金剛の霧雨

 ルイララ、トリス君、ごめんなさい!

 でも、スレイグスタ老が暴走していると聞いてしまったら、何よりも先に僕たちは駆けつけなきゃいけないんです!


 僕の運命を切り開いてくれたのは、間違いなくスレイグスタ老だ。

 ひ弱で軟弱なんじゃくな僕に竜剣舞を授けてくれて、ミストラルと巡り逢わせてくれた。

 時には優しく、時には厳しく試練を課し、僕を一歩一歩と成長させてくれた。

 僕だけじゃない。家族全員がスレイグスタ老には深い恩を抱き、掛け替えのない大切なおじいちゃんだと思っている。


 そのスレイグスタ老が暴走していると、口にしたアシェルさん。

 しかも、時間的猶予は残り僅かしかないらしい。

 アシェルさんは、スレイグスタ老の暴走を止められるのは僕たちしかいないと感じて、ニーミアの気配を追って僕たちを探し出した。そして、急いで戻ろうとしている。


「アシェルさん、もう少し詳しい状況を教えてください」


 アシェルさんの背中に乗ってしまえば、僕たちにできることなんて、眼下を高速で流れていく風景を大人しく見下ろすくらいだ。

 でも、アシェルさんの背中の上で座っておくだけだなんて、今の僕たちにはできない。少しでも気をまぎらわせようと、アシェルさんに声を掛けた。

 だけど、アシェルさんは何も言わない。東の空を見据えたまま、翼を羽ばたかせて飛び続ける。


おきなに、いったい何が起きたのかしら?」


 普段は家族の中で一番冷静なはずのミストラルでさえ、顔に不安の色を濃く浮かべて目を泳がせていた。

 ミストラルは、僕と出逢う前からスレイグスタ老のお世話係として苔の広場に出入りをしていた。家族の中で誰よりもスレイグスタ老と長い時間を過ごしてきたのは、ミストラルだ。もしかすると、僕以上に不安を抱いているのかもしれない。

 僕はミストラルの不安を少しでも取り除こうと、手を握って抱き寄せた。

 でも何故なぜか、僕の方がミストラルの体温を感じて安堵あんどしてしまう。どうやら、僕も自分で感じている以上に不安になっていたみたいだね。

 みんなも不安だったのか、全員が寄り添ってひと塊りになる。


 背中の上で不安がる僕たちの気配を感じたのか、アシェルさんが深いため息を吐く。そして、ようやく重い口を開いてくれた。


「口にすることさえ億劫おっくうだから、現実を見せる方が早いと思っていたんだけどね。そうね。事前に説明くらいはしておかないと、其方たちが困るわね」

「そうですよ。それに、正体が見えない不安が一番怖いんですからね?」

「ふん。そう言っていられるのは、私の話を聞くまでだよ。聞いてしまえば、余計に不安になるだろうさ」

「えええっ! そんなに困った状況なんですか!? おじいちゃん……」


 僕たちは肩を寄せ合い、アシェルさんの話に身構える。

 スレイグスタ老の暴走とは何か。

 ごくり、と唾を飲み込んだはずの喉は、緊張でからからに乾燥していた。






 アシェルさんは、休むことなく飛び続けた。

 レヴァリアも、アシェルさんに置いていかれないようにと必死に追従していた。

 あっという間に有翼族が暮らす山岳地帯を抜けて、魔族が支配する地域の南部に入る。灰色の厚い雲の上をアシェルさんはひとっ飛びで通過し、広大な魔族の国も通り過ぎた。

 太陽が西の彼方に一度沈み、もう一度東の空から顔を出して間もなく。

 僕たちは、竜峰の空へと帰ってきていた。


 アシェルさんは少しだけ速度を緩め、軌道修正を計る。

 険しい山脈に近づくように高度を下げながら、アシェルさんは僕たちをある地点へと連れて行ってくれた。


「あれだよ」


 緊張したアシェルさんの声に、僕たちは視線を下ろす。

 深く険しい山間に、それは見えた。


「……きり、というか、局地的に雨が降っているようにしか見えませんね?」


 アシェルさんが示した先では、山間部を流れる風にあおられて、ゆらゆらと情景を揺らす局所的な雨模様が見えた。

 竜峰の大部分は晴れていて、薄い雲が山脈の高い場所をゆっくりと流れている。

 だけど、僕たちが見つめる場所だけが、どんよりと天気を崩していた。

 でも、それは珍しい風景ではない。山間部では、天気がころころと変わるのは珍しくない。さっきまで晴天だったのに、急に大雨になったり、かと思ったらすぐに止んだり。

 朝は深い霧が立ち込めて、場所や季節によっては雲海になったりもする。その霧や雲海も、太陽が昇って程なくすると雲のように流れて消えてしまう。

 天気が変わりやすい山脈の奥で、局地的に天気が崩れている風景なんて、僕たちには見慣れた景色だ。


 視線の先の雨模様も、山二つ分を覆うくらいの範囲で雨を降らせていた。

 しとしとと、見るからに優しい雨だった。

 大粒の雨ではなく、霧のような柔らかな極小のしずく

 霧雨きりさめ

 雨宿りするような雨量ではないし、冬でもない限りは、雨用の服を着ていれば気にすることなく進める。夏なんかは、むしろ気持ちの良い雨の部類に入る。


 だけど僕たちは今、その霧雨を恐怖の眼差しで見つめていた。


「あれが現れたのは、其方らが禁領に帰って間もなくだったようよ」


 速度を落とし、山二つ分ほどを覆う霧雨の周囲を遠巻きに周回しながら、アシェルさんは話す。


「最初に気付いたのは、飛竜だったようだね。いいや、正確には、地竜が最も早く異変に気付いたんだろうけど、その者たちは喰われてしまったからね」

「地竜が喰われた……」


 アシェルさんは軽く口にしたけど、僕たちには衝撃的すぎた。

 地竜、というか竜族は、数多存在する種族の中でも頂点に君臨する種族だ。有翼族だろうと、魔族や神族だろうと、竜族を恐れる。その竜族を捕食する存在がいるだなんて、普通は考えられないし、考えたくもない。


「其方らも、猩猩しょうじょうを覚えているだろう? あれが去った後の土地は、竜脈も枯れて砂漠のように荒れ果てていたのよ。でもね、魔物にはそんなことは関係なかったのさ。大物が去った空白地帯は、魔物や妖魔の格好の溜まり場になっていたんだよ」


 猩猩は、何年も竜峰にとどまって、地上の生物や自然だけでなく、竜脈まで喰い尽くした後に去っていった。

 地竜たちは、猩猩が住み着いていた時から縄張りの様子をずっと監視してくれていて、去った後も異変が起きないか調べてくれていたことを、僕たちは知っている。

 もう少し時間が経って、竜脈が回復し始めたら、僕たちも癒しのお手伝いをしようかと思っていたんだけど、どうやら事態は深刻だったようだ。


「魔物や妖魔程度なら、地竜は気にも留めないだろうさ。監視はしていても、積極的に狩ったりはしない。えさにもならないからね」


 魔物や妖魔が多少沸いたとしても、それは竜峰では当たり前の景色だ。竜族がその程度のことに気を留めるなんてことはない。それに、動物や魔獣とは違って、お肉を食べることもできないからね。

 だけど、魔物や妖魔が現れ始めたことが、事の発端だった。


「妖魔の王を討伐した時も、そうだっただろう? 最初は弱い魔物が出没する程度だったとしても、雑魚は次第に大物を呼び寄せていくのさ」


 池での釣りでもそうだ。に寄ってきた小魚を狙って、中型の魚が集まり出す。そうすると、今度は大きな魚が現れて、場を支配しだす。


「弱い魔物は、強い魔物を呼び寄せる。そうすれば、妖魔だって沸いてくるし、終いにはそれらに引き寄せられた更に大物だって寄ってくる」


 アシェルさんが大きくため息を吐いた。


「考えるべきだったわね。あの猩猩が何年も縄張りにしていた場所だよ。なら、猩猩が去って魔物や妖魔が集まり出したら最終的に何が寄ってくるのかをね」


 僕たちは、霧雨がゆらゆらと揺れる竜峰の山間を見下ろす。

 アシェルさんの話を聞いていなければ、気にも留めなかったかもしれない。視界に映っても、恐怖は感じなかったかもしれない。

 竜峰を徒歩で移動していたら、警戒心もなく霧雨に包まれていただろうね。

 そう考えて、背筋を凍らせた。


 きっと、喰われた地竜たちも今の僕と同じ感覚だったはずだ。

 猩猩が縄張りにしていた場所に、魔物や妖魔が現れた。そこに、霧雨がしとしとと降り始めた。そう、油断していたはずだ。

 だけど、その地竜たちは霧雨に飲まれ、そして喰われた。


金剛こんごう霧雨きりさめ……」


 かつて、巨人の魔王から話だけは聞いていた。

 伝説級の魔獣である猩猩や千手せんじゅ蜘蛛くもに匹敵する魔物が世界には存在する。

 猩猩や千手の蜘蛛は、たとえ竜峰に住む竜族が全て束になったとしても勝てないと言われるくらいに恐ろしく強い魔獣だ。その魔獣たちと肩を並べる恐るべき魔物。


 金剛の霧雨。


 詳細は、わからない。

 柔らかな霧雨と、何よりも硬質な金剛が合わさる魔物だなんて、想像もできない。

 でも、確実に言えることが、ひとつだけある。

 スレイグスタ老や巨人の魔王でさえ、猩猩や金剛の霧雨に手を出そうとはしない。身近に現れたのなら、立ち去るまで静かに見守るか逃げるしかない、と言わせるだけの存在であることは間違いない。


「最初に、あの霧雨に監視中の地竜たちが喰われた。地竜たちの音沙汰おとさたがなくなって様子を見に飛んできた飛竜も何体か無警戒に霧雨に入って、喰われたようよ」

「それで、その様子を見ていた仲間の飛竜たちが、ようやく異変に気付いたんですね?」


 最初は、恐ろしい何かが発生した、と飛竜たちによって噂が広められた。竜族に広まった噂は竜心に乗って竜人族へ伝わり、スレイグスタ老のお世話をしてくれていたコーネリアさんの耳にまで届いたらしい。


「コーネリアが爺さんに相談したことで、あれが金剛の霧雨という魔物であると発覚したのさ」


 それだけなら、まだ良かった。

 猩猩が現れた時のように、近付かずに静かに監視を続け、立ち去るまで待てば良いだけだからね。

 でも、今回は猩猩の時とは違った。


「あれが移動さえしなければ、爺さんが思い詰めることはなかったんだよ」


 アシェルさんが、憎々しそうに眼下の霧雨を睨む。


「金剛の霧雨は、移動しながら獲物を捕食しているんですね?」


 魔物が動物や植物を捕食する、という話はあまり聞かない。でも、動くものに見境なく襲い掛かったり、意味なく暴れたりすることはある。だから、人は魔物が現れたら逃げたり、討伐したりするんだ。

 そして、金剛の霧雨も、同じだった。無警戒に霧雨の中に入った動物を襲い、喰らう。

 ただし「喰らう」と僕たちは言っているけど、本当のところは不明だ。霧雨に取り込まれた者が跡形もなく消失してしまっているところから、喰われているのだろう、と解釈しているに過ぎない。


 ともかく、わかっていることは、あの霧雨の中に入ってしまうと、あっという間に喰われてしまうということだけ。

 霧雨の中がどうなっているのか、入った者が生還できない以上は不明のままだ。

 そして、金剛の霧雨は、ゆっくりとではあるけど移動していた。


 そう。アームアード王国の王都と、竜の森が広がる竜峰の東の麓に向かって。


「爺さんは、霊樹の守護者として覚悟を決めたのさ。もしも金剛の霧雨が竜の森を飲み込むようなら、何を持ってしても阻止するとね」

「……禁術きんじゅつを使うことになっても、ということですね?」

「ええ、そうよ」


 僕たちは、息を呑む。


 スレイグスタ老は、二千年以上も竜の森と最奥の霊樹を護り続けてきた。

 霊樹を守護することこそを誇りとし、私情を挟むことなく護り続けてきたんだ。

 今だって、たとえ僕たちだろうと、気安く霊樹には近付かせない。僕は霊樹の精霊王に奉納舞ほうのうまいささげる必要があるので霊樹の根もとまでよく行くけど、僕以外の家族は、ミストラルでさえ今でもスレイグスタ老の許可がないと近付けない。

 その、大切に守護し続けてきた霊樹や竜の森に、危機が迫っている。


 スレイグスタ老でさえ手に負えない恐ろしい魔物が、ゆっくりと迫りつつある。

 だから、覚悟を決めたんだね。

 たとえ禁術を使おうとも、金剛の霧雨の侵攻を阻止してみせると。


「おじいちゃん……」


 スレイグスタ老の覚悟が、痛いほど伝わってきた。

 僕だって、愛する家族を護るためなら、どんな手段だって取るだろうね。

 たとえ勝てない相手であっても、あらゆる手段を尽くして家族を護ると決断するはずだ。


「でも、もう少しだけ思い留まって! 僕たちも出来る限りの協力は惜しまないから!!」


 僕は竜峰の空に向かって、心から叫んだ。

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