。

 そして、金剛の霧雨という伝説の魔物がこのまま進んでくれば、長い歴史を誇るアームアード王国も霊樹の大樹を内包する竜の森も、滅びの道を辿るだろう。


 文明の終わりをこの上なく身近に感じ、背筋が凍りつく。

 幽冥族ゆうめいぞくは、こうした目に見える滅びを目にしてなお、自分たちの運命に従ったのかな?

 怖くはなかったのだろうか。

 僕は、竜の森や霊樹、それに故郷であるアームアード王国の王都が滅びるかもしれないと知って、全身が凍ったように寒くなっていた。


 僕たちが、金剛の霧雨がもたらす恐怖と絶望をようやく認識したと感じ取ったのか、スレイグスタ老は低く喉を鳴らす。


「理解したであろう。今回ばかりは、汝らの協力をあおぐわけにはいかぬ。彼奴を倒すには、極限を超えた力をぶつけるしかないのだ」

「それで、おじいちゃんが禁術を? 駄目ですよ!! それだけは、絶対に駄目です!」


 僕は叫び、スレイグスタ老の黒くつややかな身体に触れた。

 ひんやりとしたうろこから、スレイグスタ老の大きな存在を感じる。と同時に、スレイグスタ老の強い決意も読み取れた。

 僕たちが帰ってくる前から、スレイグスタ老は準備を進めていた。既に限界まで竜気が高められていて、スレイグスタ老の内側でははち切れんばかりに竜気が膨れ上がっていた。

 きっとアシェルさんが、僕たちを連れ戻してくるから、とスレイグスタ老を引き留めてくれていたから、今こうして僕たちは言葉を交わせているのかもしれない。

 そうでなければ、スレイグスタ老はもっと早い段階で行動していたはずだ。

 自らの力を持って禁術を発動させ、金剛の霧雨に戦いを挑む。


 いったい、スレイグスタ老はどんな禁術を使おうとしているのか。それはわからない。だけど、確実に言えることがある。

 もしも故意に禁術を使ってしまったら、惨憺さんたんたる結末しか迎えられないということだ。

 たとえ禁術で金剛の霧雨を倒すことができたとしても、スレイグスタ老に明るい未来は訪れない。

 なぜなら、と僕たちはひとりの女性を思い出す。


 北の魔女。


 僕も、かつて意図しない形で禁術を使ってしまったことがある。その時に、厳しく注意された。

 いかなる理由があったとしても、禁術だけは使ってはいけないと。もしもこの禁忌きんきを犯してしまうと、魔女が容赦なく排除しに来ると言われた。

 あの時は無知であるがゆえの過ちだったと、僕は魔女さんに許された。

 だけど、スレイグスタ老は違う。

 禁術の恐ろしさを知っている上で、故意的に使ってしまったら……

 魔女さんは、たとえ知己ちきであったとしても、禁術の使用者としてスレイグスタ老を容赦なく処断するだろうね。


 だから、僕たちはスレイグスタ老に禁術を使ってほしくないと思っている。


「おじいちゃん、早まらないで!」


 スレイグスタ老の内側に溜め込まれた計り知れない竜気を感じながら、僕は言う。


「僕たちだって、成長しているんですよ。だから、きっとおじいちゃんの力になれるはずです。つい先日だって、僕は新しい術で暴走する始祖族の巨人を正気に戻したんですよ!」


 冥獄の門の奥。幽冥族たちが暮らした地下都市を守護する始祖族の巨人の暴走を止めるために、僕は霊樹の精霊剣を使ったことをスレイグスタ老に話す。


「たとえ相手が世界のことわりゆがませる化け物だったとしても、霊樹の力ならきっと倒せるはずです!」


 妖魔の王にとどめを刺した力も、霊樹の力だった。

 そして今、僕は霊樹剣を以前よりも自在に呼び出せるようになった。

 この力なら、きっと金剛の霧雨にだって通用するはずだ。

 僕と一緒に、みんなもスレイグスタ老を必死に説得する。

 この機を逃してしまったら、スレイグスタ老は僕たちを置いて、金剛の霧雨に戦いを挑むかもしれない。

 禁術という最悪の切り札を使って。


 僕たちは、スレイグスタ老が勝手に飛び立たないように漆黒の体毛をがっしりと握り締めて、説得を続けた。


「ふぅむ。やれやれであるな」


 すると、根負けしたのか、スレイグスタ老が深くため息を吐く。


「彼奴は、我でさえも倒せるかわからぬような存在だ。しかし、汝らは我でさえも相手をしたことがなかった妖魔の王を倒したという実績を持つ。であれば、汝らの声に耳を傾けぬことは愚かであるかもしれぬな」

「それじゃあ?」

「良かろう。此度こたびは、汝らにゆだねてみようではないか」


 スレイグスタ老が僕たちを置き去りにして禁術を使うという最悪の状況を回避することができた。僕たちは手を取り合って喜び合う。

 だけど、スレイグスタ老の金色の瞳からは、気を緩めるような気配はない。


「汝らに事を委ねる。しかし、汝らであっても彼奴を退けることができぬようであれば、我は躊躇ためらわぬだろう。竜の森と霊樹を守護することこそが、我の宿命であることを忘れるでないぞ」


 失敗は許されない。

 僕たちの力で、金剛の霧雨を倒してみせます!

 家族全員で気合いを入れる。


 スレイグスタ老は、そんな僕たちを黄金色の瞳で静かに見下ろしていた。

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