冬に実る桃の木
洞穴を抜け出すと、すぐに
僕たちは足を
東の魔術師だって、年中を洞穴の奥で過ごしているわけじゃない。だから、洞穴の外にも足場はあって、移動はできる。
とはいえ、足もとには雪が降り積もっているので、油断をしていたら足を滑らせてあっという間に断崖の下だ。
「くそっ、お前だけ飛ぶなんて、
「はははっ、負け惜しみでございますね。ですが、そのように口悪く私を
「ルーヴェント様、俺たちを見守っていて!」
必死に逃げながらも、くだらないやり取りをするくらいには、精神が
とはいえ、急がなきゃいけない。
東の魔術師が目覚めれば、僕たちが逃げ出したことはすぐに判明する。そうなれば、あの遠隔呪術であっさりと居場所を特定されるだけじゃなく、攻撃されるかもしれないからね。
東の魔術師が目を覚ます前にどれだけ距離を稼げるか。どれだけ安全な場所に移動できるか。あわよくば、ニーミアに合流できるかが
「あっ、そういえばさ!」
断崖伝いに伸びた細い雪道をなんとか抜け出し、それでも険しい斜面を全力で走りながら、僕はあることに思い当たる。
「ねえ、スラットン。ドゥラネルを
ドゥラネルは、闇属性の地竜だ。
そして、闇に属する竜族のなかでも力を持つ者は、影から影に移動できる。
ドゥラネルはまだ子竜だけど、スラットンの影に潜むことができるくらいの実力はあるんだよね。なら、影移動もできるのでは?
それに、東の魔術師に強く警告されたので、お留守番をしてもらっているニーミアとドゥラネルだけどさ。僕たちよりも知能が優れている竜族が、本当に大人しく「待て」を受けているとは思えない。
もしかしたら、ドゥラネルはもうスラットンの影に移動してきているかも?
僕の提言に、おおっ、と手を叩くスラットン。そして、雪に映る自分の月影に手を当てて、力強く相棒の名前を呼んだ。
「出でよ、ドゥラネル!」
『ぐぉおぉ……』
「しーっ、静かに!」
『す、すまない』
スラットンの呼び声に応え、影から勢いよく姿を現わすドゥラネル。だけど、咆哮は禁止です。
もう雪崩は勘弁だからね!
とはいえ、ドゥラネルを召喚できたのは心強い。
僕たちはドゥラネルの背中に移動する。
「せ、
「仕方ないでしょ。ドゥラネルはまだ子竜なんだからっ」
相棒の背中の小ささを
僕も、レヴァリアやニーミアのゆとりのある背中に慣れているけど、わがままは言っていられません。
ドゥラネルだって、これからが成長期なんだからね。
みんなで乗ってごめんね、とドゥラネルを
すると、ドゥラネルはふふんっ、と鼻を鳴らして、積もった雪を巻き上げた。
『子竜と
「おお、期待してます!」
『しっかりと掴まっておくことだ。振り落とされても知らんぞ!』
ばふんっ、ばふんっ、と足もとの雪を蹴り上げて、走る体勢に移るドゥラネル。
すると、僕がドゥラネルと会話をしている様子を見たトリス君が、興奮気味に話しかけてきた。
「もしかして、エルネア君は地竜と会話してる?」
「うん、そうだよ。僕は竜族と意思疎通できるんだ」
「すげぇっ! そんじゃあ、スラットンも!?」
「うるせぇ、俺を見るな!」
「ああ、スラットンは無理なのか。これが、竜王と竜騎士の違いかぁ」
「黙れ、黙れっ。俺だって……」
『煩い。口を
「うおっ!」
残念そうにスラットンを見るトリス君。
スラットンは気まづそうに視線を逸らす。
そしてドゥラネルは、僕たちの準備が整うと、
「うっひょーっ。やっぱ速いっすね!」
人が全力で走るよりも、地竜が
ドゥラネルは地竜らしく巧みに四肢を繰り出して、険しい斜面を難なく疾駆していく。
そして、休むことなく針葉樹の森を抜け、滑る岩肌を苦もなく登り、東の魔術師の住処である洞穴から遠ざかっていく。
「んで、ニーミアは呼べねえのかよ?」
ドゥラネルに乗ってしまえば、あとは苦労なんてない。
背中の上はとても揺れるけど、僕の引っ付き竜術のおかげで、みんなも落ちる心配がないからね。
それで、スラットンにも心の余裕ができたのか、質問してきた。
「ううーん」
僕は
だけど、反応はなかった。
離れすぎていたら、意思は伝わらない。
影移動ができないニーミアは、どうやら近くには来ていないようだ。
『ニーミア殿は、魔族の偵察に行くと言っていた』
すると、ドゥラネルが動向を教えてくれた。
なるほど、ニーミアはお
僕たちに代わって、魔族に意識を向けてくれていたみたい。そうすると、あの大雪崩も確認しているのかな?
「集合場所は知ってる?」
『我の感度では受け取れなかったが、ニーミア殿はきちんと其方の想いを受け取っていた。我も聞き及んでいる』
「なら、集合場所へ行こう!」
僕がドゥラネルと会話をするたびに、トリス君が感動する。それとは逆に、スラットンは
頑張れ、スラットン!
君も努力し続ければ、いつかはドゥラネルと意思疎通ができるようになるからさ。
さすがは竜族。
慣れない土地だろうと、地上を走らせれば何者よりも速く走る。
僕たちは、明け方前には目的地にたどり着いていた。
「本当に、
洞穴へ向かう途中でもちらりと見えたけど。
本当に不思議な場所だった。
辺り一面が雪に覆われているというのに、不思議な桃の木の周りだけは雪がない。
それどころか、
「うっひょう。甘めぇ!」
ドゥラネルの背中から手を伸ばし、早速のように桃を千切って頬張るスラットン。
僕たちも、桃を食べる。
じゅわり、と甘い果汁が口の中いっぱいに広がり、幸福に満たされる。
空腹も相まって、僕たちは無我夢中で実った桃を千切り、頬張った。
「しかしよ、なんでこんな場所に桃の木が一本だけ生えてるんだ?」
「しかも、季節外れに実ってるし。たしか、桃が実るのって夏じゃなかったっすかね?」
冷静に考えるまでもなく、不思議だよね。
周囲には、似たような植物は生えていない。
遠くに針葉樹の森はあるけど、桃の木なんてこの木一本だけだ。
しかも、日の出前だというのにぽかぽかと暖かいし、夏の果物である桃が実っているし。
でも、よくよく観察してみることによって、他にもわかったことがあった。
「随分と古い
「へえぇ、そうなの?」
トリス君の
「年老いちゃって、元気がないような……?」
「こんなに桃を実らせてるのに?」
といっても、僕たちが食べちゃったせいで、もう殆ど桃は残っていなかった。
食べすぎちゃった!
すると、その時だった。
『ああ、どうか……』
んんん?
高齢のお
ううん、違う。心に届いた?
もしかして、と目の前の桃の木に意識を集中する。
すると、
『どうか、ひとつだけでも、実を残しておくれ。あの子のために……』
「あの子?」
「おい、どうした? またドゥラネルと会話でもしてんのかよ?」
僕は、さらに遠慮なく桃を千切ろうとしていたスラットンを制止させ、桃の木に意識を向けた。
「ごめんなさい。勝手に桃を食べちゃって。でも、お腹が空いていたんです」
『ああ、良いんだよ、人の子よ。そして、儂の声が聞こえるんだね?』
「はい、聴こえていますよ」
そっと、桃の木の
本当に、お爺ちゃんな
もしかしたら、寿命が近いのかもしれない。
『儂の実を、あんなに美味しそうに食べてくれて、ありがとう。でも、どうか。せめてひとつだけは、あの子に残しておいておくれ』
あの子って?
繰り返された桃の木の言葉に、首を傾げる僕。
いったい、誰のことだろう?
昨日今日に初めて天上山脈を訪れた僕たちのことじゃないことくらいはわかる。
では、桃の木のお爺ちゃんは、誰のことを指して「あの子」と言っているのか。
「そういや、残り少なくなっちまったな。なら、あとは早い者勝ちで良いよな?」
僕が止めたにも関わらず、隙を見て残った桃に手を伸ばすスラットンの手を叩き落とす。
「痛えなっ。なにをしやがる?」
と文句を言うスラットンに、事情を伝える。
「なんだって! エルネア君は、竜とだけじゃなく、木とも話せるんだ!?」
「うん、そうだよ。だから、みんなはもう桃に手を出さないで。あと、ちょっと集中させてね?」
竜心とは違い、万物の声は深く集中していないと聞き取れない。ましてや、桃の木のお爺ちゃんの声は弱々しくて、意識を向けていないと聞き逃しちゃう。
僕は残った桃の実を確認しながら、年老いた桃の木に向き直った。
「ねえ、あの子って誰のこと? もしかして、こうして冬でも桃を実らせているのは、その子のためなのかな?」
普通だったら、絶対にありえないこと。
夏の
きっと、この桃の木のお爺ちゃんは、大切な想いを内に秘めて、桃を実らせていたに違いない。
それを、僕たちは空腹に任せて無遠慮に食べちゃった。
罪悪感が胸を
だけど、僕の心情を察した年老いた桃の木は、優しく声をかけてくれた。
『良いのだよ。儂は、儂が実らせた果実で幸せになる者がいてくれて、本当に嬉しい。ああ、あの子は今、幸せなのだろうか……。せめて、最後にもう一度、あの子にこの桃を……』
僕たちを優しい心で包んでくれる、年老いた桃の木のおじいちゃん。
ああ、そうなんだね。
この、周囲だけが小春日和のように暖かい不思議な気候も、桃の木の優しさが生んだ奇跡なんだ。
桃の木のお爺ちゃんは、ずっと昔からこうして、自分を頼ってくれる者たちを優しく包み込んで、恵みを与えていたんだね。
そして、年老いた桃の木のお爺ちゃんは今、誰かを気にかけている。
あの子とはいったい……?
「ねえ、あの子って誰のこと? もしかして、僕たちに何か協力できることはある?」
『優しい人の子よ、ありがとう。どうか最後に、木の実をあの子へ……』
駄目だ、年老いた桃の木は「あの子」と言うだけで、明確に誰かを指してはくれない。
せめて、名前さえわかれば、と
そして、それがふとした疑問に繋がった。
そういえば、僕たちは東の魔術師の名前を知らないよね?
あの人は、いったい何ていう名前なんだろう?
魔族は、格下の者や親しくもない者に名前を呼ばれることを嫌う。
でも、他の種族は違う。名前を呼ぶことは、親愛の
お互いに名前を呼びあうことで心を近づけて、深い繋がりを結んでいく。
そう考えると、東の魔術師のことを「東の魔術師」と名前じゃない通り名で呼んでいた僕たちって、知らず知らずのうちにお互いの間に壁を作ってしまっていたのかな?
そうか、と思い当たる。
東の魔術師が僕たちの言葉に耳を傾けなかったのも、これが原因なんじゃないのかな?
そもそも「東の魔術師」とは天上山脈でひとり戦う彼女のことを伝え聞いた人たちが、勝手に付けた通り名だ。
それを、彼女本人が認識しているとは限らない。
こちらがどんなに語りかけようとしても、知らない人が自分の名前を呼びもせずに勝手に話していたって、相手は他人事のように感じちゃうもんね。
もしかしたら、この辺に問題の解決の糸口があるのかも。
でも、その前に。
僕は桃の木のお爺ちゃんへと意識を戻す。
だけど、年老いた桃の木は「あの子」と繰り返すだけで、名前を教えてはくれない。
あるいは、桃の木も「あの子」の名前を知らないんじゃないかな?
では、せめて、どんな者なのかを知りたい。
人だろうか、獣だろうか。種族は何で、容姿はどんな感じ?
質問してみたけど、年老いた桃の木は弱々しい反応を示すくらいで、要領をえない。
ああ、なんてことだろう。
この年老いた桃の木は、天命を
きっと「あの子」の記憶も、ずっと昔のものなんじゃないかな?
だから記憶が薄れてしまっていて、明確に応えられない。
そして、もしも本当に昔のことを伝えているのなら……。「あの子」は、もしかしたら亡くなっているかもしれない。
樹木よりも長生きする生物なんて、あまり存在しないからね。
だけど、最期だからこそ、この年老いた桃の木の想いを
僕たちには他にもいっぱい、難しい問題を抱えているんだけどね。
どうにかして、力になれないかな。そう想いを巡らせているときだった。
「ただいま?」
「アレスちゃん!」
救世主の登場に、僕の心がぱっと晴れた。
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