灰色の雲 涙の雪

 今でない、古き時代。


 ここでない、遠い場所。






 竜神山脈の奥深くで、雲竜は空を見上げ続けた。

 どこまでも続く空。ゆらりと流れる雲。

 いつか、われもあの雲のように、自由気ままに世界を旅してみたい。

 しかし、父竜は言う。


「幼き我が娘竜、ネレイラーシャよ。汝はまだ未熟なり。研鑽けんさんを積み、竜神様に仕えよ」


 立派な父であり、偉大な竜だった。

 竜神山脈のあるじが羽ばたくときには絶えず側にり、雲を敷いて道行みちゆきらす。

 父竜以外にも、竜神山脈には偉大にして高名な古代種の竜族たちが数多く棲息せいそくしていた。

 だが、と幼いネレイラーシャは空に向かってつぶやく。


「いったい、いつになればお役目に就けるのでしょう? どれほどの研鑽を積めば、竜神様にお仕えできましょうか」


 古代種の竜族のなかには、古き都や静かなる聖域、またはうるわしき霊樹を守護する者もいるという。しかし、竜神山脈にこもっていては、外の世界のお役目をになう機会は訪れない。

 それどころか、と急峻きゅうしゅんな山脈を見渡すネレイラーシャ。


「竜神山脈においても、己の役目を見出みいだせぬ竜は多くいます」


 成竜であっても、役目に就けない竜がいる。

 武勇を誇る者でさえ、守護竜の列に並べぬ竜がいる。

 そうした竜たちが存在するなかで、いったい自分はいつ、竜神様のために雲を敷くことができるのか。

 数十年後なのか。数百年後なのか。それでも、竜神様のお側でお仕えできると確約があるのであれば、待つことはできる。だが、確約などは存在しない。

 ならば、いつまで待とうとも、竜神山脈において己の役目は巡って来ずに、無意な刻を過ごしていくのではないか。


「ああ、我も大空の雲のように、世界を流れて旅をして、いつかは身も心も捧げられるお役目に就きたい」


 そう呟き続けたネレイラーシャは、来る日も来る日も竜神山脈の空を見上げ続けた。


 長い冬の季節が訪れた。瞬く間に過ぎ去った春。僅かな温暖で自然を育んだ夏。そして急速に冷え込む秋が訪れ、また長い冬になる。そうして一年が過ぎ、十年が経ち。


 成長したネレイラーシャは、空を見上げる。


「研鑽は積みました。経験は浅いですが、竜神山脈においては十分でしょう」


 夏雲のように濃密で白い雲の翼を広げれば、自分は何処どこまででも飛んでいける。

 しかし、父竜は言うのだ。


「未熟な娘竜、ネレイラーシャよ。自惚うぬぼれるでない。世界は厳しく、汝は無知なり。もう暫く竜神山脈において成長し、竜神様にお仕えせよ」

「いいえ、いいえ、父竜様。聞けば、のご高名な陰陽竜おんみょうりゅう様もまた、幼い頃より竜神山脈を離れて世界中を巡ったそうです。伝説に残る流星竜りゅうせいりゅう様もまた、若き頃より外の世界で多くの冒険を繰り広げたとわれております」

「汝は、あの方々とは違うのだ。未熟さを知り、研鑽を深めよ」

「もう、十分でございましょう? それでも、我はこの地ではお役目をいただけていません」

「それは、汝が未熟なれば……」

「いいえ、いいえ。未熟であればこそ、我は外の世界へ飛び立ちたいのです、父竜様。外の世界では、今以上の研鑽が積めましょう。多くの経験を重ねることができましょう。そうすれば、いずれは我もお役目を担い、竜神様の傍らに仕えるだけの実力も身につくはずです」

「ああ、愚かしや。汝は自惚れておる。今一度、己を見つめ直せ」


 だが、父であり偉大な竜の言葉は、若きネレイラーシャの心には届かなかった。

 翼を広げたネレイラーシャは、仲間たちの制止も聞かずに雲となり、大空を東へと流れていった。


「愚かで、弱き我が娘竜、ネレイラーシャよ。己の無知と未熟さを、身をもって知ることになるだろう」


 父竜は、東へ流れていった愛する娘竜の雲を見上げ、深く息を吐いた。

 そして、ネレイラーシャは、勇ましくも旅立ったその直後に、父竜の憂慮ゆうりょを体験することになる。


「東には、かつて人族が世界の中心とあがめた聖域があると云います。そして、そこには最古の……」


 雲になり、竜神山脈の東端を目指すネレイラーシャ。しかし、最初の目的の地へと辿り着く達成感よりも先に、絶望を知ることとなった。


『引き返しなさい、幼き雲竜うんりゅうよ』

「竜心で我に語り掛ける者はだれでしょう?」

『これより東は、封じられた聖域なり。たとえ竜神山脈に住まう古代種の竜族であろうとも、資格なき者は立ち入れません』


 遥か眼下。急峻な山脈の合間から竜心で語りかけてきた者に、ネレイラーシャは返す。


「ひと目、人が聖域と呼ぶ地を見てみたいだけなのです。騒ぎを起こしたりはいたしません。ですから、通行のお許しを」

『なりません、雲竜よ。これより東には』

「知っております。最古の……」

「口にしてはいけません。言葉でけがしてはなりません」


 はっ、と息を呑むネレイラーシャ。

 竜心で語り合っていたはずの者の声が、背後から直接聞こえた。

 驚き、振り返る。そして、絶句した。


 振り返った?

 雲であるはずの我が?


 いや、己は雲ではなかった。

 強制的な力で竜術が破られ、ネレイラーシャは、実体の竜の姿に戻ってしまっていた。

 そして、その背中に忽然こつぜんと現れた、馬に騎乗した騎士に言葉を失う。


 深い碧色を基調とした全身鎧に身を包み、竜殺しの槍を携えた騎士が言う。


「これより東は、姫巫女ひめみこ様とおくひめ様がおわす聖域です。引き返しなさい、雲竜よ。そうでなければ、私は其方をこの場で殺すでしょう」

「ああぁ、なんて恐ろしい!」


 嘘ではない。脅しではない。

 自分の背中で竜殺しの槍を構える騎士。

 聞き及んでいた。幼い頃より。

 聖域の四方を守護し、封印をつかさどる者。奥の姫の十人の守護者の内のひとり。


 竜殺りゅうごろしの巫女騎士みこきし


 古代種の竜族でさえ敵わぬという恐ろしい守護者が、竜神山脈と聖域の間に存在するという。


「わかりました。これ以上は進みません。ですから、どうかその恐ろしい槍をお収めください」


 ネレイラーシャは転進すると、竜殺しの巫女騎士に懇願した。

 竜殺しの巫女騎士は「どうか其方が道を違いませんように」と言葉を残すと、馬の腹を蹴って走り出す。


「その先は、空です!」


 と心配するネレイラーシャをよそに、馬はネレイラーシャの背中から飛び降りる。しかし、竜殺しの巫女騎士と馬は地上へ向かい真っ逆さまへとは落ちなかった。


「天馬?」


 竜殺しの巫女騎士が騎乗する馬に、翼が生えた。そして、優雅に羽ばたきながら、急峻な山脈の奥へと降りていく。


「やはり、外の世界は我の知らないことばかり。ああ、これから先、我はいったいどのような体験ができるのでしょう」


 ネレイラーシャは、約束通り東には飛ばなかった。しかし、故郷へ戻ることもなかった。

 何処どこまでも続く空。流れ行く雲。ネレイラーシャは風任せに竜神山脈を離れた。






「巫女よ、我が兵を癒せ。さすれば、我が軍は二倍、三倍の敵軍をも倒し、国土を守り切れるだろう」


 王は言う。

 全癒ぜんゆ魔眼まがんを持つ巫女、イシスは癒す。

 戦場で傷を負った兵士が、命を救われる。そして、また戦場へと戻っていく。


「ああ、女神様。わたくしは間違っているのではないでしょうか……」


 イシスは苦悩する。

 傷ついた者を癒すのは、巫女の務めだ。しかし、兵士たちは傷が治るとすぐさま戦場にり立てられ、またも傷を負って戻ってくる。なかには、戦場へ戻ったことで命を落とし、帰らぬ者となる兵士も多くいた。

 帰らぬ大切な家族。もう会うことのできない愛する人。二度と笑顔の見れない語り合った仲間。イシスが兵士たちを治療するたびに、別の者たちが心に傷を負っていく。


 それでも、王は言う。


「巫女よ、我が兵を癒せ。さすれば、この長きいくさも終わるだろう」


 イシスは癒す。

 傷が癒えた兵士たちが戦場へと戻っていく姿に、涙を流しながら。

 心に傷を負った者たちの苦悩と悲しみを知りながら。


 長く、苦しい戦が続いた。

 血で血を洗うような、凄惨せいさんな戦が続いた。

 多くの者が死に、国土は荒野と成り果てた。


 そして、ついに。

 戦は終わりを迎えた。

 国は滅び、支配者が代わり。


 新たな王が言う。


「巫女よ。我が国の兵士を癒せ。敵兵を治すことは許さぬぞ。憎みあった者たちが傷を治せば、また戦になる」


 イシスは泣いた。

 傷を負った者は、平等ではないのか。

 戦は終わり、全ての者たちが新たな王の民になったのではないか。

 それでも、新たな王は言う。


「ならぬ、巫女よ。奴らは敵兵である。我が国の兵士たちを苦しめ、殺した者たちである」


 だが、その兵士たちは、元々はイシスが癒し続けた者たちだ。その者たちを見捨て、新たに入ってきた兵士たちを助けなければいけないのか。


 傷を負った兵士たちが言う。


「巫女様、どうか傷を治してください」


 兵士の家族が願う。


「巫女様、夫の傷をまた治してください」

「巫女様、愛するあの人の傷を、なぜ治してくださらないのですか」

「巫女様、救ってきた者たちを、今さらお見捨てになるのでしょうか」


 人々の想いや救済の願いが、イシスに呪いとなってのしかかる。


「ああ、女神様。私はいったい、どうすれば良いのでしょう……」


 正しき答えは、何処どこにあるのか。

 どうか、女神様。お導きください。

 信奉しんぽうの女神に、祈りを捧げるイシス。

 しかし、そうしている間にも、全癒の魔眼を持つイシスには人々が押し寄せた。


 新たな王は言う。


「巫女よ、我が兵を癒せ。さすれば、新たな敵国を滅ぼし、国はむだろう」


 また、戦が始まった。

 兵士が傷つき、国の民が悲しみをきざむ。

 イシスが癒した兵士たちが戦場へと駆り出され、そして死んでいく。


 敵兵が言う。


「なぜだ、巫女よ。我らも同じ信者ではないか。なのに、自国の兵士ばかりを癒し、なぜ我らを見捨てるのか」


 神殿宗教は、世界中の人族が等しく信奉している。

 そして、分け隔てなく世界に慈悲を施すことこそが、女神に使える者たちの務めだ。


 国の民が言う。


「巫女様。なぜ兵士を癒すのでしょう。兵士がいる限り、戦は終わらないというのに」


 戦を起こすのは、王と兵士たち。その兵士をイシスが癒すために、戦は終わらない。だが、戦わなければ国土は敵国に蹂躙じゅうりんされる。そうなれば、苦しみ、死ぬのは兵士でなく、国の民たちだ。


 村の者たちが言う。


「巫女様、どうか村へお越しください。多くの者たちがやまいせっているのです」


 全癒の魔眼は、傷だけではなく病も癒す。

 不治ふじの病に侵された者を治してほしいと、人々が願う。

 だが、新たな王は言う。


「巫女よ。其方が神殿を離れてしまえば、我が兵士が死ぬ。我が兵が死ねば、より多くの民草が苦しみ、死んでいくだろう」


 イシスは心の底から涙を流し、苦悩した。

 誰を助け、誰を見捨てなければいけないのか。

 誰の願いが正しく、何が間違っているのか。

 わからないままに人々を癒し、涙を流し続けた。


「ああ、女神様。私は、もう耐えきれません……」


 全ての傷を癒すイシスは、自身の心の傷によってさいなまれていった。

 王や人々の言葉によって掻き乱されたイシスの心は、正義と悪を見定める力を失っていた。


「女神様。どうか私に正しき道をお示しください。それまで私は祈り続けましょう」


 最後に、女神をすがったイシスは、神殿の奥で祈りを捧げ続けた。


 眠ることなく。

 飲食をすることもなく。

 人々の言葉に耳を傾けることもなく。

 何日も、何十日も祈り続けた。


 日に日に弱り、衰弱していくイシス。

 だが、祈りは終わらない。

 女神が道を示すまでは。


 しかし、最期までイシスの望んだ答えは啓治けいじされなかった。


 祈りを捧げ続けた全癒の魔眼を持つイシスは、そうして神殿の奥で、終わりを迎えた。


 王は言った。


「愚かな。己の特別な力から目を逸らし、死に安寧あんねいを求めるとは」


 国の民は言った。


「これでもう、戦は無くなるでしょう」


 そして、隣国に蹂躙された国は滅び、新たな王は死に、国の民は別の王を迎えた。






 血の臭いが染み付いた大地。その上空で、全てを見ていた雲があった。


「これが、外の世界……。何処どこを巡っても我に役目は与えられず、人々はああも凄惨せいさんに殺し合う。これが、我の求めた経験だったのでしょうか」


 見下ろす先で、ひとりの巫女が命を落とした。

 善意を尽くそうと懸命に役目を担い、そして苦悩の果てに絶望してちた小さき人。

 雲は、巫女の運命を見つめて、疑問を知る。

 役目とは何か。使命とは何か。何が正しく、何が間違いなのか。

 外の世界には、得難えがたい経験が待っていると思っていた。

 多くの物事に触れ、研鑽を深められると確信していた。

 そうしていつかは、とうとき役目に就き、満足のいく運命を送るのだと希望を持っていた。

 だが、現実は違った。

 特別な力を持ち、大いなる役目を担っていた巫女でさえ、悲しく散った。


 雲はようやく、己の未熟さを知った。

 浅はかだった。愚かだった。

 無知な己は、竜神山脈において今暫く先達せんだつの者たちから叡智えいちや体験を授かるべきだった。

 しかし、もう遅い。

 竜神山脈を無謀にも飛び出した雲に、のうのうと帰る場所はない。


 寒空のなか、途方とほうに暮れる雲。

 すると、巫女の運命には続きがあったとこを知る。


 悲しむ人々に埋葬まいうそされたはずの巫女が、光に包まれて復活した。

 輝く大きな翼を生やし、転生を果たした巫女。

 しかし、巫女は喜ぶことなく、悲しみに沈む。


「女神様。これが、祈り続けた私への答えなのでしょうか。それでは、あまりに辛く、悲しすぎます……」


 来る日も来る日も泣き続けた巫女。

 雲はたまらず、巫女の傍らに降りた。


「巫女よ、行きましょう。世界の何処かには、必ず我や貴女が心休める地があるはずです」

「ですが、私には大切なお役目が……」

「いいえ、違います。我は見てきました。貴女はそうして役目に縛られ、傷つき続けたのです。だから、もうこれ以上は苦しまないで」

「お役目を投げ捨てても良いのでしょうか?」

「貴女がたが信奉する女神は、人々に慈悲を与えると教わりました。ならば、貴女もその慈悲を受けなさい」

「女神様の慈悲……」


 巫女は想う。

 苦しむ人々に与えるばかりだった慈悲を、次は自分が受けても良いのではないか。


「ありがとうございます」


 巫女は、傍らに寄り添う者に対してか、慈悲をゆるす女神に対してか、感謝を漏らした。


 そして。


 絶望した巫女と、未熟さを知った雲は、安息の地を求めて空の彼方へと流れていった。

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