竜王と 霊樹の精霊と

 春とはいえ、夜になると、まだまだ寒い禁領。

 冷えた風が霊山の窪地に流れ込み、薄っすらと雲か霧かわからないようなもやを生む。

 ぼんやりとした夜の風景を、僕は霊樹ちゃんの枝の上から眺めていた。


「けっして、登ったのは良いけど、降りられなくなったとかじゃないんだからね?」

「ほう。それでは、下で其方の戻りを待っている者たちに、そう伝えておこう」

「いやいやんっ。アレスさん、ごめんなさいっ」


 僕の傍に、大人の姿をした霊樹の精霊、アレスさんが顕現する。


「はい、正直に言います。登るのは、意外と簡単でした。というか、楽しかったんだよね!」


 だけど、いざ枝の上まで登ってみたら、思っていた以上に高所で、ちょっとびっくりしたんだよ。


 腰を下ろした枝の上から、地上を覗き見る。

 小さな明かりが、霊樹ちゃんの根もとにぽつりぽつりと見えた。


「うううっ、高いね」


 ぶるり、と身震いをする僕。

 でも、怖がっているわけじゃありません。下から吹き上げてきた冷たい風に、震えただけです。

 本当だよ?


「みんなは、もう寝ちゃったかな?」

「其方の妻たち以外は、眠ったようだ。魔王や古代種の竜族までは探れぬが」

「そうなんだね」


 陽が沈む前から賑わっていたから、みんな疲れたり酔ったりして、眠っちゃったんだね。


「それで。其方はなぜ、今頃になって霊樹の木登りをした? 何かしらの意図があったのだろう?」

「あははっ、さすがはアレスさん。僕のことは全てお見通しだね」


 プリシアちゃんが起きている時分に木登りなんて始めていたら、今頃も騒がしかっただろうね。だけど、僕は夜中を選んで木登りをした。

 けっして、酔っぱらった勢いだとか、浮かれて暴走したわけじゃないよ?


 では、なぜこんな夜中に、僕は木登りをしたのか。

 それは、ちょっとだけひとりになりたかったからだ。


「ううん、正確に言うなら、アレスさんと二人になりたかったからかな?」

「ふふふ、誘っておるのか?」


 隣に座ったアレスさんが、ぴたりと身体をくっつけてくる。

 冷える夜中、アレスさんの温もりが身に染みる。

 だけど、霊樹ちゃんの枝の上で、むふふなことをしたいわけじゃない。ただし、温もりは有り難いので、拒否なんてしないけどね!


「ええっとね、アレスさん」


 僕は遠慮なくアレスさんにくっついて、二人っきりになりたかった理由を口にした。


「アレスさんは、霊樹の精霊で。霊樹の精霊は、もちろん霊樹の側にいなきゃいけないんだよね?」


 アレスさんが僕にいた理由の最もな部分は、僕が霊樹の木刀、すなわち霊樹ちゃんを所有していたからだ。

 だけど、霊樹ちゃんは僕の手を離れた。霊山の山頂に根を張り、立派な大樹になった。


「ええっとね。前にも一度、聞いたことだけど。でも、霊樹ちゃんを根付かせた今だからこそ、もう一度だけしっかりと確認したいんだ。アレスちゃんは、本当にこれからも僕と一緒にいてくれる? それとも、やっぱり霊樹ちゃんの側にいたい?」


 そうなんだよね。

 これからの僕は、根付いた霊樹ちゃんと離れて行動することになる。それが、今こうしてやっと、実感でき始めている。

 きっと、アレスさんと霊樹ちゃんも、僕と同じように今後のことをしっかりと実感しているはずだ。

 だからこそ、僕は改めて聞いておかなければいけないんだと思う。


 これからのこと。

 アレスさんは、本当に霊樹ちゃんと離れて僕の側に居てくれるのか。霊樹ちゃんは、それで本当に大丈夫なのか。

 大樹となった霊樹ちゃんの姿をたりのして、アレスさんは心変わりをしていないかな?

 もしも、アレスさんが心変わりをしているのだとしたら、僕は……


「妾との関係を、不安に思ってくれるのだな」


 アレスさんが、僕の身体に腕を回す。

 普段だと、妖艶ようえんな雰囲気のアレスさんに腕を回されたら鼓動こどうが跳ね上がっちゃうんだけど。今は、アレスさんの言う通りで、僕は不安に押しつぶされそうになっていて、息が詰まっていた。


「そうよな。妾は霊樹の精霊。本来、霊樹と共に在るべき存在だ」


 竜の森の霊樹にも、霊樹の精霊さんは宿っている。だけど、余程の理由がない限りは、霊樹の側を離れたりはしない。

 少なくとも、霊樹の精霊さんが気安く精霊の里に遊びに来たり、竜の森の外に出てまで僕たちに会いにきたことはないんだ。

 だからアレスさんも、本当は霊樹ちゃんと一緒に、霊山の山頂にいた方が良いんじゃないのかな?

 それが、アレスさんの本当のお役目なんじゃないのかな?


 僕の思考を読んで、苦笑するアレスさん。


「其方の考えは正しい。よくもまあ、人族が霊樹の精霊のことに詳しくなったものだ」

「プリシアちゃんや耳長族の人たちが教えてくれるし、なによりもアレスさんが身近にいてくれたからね」


 でも、だからこそ、知りたくない事実、目を背けたい未来にまで気づいてしまう。

 そして、アレスさんの心変わりの可能性に不安を覚えて、落ち込んで悲しくなっているんだ。


 僕の寂しさが伝わったのか、アレスさんは無言で視線を遠くへ流した。

 しばしの間、静かな時間が流れる。

 さわさわと、枝葉の揺れる耳触りの良い音だけが響く。

 霊樹ちゃんも、無言で僕たち二人を見守っていた。


 だけど、このまま永遠を過ごすわけにはいかない。


「ふふふ。妾は構わぬが? 精霊の世界で其方と二人、永遠を過ごすのも悪くない」

「わわわっ。それだけはご勘弁かんべんを。僕だってアレスさんと一緒にいたいけど、みんなと離れ離れになるのは嫌だよ。……そうか。僕のこの想いと一緒で、やっぱりアレスさんも、霊樹ちゃんと離れ離れにはなれないんだよね?」


 考えたくなかった。思いつきたくなかった。でも、一心同体と言っても過言ではないアレスさんのことだから、気づいてしまう。気になってしまう。

 そして、口に出し、自分の想いと深く繋げて照らし合わせてみることで、これまで以上にアレスさんの立場が明確に理解できた。


 僕は項垂うなだれてしまう。

 まさか、アレスさんとの別れを考えただけで、こんなにも悲しい想いになるだなんて。

 すると、アレスさんが優しく僕の頭に手を当てた。


「其方はお利口りこうさんだな。だが、お利口なだけだ。たまには、其方の望みや欲望を、本心のままに言ってみろ。ここでは、妾と二人だけだ。遠慮はいらぬ」

「僕の欲望……?」

「其方は、妾の存在意義や立場をお利口に並べて、それが正しいのだと言っているだけだ。妾のことばかりを考えていて、自分の願望を考えていない」


 アレスさんは、霊樹の精霊であり、霊樹に宿る存在。

 霊樹ちゃんが根付いた今、本来であればアレスさんは霊樹ちゃんの傍に存在しなきゃいけない。

 一度は、僕と一緒にいつまでも居てくれると宣言してくれたアレスさん。だけど、こうして大樹の姿となった霊樹ちゃんを見て、心変わりをしたかもしれない。

 霊樹ちゃんだって、根付いたことでこれからはこの地で生きていくことになる。その時に、傍に大切な存在が居ないことを寂しく思うかもしれない。

 アレスさんが僕の側に居てくれると言っても、霊樹ちゃんが嫌がるかもしれない。


 アレスさんや霊樹ちゃんのことを理解しているから、そう思った。そして、それはアレスさんの言う通りで、正しい。

 だけど……

 僕は、自分の本心、欲望、願望を考えていなかった。

 ううん、考えちゃいけないんだと最初から決めつけて、あえて思考しないようにしていたんだ。


 僕は……


「霊樹ちゃんが大地に根付いたのは、本心で嬉しいと思えるんだ。白剣を手放したのだって、後悔はしていない。でも……。ここでアレスさんとも離れ離れになっちゃうと、僕は寂しさのあまり落ち込んでしまいそうだよ」


 横で身体を寄せるアレスさんに向き直る僕。

 アレスさんが振り向く。

 僕は、真剣な瞳でアレスさんの瞳を見つめた。


「僕は、ずっとアレスさんといたいんだ。離れたくないんだ。一心同体でいたいんだよ。だから……」


 愛し合う妻たちとは、少し立場が違う。

 アレスちゃんは、僕の半身。

 魂の半分と離れ離れになるのなんて、絶対に嫌だ!


「だから、これからも僕と一緒にいてほしいんだ!」


 これが、僕の本心だった。

 心からの願望であり、わがままな欲望だった。


 僕の想いを聴いたアレスさんは、じっと僕を見つめる。

 僕も、見つめ続ける。


 アレスさんは僕の心を知って、どう思ったんだろう?

 どう感じてくれたんだろう?


 見つめ合ったまま、少しの時間が過ぎた。

 その静かな空気を最初に破ったのは、アレスさんだった。

 ふふふ、と微笑むアレスさん。


「愚か者め。一心同体というのであれば、妾の心も汲み取れ」

「ううう、そう言われてもなぁ」


 アレスさんは僕の心を読む能力を持つけど、僕は他者の心を読む能力なんてありません。

 だけど、今回だけはアレスさんの心が伝わってきたような気がする。

 僕を見つめながら、優しく微笑むアレスさん。

 僕の全てのわがままを包み込んでくれるような、深いいつくししみをたたえていた。


「アレスさん……」


 開いた僕の口を、アレスさんがそっと手で塞ぐ。

 そして、代わりにアレスさんが言う。


「そもそも、だ。霊樹に宿る霊樹の精霊は、妾ひとりではない」

「えっ、そうなの!?」


 いや、考えてみれば、その通りか。


 プリシアちゃんは、使役されていない自然の中にいる霊樹の精霊を視ることのできる特別な瞳を持っている。だから、竜の森に住む耳長族の次期族長なんだよね。

 でも、苔の広場の更に奥に生えた霊樹のもとに、プリシアちゃんは単独では行けない。

 では、霊樹に宿る霊樹の精霊を視ることができる、となぜわかるんだろう?


 答えは簡単だ。


 霊樹の近くだけじゃなくて、竜の森の中にも霊樹の精霊さんがいるってことなんだよね。

 つまり、霊樹の精霊さんの中には、霊樹に縛られることなく、自由に行動する者もいるってことだ。


「其方を気に入っている竜の森の霊樹の精霊は、王だ。王ともなれば、自由気ままというわけにはいかなくなる。だが、他の霊樹の精霊は、竜の森を探せば複数見つかるだろう」

「そうなんだね!」


 そして、とアレスさんは続ける。


「この霊樹には、今はまだ妾しか宿っていない。だが、これからは徐々に、他の霊樹の精霊も顕れるだろう。そのなかで妾はいずれ王となり、この霊樹を見守る存在になる。だが、それはまだ先の話。それに、力不足だ」

「アレスさんでさえ、力不足なのかぁ」

「なにせ、プリシアや其方から力を貰わねば、こうして大人の姿にもなれぬのだから」


 それでも、昔に比べれば、アレスさんは自由に大人と子供の姿を選べようになってきた。

 とはいえ、普段はやっぱり幼女のままだ。


「まだ、栄養が足らぬ。わかっているか?」

「そ、それって僕に、もっと力を寄越せってこと!?」

「妾は、プリシアに似て食いしん坊なのだ。だから、其方から今離れてしまえば、空腹で倒れるやもしれぬ」

「えええっ、それは大変だ!」


 くすくすと笑うアレスさん。

 僕も笑う


 もう、みなまで言わなくても、アレスさんの気持ちが十分に伝わっていた。


「でも、本当に良いの? 霊樹ちゃんも、良いのかな?」


 霊樹ちゃんは根付いて動けないのに、アレスさんだけ連れて行っても良いのだろうか。


『大丈夫だよ。だって、アレスちゃんがいっぱい成長してくれた方が、嬉しいもん!』

「妾は、宿木であるこの霊樹に、大きく育ってほしいと願う。同じように霊樹もまた、自身をつかさどる精霊に立派になってほしいと感じておるのだろう」

「竜の森の霊樹と霊樹の精霊王さまが偉大な存在であるようにってことだね?」

「そうだ」

『目指せ、追い抜けーっ』


 長い歳月をかけて成長してきた竜の森の霊樹と精霊王さまを追い抜くのは、とても大変だ。

 だからアレスさんは、霊樹ちゃんの傍にるよりも、これからも僕に憑いて、いっぱいご飯をもらって、早く立派に成長したいってことなんだね!


「よし、それじゃあこれからも、心置きなくアレスさんと冒険に出かけられるぞ!」

「たのしみたのしみ」

「ちっちゃくなっちゃった!?」


 問題解決、と言わんばかりに、幼女の姿に戻るアレスちゃん。そのまま、アレスちゃんは僕の膝の上に乗る。

 そして、上機嫌に鼻歌を歌いだす。

 僕は、きゅっとアレスちゃんを抱きしめた。


「いつもいっしょ、ずっといっしょ」

「ありがとうね、アレスちゃん。それと、霊樹ちゃんも」

『ここに遊びにきてくれたら、いつでも一緒だしね』

「うん、いっぱい遊びにくるね。もちろん、お世話もするよ!」

『ごはーんっ』

「いやいや、さっき食べたばかりだよね!?」

「ごはんごはん」

「アレスちゃんまで!」


 さっきまでの悩みは、もう爪の先ほども残っていなかった。

 心が軽くなって、気分も最高潮。

 今の僕なら、飛べるはず!


「……いやいや、それはさすがに無理です」

「あら、何が無理なのかしら?」


 するとそこへ、絶妙なでミストラルが現れた。

 もちろん、人竜化じんりゅうかした状態で、綺麗な翼を羽ばたかせてね。


「ああ、ミストラル、いけないんだ。霊樹ちゃんの上に来るためには、木登りをしなきゃいけないんだよ?」

「あら、そう? そんな話は初耳だけど?」

『いま決めたよ』

「あっ、霊樹ちゃん、それは秘密だよっ」

「ばくろばくろ」


 ミストラルは、僕の横に舞い降りると、並んで座る。


「それで。お悩みは解決できたかしら?」


 ミストラルはそう言いながら、アレスちゃんを覗き込んだ。


「むむむ。気づいていたの?」


 僕は、アレスちゃんとの今後の関係の悩みを、みんなには伝えていなかったはずなんだけどな?

 どうやら、ミストラルはわかっていたみたいだね。

 ふふふ、と微笑むミストラル。


「貴方のことは、全てお見通しよ。わたしも、他のみんなもね」

「みんなにも暴露ばれていたのかっ」


 なんと!

 ミストラルだけじゃなくて、みんなに心配をかけていたようです。


「あっ、そうか。アレスちゃんは、下でミストラルたち以外は寝ているって言っていたけど。みんな、僕を心配して起きてくれていたんだね?」

「そういうことよ。だから、問題が解決したのなら、早く降りましょう?」


 僕の膝の上で上機嫌に鼻歌を口ずさむアレスちゃんの頭を撫でる、ミストラル。次に、僕の頭も撫でてくれた。そして、安心したように吐息を漏らす。

 ミストラルは、僕の口から答えを聞かなくても、アレスちゃんとの関係がどうなったのかを理解したみたいだね。

 さすがです。僕のことは、何でもわかるんだね。


「それじゃあ、アレスちゃん。帰ろうか」

「かえろうかえろう」


 ふわり、と空中に浮き上がるアレスちゃん。

 僕は、隣のミストラルに、遠慮なく抱きつく。


「まさか、子猫のように木登りをしたのは良いけれど、降りられなくなったとかではないでしようね?」

「そ、そそそそ、そんなことはないよ!?」


 目を泳がす僕を見て、アレスちゃんと霊樹ちゃんが笑っていた。

 ミストラルも、やれやれ、と肩を落としながらも、僕を抱き寄せて翼を羽ばたかせた。

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