世界へ旅立つ者たち

「わらわ、今日も絶望!」


 妖魔ようまおうとの戦いは終わったというのに、今日も精霊たちに追いかけ回されるイステリシア。


「んんっと、鬼ごっこだね!」

「グググッ、待……テーッ」

『おわおっ、楽しいっ』

『待て待てぇー』


 そして、精霊さんたちを追いかける幼女は鶏竜にわとりりゅうまたががり、くまは熊の魔獣に跨がる。子竜のフィオリーナとリームも、元気いっぱいに翼を羽ばたかせて飛び回っていた。

 イステリシアが逃げ、精霊さんたちが追いかけ回す。それを、ちびっ子たちが更に追いかけ、魔獣たちが追従する。


 姉さん、飛竜の狩場は、今日も賑やかです。


「おおっと、僕にお姉ちゃんはいませんでした!」

「エルネア、現実逃避をしないで、ちゃんと役目を果たしなさい」

「はいっ」


 大宴会の翌日。


 もちろん、今も大宴会は継続中です。

 そして、協力してくれたみんなへのご褒美の時間にもなっていた。


「ミストラル、気のせいかな。精霊さんたちだけじゃなくて、他の種族も行列に並んでいるような気がするんだけど……?」

「あら、気のせいじゃないわよ?」


 僕の前には、鬼ごっこに参加していない精霊さんたちが、長蛇の列を作っていた。

 精霊さんたちへのご褒美は、頭撫で撫でと決まっていたからね。

 僕は、精霊さんたちの頭をねぎらいと共に撫でてあげる。

 すると、精霊さんたちはきゃっきゃと嬉しそうに喜んでくれるんだ。

 まあ、その喜びを表したまま、精霊さんたちは次にイステリシアとの鬼ごっこに参加するので、この行列に並ぶ精霊さんたちが、今後も続々とイステリシアを追いかけることになるんだけど。

 それはともかくとして。

 なぜか、僕の撫で撫でのご褒美の列に、精霊ではない種族も多く見受けられた。


「なんで、イドたちまで……?」

「そりゃあ、お前。精霊どもが自力で顕現してまで、お前に頭を撫でられているんだ。よくわからねえが、ご利益りやくでもあるんじゃねえのかよ?」

「適当な理由で並んでたーっ!? しかも、宗教観とか持っていないのに、ご利益って何さ!」

「がはははっ。俺たちにだって、何かをまつったり、想いを願ったりする心はあるぜ?」

「そうか、竜神様とかをうやまったりしているものね」


 人は誰でも、無意識に何かに祈りをささげたり、お願いを込めたりする。そして、あがたてまつった「何か」から、ご利益を貰おうとするよね。

 人族は、それが創造の女神様だったり、神殿宗教だったりする。同じように、竜人族や他の種族だって、自然やご先祖様、それに尊い者を崇み奉る心を持っているんだね。


「おうおう、エルネア、何をぼうっとしてやがる。行列は長いんだ。早く行列を回せ」

「いやいや、ここは精霊さんたちへのご褒美の列だからね!?」


 ほんと、やれやれだよ。

 ご褒美を求める精霊さんたちだけでも凄い数なのに、興味本位でいろんな種族の者たちが並ぶものだから、終わりが見えません。


「はい、そこのねこの精霊さん。鼠種ねずみしゅの獣人族さんをだまして追い抜かさないでくださいね」

「はわわっ、虎種とらしゅの魔獣様、前に並ぶ牛の精霊様のお尻を見てよだれを垂らすのは禁止ですわっ」


 精霊さんたちや他の種族の者たちの頭を、次々に撫でていく僕。

 行列は延々えんえんと続いているので、きっと今日中には終わらないかもしれない。その、終わりの見えない行列が乱れないように管理してくれているのは、ルイセイネとライラだ。

 列の最後尾にはセフィーナさんが看板を持って立っているはずだけど、僕の位置からでは遠すぎて見えません。


「おやまあ、あんまりエルネア君を独占していては、次の精霊が困りますからねえ」

「時間ですよ、離れて。もう一度エルネアに頭を撫でてほしかったら、行列に並び直すこと」


 他にも、僕に頭を撫でられた後も場所を譲らないような精霊さんを引き剥がす役目の人もいる。

 優しくさとすのがユーリィおばあちゃんで、有無を言わさない迫力なのが、コーネリアさんだ。

 ちなみにミストラルは、精霊以外の種族が揉め事を起こした場合の、強制執行者です!


「さあ、エルネア。まだ始まったばかりなのだから、気合を入れてちょうだいね」

「うん、任せて!」


 ミストラルに叱咤しったされて、僕もやる気満々です。


「がんばれがんばれ」

『がんばれーっ』


 アレスちゃんと霊樹ちゃんも、僕に付き添って応援してくれていた。






 僕の前にできた行列と同じくらい。ううん、もしかするとそれ以上の列が、もうひとつ出来上がっていた。

 行列の先頭は、未だに消える気配のない光る大樹の根もとにある。

 そして、光る大樹の根もとにはせんたちが集結し、聖職者の人たちが行列を管理していた。


「列に並ぶ方は、どうかお静かに」

「見るだけ。覗くだけですからね?」


 聖職者の人たちを纏めているのは、マドリーヌ様だ。

 マドリーヌ様の指示に従い、いにしえみやこから来てくれた巫女様たちも忙しく動き回っている。

 行列に並ぶ者たちは、先導する聖職者の人たちの指示に素直に従い、静かに順番を待つ。


 はたして、行列の先、光る霊樹の根もとには何があるのか。


『ふぅむ、可愛い寝顔だ。人の顔つきなんぞに興味のない我にも、愛らしさが伝わってくるぞ』

「なんとも、不思議な魅力があるねぇ」

「寝姿を見ただけなのに、なぜか幸せになれたわ」


 目的を果たし、行列を離れた者たちは、種族を問わず幸福感につ包まれていた。


 全ての者を幸せにする寝顔。その正体は、仙たちと共に降臨した、女の子だった。


 僕たちは、女の子の存在を秘匿ひとくしていた。

 降臨してきた時点で露見はしていたけど、それでも女の子の側に寄れるのは限られた者だけだった。

 その中で、飛竜の狩場に集ったみんなは不思議と意志を統一させて、女の子を護るために命を掛けて、邪悪な存在と戦ってくれた。

 そのご褒美として、仙たちが女の子の寝顔を見ることを許してくれたんだ。


 もちろん、塔の最上階にもっていたら、大型の竜族や魔獣なんかは女の子を見ることができない。だから、わざわざ光る大樹の根もとまで移動してくれたんだね。


 不思議な女の子だね。

 人だけじゃなくて、精霊や魔獣、それに竜族たちでさえ、女の子の寝顔を見ると幸せそうに頬をゆるませる。

 女の子は、これから世界中を旅することになる。

 そして、女の子はきっと、世界の全ての者から愛される存在になるんだろうね。


「エルネア? 余所見よそみをしない」

「おおっと、ごめんなさい」

「撫でて? いっぱい撫でて?」

「いやいや、ルドリアードさん、可愛い声を出しておねだりしてもう、気持ち悪いだけですからね?」

「エルネア君、それはないぜぇ……」






 他にも、色んな行列や集団があちらこちらに出現していた。


「はーい、押さないでくださいねー? あんまり無秩序に騒いでいたら、シェリアー様が武具ごと全員を吹き飛ばしちゃいますよ?」

「トリス、お前をまずは消し飛ばしてやるぞ?」

「ひぃっ、ごめんなさいっ」


 なかでも、特に人族の冒険者で賑わう集団があった。

 あれは、アステルが創造した武具をご褒美として貰おうと集まった人たちだね。


 アステルは、対魔物や対妖魔用の武具を色々と創り出してくれた。

 でも、妖魔の王を倒し、魔物や妖魔が消滅した今になると、過剰な力が込められた武具は逆に邪魔になってしまう。

 だから、一部の者たちはアステルの武具を破壊処理しようとしたんだけど。


 でも、もったいないよね?

 妖魔の王は倒したけど、世界の各地には今も魔物や妖魔が存在している。

 そして、人族は魔物にだって苦戦するし、妖魔になんて太刀打ちできないのが普通なんだ。

 だから、アステルの武具を破壊処理するなんて、本当にもったいない。

 だから、僕が交渉をして、一部の武具を希望者にご褒美として配布することに決めたんだ。


 もちろん、配布するにあたって、僕は巨人の魔王やスレイグスタ老と事前に相談して、幾つかの決め事を密かに定めた。


 ひとつは、勇者リステアの持つ聖剣よりも強力な武器を配布しない。

 これは、リステアに配慮したというよりも、魔族や神族を刺激しないための方策だった。

 人族が強力な神剣や魔剣を所有していたら、否が応でも周りから注意を引きつけちゃうからね。

 それに、人族に強すぎる武具を与えても扱いきれないだろう、と巨人の魔王が言っていたしね。


「新たな聖剣はともかくとして、折れる以前の呪力剣を『聖剣』なんぞと有難がっていたくらいだ。分相応の獲物を持たせておけ」


 ちょっと辛辣しんらつな言葉ではあるけど、僕も巨人の魔王の言葉には納得です。

 たとえ今回の報酬だとしても、身に余る道具は、いずれ身を滅ぼすわざわいとなる。

 今回の戦いに参加しなかった者に貴重な武具を狙われたり、場合によっては騙し取られたり、強奪されたり。

 報酬が原因で新たな問題が発生するのは、できるなら抑えたいよね。

 だから、冒険者には自分のたけに合う武具を選ぶように伝えていた。


 ちなみに、アステルの創り出した武具に興味を示したのは、意外にも人族の冒険者だけだった。


 竜人族や獣人族などは、己の肉体こそが資本であり、武具はそれを補う道具、と捉えている。

 だから、強力な武具に頼る前に、自分自身を極限まで鍛えあげることにこそが重要だと考えているみたい。

 他にも、耳長族や巨人族は、自分の武具は自分で調達することが望ましいという考えが普通みたいだね。

 それに、神族と天族のなかで数少ない参加者であったアレクスさんたちは、魔族に借りは作らない、と武具のご褒美をきっぱりと断った。


 そして、魔族たちはというと。


「猫公爵様の創り出した武具か……」

「興味はあるんだがなぁ」

「呪いがねぇ……」


 と、何やら「アステルが創り出した」という部分に、強く警戒のご様子。

 まあ、魔族たちの不安は、あながち間違いではないんだよね。


「うおぉおおおぉぉっっ!」

「と、止まらない。踊りが止まらない!?」


 武具を手に取り、何を貰おうかと品定めしていた冒険者の人たちの一部が、急に叫んだり笑ったり、踊ったり走り回ったりしていた。


「ルイララがこの場にいないから、呪われた武具が紛れ込んでいてもわからないんだよね……」


 人を呪い殺したり、魔剣使いへと堕とすような呪いはない。だけど、運悪く小さな呪いに触れた冒険者が、ひどい目に遭っていた。

 そして、その様子を見て、お腹を抱えて笑うアステルの姿があった。


「魔族たちは、アステルの悪名をよく知っているんだね」


 騒がしい集団に、僕たちは苦笑する。


「さあ、エルネア君。早く頭を撫でてくださいね?」


 余所見をしていたら、順番を待っていた女性に急かされた。


「というか、アネモネさん。もう、頭撫で撫では三回目ですよね!?」

「ふふふ。だって、エルネア君に頭を撫でられると、気持ちが良いんだもの」

「ザンに撫でてもらってくださいっ」

「ザン様は、そういうことは恥ずかしがって、してくれないんです」

「ザンらしいね!」


 というか、アネモネさんだけではなかった。

 行列が、一向に短くならない。その原因は、頭撫で撫でのご褒美に回数制限をしていなかった、僕たちの落ち度だね!


「さあさあ、エルネア君。頑張ってくださいね」


 ルイセイネに励まされて、アネモネさんや並んだ者たちの頭を撫でていく僕。

 周囲では大宴会が続いていたり、暴走する者たちがいたり。報酬を手に入れたり、手に入れたと思ったら呪われたりで、騒ぐ者たちもいる。

 だけど、実に平和だ。


 穏やかな日中が、ゆっくりと流れていく。

 そんななか、お昼を少し回った頃だった。

 竜峰から、せわしく翼を羽ばたかせて、飛竜が飛来してきた。


朗報ろうほうだ!』


 飛竜の咆哮に、僕たちは空を見上げた。

 飛竜は、僕を見つけて急降下してくる。そうしながら、着地するまで待てなかったのか、竜峰で起きた出来事を知らせてくれた。


猩猩しょうじょうの縄張りが、とうとう消えたぞ!』

「なな、なんとっ!?」


 妖魔の王を迎え撃つ前。僕たちは、竜峰に巣食った猩猩の様子を聞いていた。

 今年に入り、縄張りを示す地獄の炎が徐々に弱まり始めていると聞いていたけど。

 でもまさか、最初の報告を受けてからこれほどの短期間で、猩猩の縄張りが消滅するだなんて!

 縄張りを示す地獄の炎が消えたということは、猩猩は竜脈に乗って、次の場所に移動していったということを意味する。


「ようやく、竜峰にも平和が訪れたね!」


 飛竜の言葉を通訳しながら、僕たちは喜びあう。


 でも、その時だった!

 ぐるる、とスレイグスタ老が喉を低く鳴らした。


「むぬう、この気配は。エルネアッ!」


 そして、瞳を黄金色に輝かせて、警戒色を強くする。

 他の古代種の竜族たちにも、緊張が走った。


「そ、そんな……!!」


 スレイグスタ老たちに遅れて気配を察知した僕は、恐れに身体を硬直させる。

 圧倒的な気配を放つ存在が、竜脈の流れに乗って、飛竜の狩場に着いた。

 竜族や竜人族、それに魔獣といった、竜脈を感じ取れる種族が、次々と顔を青ざめさせていく。

 だけど、逃げる暇なんてなかった。


 全てを焼き尽くすような地獄の火柱が、大地の奥底から噴き上がる。


「女の子が!」


 光る大樹の根もと。女の子が眠る場所のすぐ間近に出現した火柱に、仙たちも戦慄せんりつする。

 僕は、恐れで硬直していた身体を無理やりに動かし、空間跳躍を発動させる。そして、地獄の火柱と女の子の間に割って入った!


「エルネア!」


 ミストラルたちも、すぐに駆けつけてくれた。


 ゆらり、と火柱が揺れる。

 全身を強張こわばらせながら、僕たちは身構えた。


「手強そうな魂がひとーつ」


 光る霊樹の枝にぶら下がって遊んでいたテルルちゃんが、のそりと近づいてくる。

 そのテルルちゃんでさえ、警戒に瞳を光らせていた。


 それもそのはず。

 僕たちの前に現れたのは……


「猩猩の炎……」


 猩猩の本体がどういった魔獣なのか、僕も詳しくは知らない。

 だけど、この炎が放つ圧倒的な絶望と恐怖を、僕たちは知っている。

 轟々ごうごうと燃える、地獄の火柱。それは、猩猩が縄張りを示すための炎の一部で間違いない。何よりも、地獄の火柱の下方、大地の下に流れる竜脈を探ることのできる者であれば、わかっているはずだ。


「この火柱の下に、猩猩が……!」


 竜峰を離れたという猩猩。

 でも、よりにもよってこの時期に、飛竜の狩場に移動してくるだなんて!


 ごくり、と唾を飲み込もうとした喉が、ひりりと痛む。

 唾が蒸発し、口の中が乾ききっていた。


 震える身体を抑えるのがやっと。

 緊張で硬直した身体は、立っているだけで精一杯。

 あの妖魔の王や邪族でさえ、猩猩の気配には及ばないように感じる。


 だけど、逃げ出すわけにはいかない。

 女の子を護らないと!

 それに、今の僕たちには、頼れる仲間が大勢いるんだ!

 猩猩と同格だと伝わる、千手せんじゅ蜘蛛くものテルルちゃんだって味方してくれている。


 揺れる火柱を油断なく睨みながら、僕は白剣と霊樹の木刀に、なんとか手を伸ばす。

 みんなも、恐怖を色濃くにじませながらも、身構える。

 そんな僕たちの前で、火柱はさらに揺れ動く。

 そして、変化を見せた。


 ゆらり、と大きく揺れた火柱が、火勢を弱めた。


「ううん、違う。より炎の濃度を増して、無駄を削ぎ落としたんだ!」


 光る大樹の枝まで届きそうだった火柱が、小さくなった。

 代わりに、まばゆく発光するほどに炎を濃縮させて、形を変えた。


 人の形に。


「オル……タ……?」


 ミストラルが、息を呑む。

 それも、そのはず。


 極限まで濃度を増した炎が形取ったもの。その姿に、僕たちは見覚えがあった。

 ひたいから伸びた、禍々まがまがしくねじれたつの。巨大な翼。太い尻尾。

 炎だから、輪郭りんかくはゆらゆらと揺れているけど、間違いなく見覚えのある姿を取っていた。


「そんなことがあるのか!? たとえ、猩猩といえど。あの、オルタといえど……」


 ザンでさえ、瞳を大きく見開いて驚愕きょうがくしていた。


「でも……」


 言葉を震わせるミストラル。


 猩猩は、縄張りに入ったものを全て喰らい尽くすと、竜脈に乗って世界のどこかに去って行く。

 その猩猩の縄張りに、僕たちはオルタを落とした。

 そして、今。竜峰に存在していた猩猩の縄張りは消えたという。

 それはつまり、飲み込まれたオルタも猩猩に喰われたことを意味する、と僕たちは言葉に出さずとも理解していた。


 理解していたはずなのに……


 まさかの事態に、誰も動けない。


 動揺、混乱、恐怖、絶望。様々な状況で動けない僕たち。

 そんな僕たちを前に、かつてのオルタを思わせる輪郭を取る炎は、様子を伺うようにじっと動かない。


『まさか、オルタの怨念おんねんが猩猩の意識を乗っ取って、復讐をするつもりでここに来たのか!?』

「それとも、次はここを縄張りにする気か!!」


 竜族や竜人族が、震えていた。


 でも、その時。

 僕は気づいた。

 オルタを形取る炎が、気配を向ける先。

 視線、と呼べば良いのかは不明だけど、炎の瞳が向けられている先にあるもの。


「もしかして……。猩猩も、女の子を見たいだけなんじゃないかな!?」


 圧倒的な気配は変わらない。

 だけど、よくよく探ってみると、僕たちに襲いかかってくるような脅威は感じない。

 そもそも、猩猩が僕たちを獲物として狙っているとしたら、問答無用で襲いかかっていたと思うんだよね。

 わざわざ火柱を上げる必要もなく、全てを地獄の炎で呑み込んでしまえば良かったんだ。

 だけど、猩猩はそうしなかった。

 同格で手強い千手の蜘蛛のテルルちゃんがいたからなのかもしれないけど。でも、やっぱり違うと思う。

 猩猩は、世界のどこかに移動する前に、女の子が見てみたかったんだ。


 女の子の存在は、なぜか全ての者たちに癒しを与える。

 そして、誰も女の子を傷つけようだなんて思わない。


 考えてみれば、邪族や妖魔の王だって、女の子を狙っている様子を見せながらも、一度たりとて危害を加えるような素振りは見せなかった。

 だからかな?

 誰もが恐れおののく魔獣の猩猩であっても、女の子には危害を加えない、という確信が持てた。


 ただし、炎がなぜオルタの姿を取ったのかは、僕にもわからない。

 それでも、オルタの姿をした炎の意識は、僕やミストラルにさえ関心を示すことなく、光る大樹の根もとで今もすやすやと眠り続ける女の子だけに向けられていた。


「炎を通して、女の子を見ることができるのかな? でも、良いよ。騒ぎを起こさないというのなら、猩猩も女の子を見て」

「エルネア!?」


 ミストラルが驚く。他の者たちも、目に見えて動揺していた。

 だけど、僕の言葉を後押しするように動いたのは、予想外のことに仙たちだった。


 レーヴェ様が率先して、道を開く。

 あのソシエさんでさえ、女の子の前から移動して、猩猩に道を譲った。


 オルタの姿をした炎は、ゆっくりとした足取りで進む。

 そして、女の子が眠る揺り籠の前に立つ。


 じっと女の子を見下ろす、オルタの姿をした炎。

 猩猩の本体は未だに竜脈の中だけど、女の子の姿はしっかりと見えているんだろうね。


 無言で女の子を見下ろす炎には、敵対心や殺意といった負の気配は微塵もなかった。

 僕たちは、固唾を飲んで見守る。


 静かな時間が過ぎていった。

 すやすやと眠る女の子の前に佇む、オルタの姿をした炎。

 猩猩は女の子を見つめて、いったい何を思っているんだろうね。どんなことを、何を感じているんだろうね。

 そして、なぜオルタの姿をした炎なんだろうね?


 疑問はいっぱいだけど、誰も答えは知らない。

 猩猩は、僕たちの疑問の視線を受けたまま、ただ静かに女の子を見下ろす。






 どれくらい時間が経過したんだろう。

 ふと、オルタの姿をした炎の頭が動いた。

 見下ろしていた女の子から、僕やミストラルに視線を移す。

 一瞬、僕たちの間に緊張が走る。

 だけど、本当に一瞬だった。


 ミストラルを見た、と思った直後。

 眩く燃える炎が、突然消えた。

 そして、竜脈に潜んでいた猩猩の気配も、忽然こつぜんと消えていた。


「いったい、何だったのかしら……?」


 困惑するミストラルを支えるように腕を腰に回しながら、僕は言う。


「きっと、旅の手向たむけとして、女の子を見たかっただけだよ。だって、あんなに可愛い寝顔は、ここでしか見られないからね」

「んんっと、プリシアの寝顔も可愛いよ?」

「プリシアちゃん、自分で言っちゃう!?」

「プリシア、貴女はまず、寝相ねぞうが良くならないとね?」

「むうむう」


 プリシアちゃんの愛嬌あいきょうに、猩猩の出現で張り詰めていた場の雰囲気ふんいきが和らぐ。

 誰もがほっと胸を撫で下ろし、そしてまた大宴会へと向かう。


「さあ、ご褒美の時間はまだまだ続くよ! ご褒美の欲しい精霊さんたちは、僕の前に並んでね!」


 猩猩の気配は、竜脈の流れを探っても、もう感じ取ることはできない。

 きっと、世界のどこかに移動してしまったんだろうね。

 オルタの姿をした炎の意味を、僕たちはいつか知ることができるのかな?


 新たな問題と未来の冒険の予感に胸を躍らせながら、僕は精霊さんたちの頭を撫でた。

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