桃と少女

 それは、遠い遠い昔の物語。


 その日も、晴れてはいても天上山脈てんじょうさんみゃくに雪が降り積もるような、真冬前のことだった。

 月明かりが美しい、空気の澄んだ夜。


「逃げろ!」


 村人が叫んだ。

 だが、直後に彼は死ぬ。

 正確には、突如とつじょとして村を襲った化け物に丸呑みにされ、絶命してしまう。


 天井山脈の中腹にある村は、瞬く間に絶望の悲鳴に支配された。

 夜闇よるやみまぎれ、漆黒の影がうごめく。

 ざわざわと無数のあしわせ、逃げ惑う村人たちを襲っていく。


 魔族も、奴隷も、等しく捕食されていく。

 力ある者が、化け物に抵抗しようと試みた。

 だが、あえなく返り討ちにあい、絶命する。


 化け物には一切の魔法が通じず、やいばも通らない。

 人々には、逃げるという選択肢だけしか残されていなかった。


「今のうちに、さあ!」


 男が、妻を促す。

 妻は幼子おさなごを抱え、悲鳴をあげて走る。

 男は手に持てるだけの荷物を抱え、妻のあとを追った。


「奴隷どもめ、この騒動に乗じて逃げる気か!」


 見窄みすぼらしい奴隷納屋どれいなやから逃げ出した者たちに怒気を見せる魔族。だが、次の瞬間には化け物に捕食されてしまっていた。

 男は、死んだ主人が見せた殺気よりも、月明かりに照らされてもなお黒い化け物に恐怖し、逃げる。

 この夫婦以外にも、奴隷たちが逃げ出していた。


 手に手にわずかばかりの荷物を抱え、死に物狂いで村を飛び出す。

 そして、天上山脈へと向かって走る。


 もう、駄目だ。

 この村は滅びる。

 この場に残っていては、あの化け物に捕食されるだけだ。

 だが、平地へ逃げても未来はない。

 また奴隷狩りにあい、奴隷として生きる道しかない。


 ならば。


 いつか、誰かが口にしていた。

 天上山脈を越えた西の先には、人族に安寧あんねいをもたらす平和な世界があると。


 人々は絶望の中にも希望を見出みいだし、雪が降り積もった天上山脈を走る。

 だが、追っ手は迫っていた。

 逃げそびれた村人を根こそぎ平らげた化け物は、今度は天上山脈へと逃げていった者たちを追う。


 ずるりずるりと無数の脚を這わせ、化け物は天上山脈の奥深くへと入っていく。






「ああ、もう駄目だ……」


 力尽きた者から順番に、化け物に捕食されていく。

 それでも、村人たちは走った。

 素足で、足に怪我を負おうとも、逃げた。


 だが、次から次に、脱落者が出る。

 険しい道。身も凍る気温。

 ただでさえ、毎日の食事もまともに与えられていない。

 体力のない者は死の絶望を前にしても動けなくなり、そして命を落とす。


 男も、妻を必死にはげましながら、険しい山腹を走った。

 妻の腕のなかでは、幼子が命を主張するように全力で泣いていた。

 だが、夫婦にも限界は訪れる。


「もう、走れない……」


 妻の弱気に、男は励ましを口にする。


「走れ。のぼれば、きっと助かる!」


 何の根拠もない言葉だった。

 だが、あの不気味に黒い化け物は、闇に生きる生物だということくらいは、なんとなくわかった。

 だから、朝日が昇れば、あの化け物も消えるのではないか。

 男の励ましに、妻はまた走り出す。


 ひとり、またひとりと脱落者が出るなかで、夫婦は励まし合い、逃げた。


 だが、やはり限界は来てしまった。

 空腹と、足の痛み。消耗しきった体力。

 ふらふらと走り、最後には一本の木の根元に倒れこむ。


 ああ、もう駄目だ。

 これ以上は、走れない。

 男は絶望していた。


 手にした荷物が、どうしようもなく重い。

 生きていくために必要不可欠な物なのに、邪魔でしかない。

 見れば、妻も悲痛な表情で抱いた幼子を見つめていた。


「お前……」

「あなた……」


 悲しく見つめ合う二人。

 だが、迷うほどの選択肢を、二人は持っていなかった。


「子は、また産める。だが、俺たちがここで死んでは……」

「ああ、あなた。この子を見捨てろというの?」

「仕方がないだろう! 俺たちが生き残るためだ!!」


 このままでは、幼い子供どころか自分たちまで死んでしまう。

 それならば……


 妻は、何度も何度も我が子を抱きしめ、頬ずりをした。

 幼子は自分の運命に気づいたのか、悲痛に泣き叫ぶ。


 だが、夫婦は決意した。

 そっと、幼子を木の根の陰に隠すように置く。

 せめて、少しでも見つからないようにとの、些細ささい配慮はいりょだった。


「ああ、ごめんね。ごめんなさい……」

「さあ、行こう。振り返っては駄目だ。走るんだ!」


 男も、荷物を捨てていた。

 なにかを抱えていては、もうこれ以上は走れない。

 男に促され、妻は走り出す。

 男は最後にもう一度だけ我が子を振り返り、そして意を決したように走り出した。


 残された幼子は、救いを求めるように泣き続けていた。






 泣いて、泣いて、泣き叫んで。

 だが、幼子を救う手は差し伸べられない。

 そうしているうちに、朝日が昇った。


 絶望の中の、ほんの小さな奇跡だったかもしれない。

 騒がしく泣き叫んでいた幼子は、しかし最後まで化け物に襲われることはなかった。


 朝が来ると、夜通し泣き叫んだ幼子は疲れ果て、眠りに落ちた。

 すやすやと、先程までの不安や絶望を感じさせないような、安らかな寝顔。


 夫婦から遅れながらも、なんとか木の根元を通過した者が、幼子の寝顔にしばしのいやしを受ける。

 だが、誰も幼子を抱きかかえようとはしなかった。

 癒されながらも、後ろ髪を引かれながらも、生き延びた者たちは天上山脈の奥を目指して、また走りだす。


 ああ、可哀想に。

 これほどまでに可愛く、いとおしいというのに。


 幼子の無垢むくな寝顔に癒されたのは、なにも人だけではなかった。

 孤独に生きてきた若木わかぎは、自分の根元に置き去りにされてしまった幼子を見下ろすと、その汚れのない寝顔に微笑んだ。

 そして、同時にうれいた。


 このままでは、この子は死んでしまう。

 空腹によってか。その前に、寒さによってか。

 不幸中の幸いか、男が置いていった荷物には、食料の他にも防寒の衣類が入っていた。

 だが、植物である若木は自由に枝先を動かせない。


 ただ出来ることといえば……


 若木は、内に秘めた長命な魂を削って、自身を活性化させた。

 すると、どうだろう。

 真冬前だというのに、若木の枝先にひとつだけ、果実が実った。


 これで、どうかえをしのいでおくれ。

 枝は動かせなくとも、実った果実を意図的に落とすことはできる。

 ぼとり、と果実は幼子の手元に落ちた。


 歯が無くとも、吸うことができるほどれた、美味しそうなももだった。


「やれ、なんとも珍しい」


 すると、奇跡が重なった。

 夕方近くになった頃だろうか。

 麓から山腹へと逃げていった人々とは真逆に、山奥からのんびりと歩いてきた二人の女が、幼子を気にかける桃の若木に興味を示す。


「やれやれ。邪族じゃぞく討伐とうばつなんぞは、この世で最も割りに合わない仕事だ」

「ふふふ、魔女まじょからの緊急要請きんきゅうようせいとは、大変に珍しいことでございましたね?」

「奴は今、永久雪原えいきゅうせつげんの奥にこもって動けないのだろうよ。だが、まあ。お陰で魔女に貸しを作ることができた。それに……」


 言って、女のひとりは、自分たちを興味深そうに見つめる幼子を見た。

 二人の女が放つ不思議な気配に気づいたのか、桃の木の根元に捨てられた幼子は目を覚ましていた。


「周辺の村を五つばかり平らげた邪族が、喰い残すとはな」

「この惨劇さんげきの生存者が、幼子ひとりとは。魔女的には、これは奇跡と呼べるものなのでしょうか」

「奇跡だろうさ。少なくとも、この遺児いじにとってはな」


 それに、と青い豪奢ごうしゃな衣装を身に纏った方の女が、自分たちを指す。


「気まぐれで、こうして私らが徒歩で下山している最中に出逢った。これも奇跡であろう?」

「ふふふ、そうでございますね」


 金髪を横巻きにした奇妙な髪型の女が同意する。


「ふふ、ふふふ。陛下、それにしても、ここはとても寒うございますね? 奇跡的に生き延びた幼子ではありますが、このまま夜になりますと、凍死してしまうのではないでしょうか?」

「では、こうするとしよう」


 言って、ふふふと同じように微笑ほほえむ青い衣装の女は屈み込み、残された荷物から厚手の毛布を取りだすと、幼女に掛ける。

 さらに、単純そうに見えてとても高位な術を発動させた。

 すると、若い桃の木の周囲だけがほのかに暖かくなる。


「これで、其方そなたも桃を実らせやすくなるであろう?」

『ああ、なんとありがたい。気まぐれであるとはいえ、お二人のご厚意に心より感謝いたします』

「ほんの、気まぐれだ。樹が人を育てるなど、とても珍しい。だから、ほんの気まぐれだ」


 そう言い残すと、二人の女はまた歩いて山を下っていった。


「マ、ジョ……」


 幼子は両手で大切そうに桃を握りながら、二人が同じように発音した言葉を不思議そうに繰り返し口にしていた。






 毎日、ひとつ。

 桃の木は、幼子のために桃を実らせた。


 幼子は毎日手もとに落ちてくる桃を食べて、生き長らえた。


 奇跡はさらに重なった。

 野ざらしに放置された幼子だが、なぜか不思議と魔物や獣に襲われることはなかった。


「アー。アゥー」


 両親から見捨てられた幼子は、しかし運命からは見放されていなかった。

 桃の木に救われ、二人の女の気まぐれで守護され、天上山脈に見守られて、生き長らえた。


 そうして、幼子は桃だけを食べて、成長していった。


 幼子は、自分の力で動けるようになると、桃の木の周りをうようにして動き回った。

 桃の木は幼子が動き回ることが楽しくて、手もとにではなく少し離れた場所に桃を落とすようになった。


 幼子は年月を得てさらに成長し、歩けるようになった。

 はしゃぎ回る子供に、桃の木は毎日、桃を実らせた。

 落ちてくる前に、子供は実った桃の下に走り寄る。そして、落ちてきた桃を上手く受け取る。


 桃の木にとっても、子供にとっても、幸せな時間だった。


 だが、月日が経つと、子供はさらに成長していった。

 ひとつの桃だけでは、子供の空腹は満たされない。

 せた子供は、実年齢よりも随分と幼く見えた。


 ああ、このままでは、この子をごろしにしてしまう。

 桃の木は、現状になげいた。

 桃だけでは、人は真っ当に成長できない。


 次に奇跡が起きたのは、幼子が歩けるようになって何年目かの冬だった。


「なんという奇跡だろう。冬だというのに、これほど暖かいなんて。魔女の助言でこの山脈へと逃げ込んだのはいいものの、この寒さにもう駄目だとばかり思っていたが」


 魔族の手から逃れ、天上山脈を旅していた男は、奇跡的に桃の木が生えた場所までたどり着いた。

 そして、小春日和こはるびよりのように暖かいこの場所で、季節外れに実った桃と、痩せ細った少女と出逢う。


「君は、もも精霊せいれいだろうか。いや、そんなことは些細なことさ。ああ、こんな場所で、独りで生きてきたなんて。さあ、これからは僕が一緒だよ?」

「アー? ゥアー」


 少女を憐憫れんびんに思った旅人が、手を差し伸べる。

 だが、少女は強い警戒心で男の手を拒絶し、桃の木に抱きついた。


「ああ、そうか。そうだよね。君はこの桃の木を大切にしているんだ。それじゃあ、こうしよう。この近くに、僕も住むことにするよ」


 そうして、男は桃の木の側に住処すみかとなる場所を見つけ、暮らしだした。


 当初は、男に対して強い警戒心を持っていた少女だったが、毎日顔を合わせているうちに、次第に心を開いていく。

 そして、男が狩猟しゅりょうしてきた肉や野菜を、少しずつ食べるようになった。


 男と少女の距離は縮まっていった。

 男は、少女の興味を引こうと、色々なこころみを見せた。


 男は、呪術師じゅじゅつしだった。

 卓越たくえつした手並てなみで呪術を使い、様々な奇跡を起こす。

 時には、腰に帯びた赤と黒が美しいさやから剣を抜き、自慢するように少女に見せた。

 少女は、男の呪術が遊びか何かのように見えて、喜んだ。剣のつばに埋め込まれた真っ赤な宝玉ほうぎょくの美しさに魅入みいった。

 男は少しずつ、少女に言葉と同時に呪術の基礎きそを教え込んでいった。


 月日は瞬く間に経過した。

 少女は、男の住処で寝泊まりするようになった。


 桃の木は少し寂しく感じたが、あれが真っ当な人の生活なのだ。

 それに、少女は桃の木の存在を忘れてはいない。

 野草を摘み、肉を食べるようになっても、毎日欠かさず、桃を貰いにやって来る。

 桃の木も、少女のために毎日欠かさず桃を実らせた。


 そして、さらに年月は経つ。

 男は年老い、少女は女性に近づく。

 そしていつしか、男の姿を見かけなくなってしまった。


 ああ、寿命だろうか。

 人は自分ら植物とは違い、春を迎える回数がうんと少ない。

 きっと、男の魂は燃え尽きてしまったのだろう。


 男の姿を見なくなっても、成長した少女の姿はよく見かけた。

 だが、毎日ではなくなった。


 肉の味を覚え、桃の実だけでは成長できなくなった少女は、生きるために活動範囲を広げていった。

 日によっては、何日も少女の姿を見かけないことが多くなっていった。

 そして気づけば、少女の姿を見かけることの方が少なくなっていた。


 それでも、良いのだ。

 あの子がすこやかに成長し、元気に生きてさえくれていれば。


 桃の木は、少女が訪れなくなってからも毎日、桃を実らせ続けた。

 いつ少女が戻ってきても良いように。


 ああ、そうだ。すぐにれさせずに、枝にいっぱい桃を実らせよう。

 次に少女が来たら、きっと驚いて喜んでくれるに違いない。


 桃の木はそれからというもの、毎日ひとつ桃を実らせては、熟す期間を遅らせて、枝いっぱいに果実を増やしていった。

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