精霊の里
竜の森の奥へと進むにつれ、気温が下がっていく。終いには、雪まで降り始めた。
冷たい濃霧は
「ううっ、寒い」
ルイセイネを抱いて空間跳躍をする。跳ぶごとに寒さが増していくなか、ルイセイネの温もりでなんとか耐えられている状況だった。
「もう少しだ、辛抱してくれ」
先を行くカーリーさん。
ミストラルも森を
夏のはず。昨日までは、立っているだけでも汗をかくような気温だったはず。それなのに、今は寒さに凍えているなんて。
各地で活動する僕たちだけど、こうした急激な気温変化を体験したことはない。
夏用の薄着は吹き
氷を着込んでいるようだ。
ルイセイネも僕の腕のなかで震えていた。
耳長族の村へと向かいながら、竜の森でなにが起きているのかを知ろうと、意識を広げる。
竜脈に繋がり、世界を読み取る。
だけど、世界はなにも教えてくれなかった。
動物たちは僕たちと同じように震えて、冷たい風が吹き込まない場所に隠れ潜んでいる。樹々も風も大地も空も沈黙し、世界の違和感を伝えてくれない。
ううん、違うか。
感じ取れる全てが違和感に包まれているせいで、異常事態をこれ以上は伝えられないんだ。
季節が変わるほどの異変。
いったい、竜の森でなにが起きているのか。
隣で疾駆するミストラルの表情は陰っている。
きっと、世話役としてスレイグスタ老のことが気がかりなんだろうね。それと、慣れ親しんだ森の異変に気を揉んでいるに違いない。
「ねえ、ミストラルは苔の広場に行く?」
「……いいえ、わたしも耳長族の村へと行くわ。翁は大丈夫。あれでも古代種の竜族ですもの。きっとこの事態にも対応できているわ」
「それなら、おじいちゃんに助言をもらった方が良いような?」
「どうかしら。ユーリィ様がなによりも先にわたしたちを呼び寄せたということは、翁のもとへと向かうよりも耳長族と合流しろ、ということだと思うわ。ユーリィ様と翁は心で会話ができるから、耳長族と合流することを翁も望んでいると思うの」
そうだよね。ミストラルもいざとなれば、スレイグスタ老と
心配してくれてありがとう、と微笑むミストラルは少しだけ気が紛れたみたい。
前方で空間跳躍を駆使するカーリーさんを見据え、さらに加速していった。
僕も負けてはいられない。
飛ばすよ、とルイセイネに声をかけて、全力で空間跳躍を繰り出した。
「おはようございます、おばあちゃん」
耳長族の村は、雪に埋もれていた。
村の前に広がっていたはずのお花畑は真っ白な雪の草原へと変わり、家々の屋根も白く染まっていた。
「あのね。雪だよ。雪合戦をする?」
「プリシアちゃん、おはよう。ごめんね。雪合戦はまた今度ね」
「寒いにゃん」
『うわんっ、寒いよっ』
『リームの炎で
僕は、耳長族の大長老であるユーリィおばあちゃんとお話しをしたいんですが。
状況を理解していないちびっ子たちは真っ先に僕たちへと飛びついて来て、いつものように騒ぎ始めた。
ふるふると震えるニーミアは、早速僕の懐に潜り込む。
いやいや、君は「雪」が種族名についた竜族だよね。しかも、長い毛がふわふわで一番暖かそうなのに、寒がっているってどういうことさ。
ニーミアの企みは、未だに僕に抱きかかえられていたルイセイネに阻まれた。
「みなさんは、今日は村でお勉強ですよね?」
「うう、遊びたいよ?」
「駄目ですよ」
僕の懐に手を入れてニーミアを摘まみ上げるルイセイネ。
僕はそんなルイセイネを地面に下ろす。
そしてようやく、出迎えてくれたユーリィおばあちゃんや耳長族の人たちと対面した。
「おはよう、朝から来てもらってありがとうねえ」
ユーリィおばあちゃんは、僕とちびっ子たちのやりとりをのんびり見守ったあとに、いつものようにゆったりとした調子で出迎えてくれた。
「ユーリィ様、これはいったい……?」
だけど、のんびりなのはユーリィおばあちゃんだけで、他のみんなは異変に戸惑っている様子だ。
ミストラルも、挨拶を済ませると早速、本題を切り出した。
「そうねえ。困ったわねぇ」
ユーリィおばあちゃんは、降ってきた大粒の雪を
雪はユーリィおばあちゃんの体温で溶けて、水に変わった。
耳長族の村は、精霊の加護で包まれているおかげで、
だけど、寒い年の真冬のように雪がしんしんと降り続き、積雪は増していく。
村の外に目を向けると、真っ白な嵐が吹き荒れていた。
ユーリィおばあちゃんは僕たちと村のみんな、そして外の様子をゆっくりとした視線で追う。
そして、穏やかな表情とは真逆な、物騒極まりないことを口にした。
「精霊たちが暴れているのねえ」
えええっ、と僕たちは仰け反って驚く。
耳長族の人たちは「やはりそうだったか」と覚悟していたように
「んんっと、精霊さんたちが怒ってるの?」
「怒っているのかしらねえ。それは精霊たちに聞いてみないとわからないわねえ」
ユーリィおばあちゃんに言われて、プリシアちゃんは垂れた長い耳に手を当てる。だけど精霊さんの声が聞こえなかったのか、首を傾げてユーリィおばあちゃんを見上げた。
「様子を見てきた。やはり、
そのとき、空間跳躍で耳長族の男性が村のなかへと飛び込んできた。
「精霊の里?」
「おお、エルネアか。そうだ。この異変は、精霊の里が破壊されたのが原因で間違いない」
「確認をありがとうねえ。それじゃあ、精霊の里を戻しに行きましょうか」
「よおし、村の者たちをかき集めるのじゃ! なるべく多くの属性に対応できるように、珍しい精霊と交信できる者は老若男女を問わずに参加を命じる!」
白く長い
「プリシアも行くの?」
「プリシアはお母さんとお留守番をしていてねえ。貴女になにかあったら、村のみんなが困りますから」
ごめんなさい。次期族長であり、村の宝であるプリシアちゃんを自由奔放にいつも預かっています。と僕は胸が痛む。
「ユーリィ様、それではわたしたちは?」
「貴女たちにも来てもらいましょうねえ。精霊たちはこちらで抑えますから、貴女たちには里の修復を手伝ってもらいたいの」
「里の修復って、僕たちにできるのかな?」
「精霊と交遊した経験はありますが、わたくしたちは精霊の住む里には行ったことがありません。大丈夫なのでしょうか?」
疑問は僕たちだけではなく、他の耳長族も同じだった。
全員でユーリィおばあちゃんを見る。
だけど、ユーリィおばあちゃんはこれまで通り、のんびりとした口調で「来てもらうと助かるわねえ」と言って、優しい笑みを浮かべた。
「よし、とにかく出発だ!」
「時間が経てば、状況は悪化していく」
集まった耳長族の人たちと一緒に、僕とミストラルとルイセイネも精霊の里に行くことになった。
でも、その前に。
「さ、寒いですよ。なにか羽織るものが欲しいかな」
「はっはっはっ。エルネアよ、なにを言っている。これから精霊の里に行くのだぞ」
「そうだそうだ。寒かろうが暑かろうが、雨が降ろうが岩が降ろうが、気にしては駄目だ」
「なんですか、その心構えは……」
見れば、集まった耳長族の人たちは本当の季節に相応しい、夏の衣装だった。
誰も厚着なんてしていない。
最高齢のユーリィおばあちゃんも、普通の夏服だ。
だけど、寒くないわけじゃない。
みんな震えています。
なぜ、やせ我慢をしてまで薄着なんだろう。
質問したかったけど、時間が迫っていた。
「よし、出発だ!」
「大長老に遅れを取るなよっ」
「貴方、いってらっしゃい……」
「もしもの時は……」
「あとは頼むぞ」
ユーリィおばあちゃんを見ていると切羽詰まった気配はないけど、実は精霊の里が破壊されたということは危機的状況なのかもしれない。
精霊の里に向かう人たちは、残る人たちとしっかり挨拶を交わし、覚悟を決めたような表情になっていた。
そして、全員が言葉を交わし終えると、優しく見守っていたユーリィおばあちゃんが動いた。
杖をつきながら、一歩前に進む。
一歩で、村のなかからお花畑を抜けて、竜の森へ。
禁領でナザリアさんが見せた空間跳躍に匹敵するかそれ以上の距離を、一度で稼ぐ。
続けて、同行する耳長族の人たちが一斉に空間跳躍を発動させた。
誰もが僕以上の距離を跳ぶ。だけど、誰もユーリィおばあちゃんの跳躍距離には敵わない。
「じゃあ、僕たちも行こう!」
「エルネア君、お願いします」
「プリシア、ちゃんと勉強をするのよ?」
「んんっと、行ってらっしゃい!」
「気をつけてにゃん」
『いつでも喚んでねっ』
『応援に行くよー』
僕はルイセイネを抱き寄せると、幼女たちに見送られて村を出る。
ミストラルも全力で追って来た。
少し出遅れた僕たちの先を耳長族たちが行く。見失わないように、竜宝玉を解放して後を追う。
ミストラルも早々に人竜化して、樹々の間を高速で飛んでいた。
いったい、精霊の里とはどういう場所なのか。そして、何者が精霊の里を破壊したのか。
住処を破壊されたことで、精霊たちが怒っている。
容赦なく降る雪も、荒れる風も、精霊たちの仕業だ。
スレイグスタ老は言っていたっけ。
精霊たちは、僕たちとは違う
竜の森に住む精霊たちは、自分たちの里が破壊されたことで怒り、スレイグスタ老の術を上書きするほどの天変地異を引き起こしていた。
そういえば、精霊といえばアレスちゃんなんだけど。
耳長族に使役されている精霊さんたちは、こちらに協力的だ。誰かが発動させた精霊術で、僕たちの周りの風は緩和されている。少しだけ寒さも苦じゃなくなっている。
だけど、誰にも使役されていないアレスちゃんはどうなんだろう。
『げんきげんき』
「いやいや、元気なのは知っているよ」
『なかまなかま』
「どっちの仲間かな?」
心に届くアレスちゃんの声。
だけど、高速移動中なので顕現はしてこないみたい。
姿は見えないし明確な答えを聞かせてはくれないけど、こうして僕の心に反応してくれているってことは、敵ではないみたいだね。
もうアレスちゃんとは戦いたくないからね。
僕たちが森のどこへ向かっているのかは知らない。
ただ、耳長族の人たちを全力で追うだけだ。
耳長族の人たちも、必死にユーリィおばあちゃんを追っている。
さすがは大長老様。
そういえば、若い頃には魔女さんと世界中を旅していたんだっけ。
僕たちは必死だというのに、ユーリィおばあちゃんはのんびりと散歩するように竜の森を進んでいる。
杖をつき、ゆっくりと足を出す。
それだけで、見失いそうになるくらい遠くへと空間跳躍している。
ユーリィおばあちゃんは、たまに立ち止まって振り返り、こちらが追いつくのを待ってくれていた。
これじゃあ、どちらが若くて健康なのかわからなくなっちゃうよね。
負けてはいられない、と必死に追いかける。
すると、急に気候が変わった。
「あ、暑いっ」
空間跳躍で飛んだ先は、雪景色が消えていた。
突然、もやもやと風景が揺れるほどの熱波が襲いかかる。火の玉が樹々の間を飛び交い、空には
雪で濡れていた服は瞬く間に乾燥し、汗が吹き出てくる。
急激な気温の変化に、ずきりと頭が痛くなった。
急な環境の変化に、全員の足が止まる。
僕は、先に到達していたユーリィおばあちゃんの傍に立つ。耳長族の人たちは僕たちを囲むように身構えた。
「大長老様、ここは我らが!」
「お願いしますねえ」
耳長族の青年数名が、炎の精霊を喚び出す。
炎で形取られた鳥、火の
こちらの動きを待っていたかのように、炎に染まった世界が動き出す。
空の火煙から火の粉の雨が降る。火の玉がこちらへ向かって飛んでくる。
気温はさらに上昇し、身体中から水分が奪われていく。
召喚された精霊さんたちは、迫る炎に躍り掛かった。
使役された精霊さんと野生の精霊たちが炎の乱舞を始めたのを見て、ユーリィおばあちゃんが動いた。
「さあ、行きましょうか」
言って、お散歩をするように空間跳躍をする。
「だ、大丈夫なの!?」
「構うな、あれらが炎の精霊たちを抑えている間に先を進むしかないんだ!」
「彼らの意志を無駄にするな」
「さあ、エルネア君。行ってくれ!」
「あとは任せたぞ!」
青年に背中を押される。それで僕は戸惑いながらも、ユーリィおばあちゃんの後を追った。
だけど、僕たちの行く手を阻む者は炎の精霊だけではなかった。
次に襲ってきたのは、風の精霊だった。
立っていられないような強風が吹き荒れる。空間跳躍をした瞬間に吹き飛ばされ、元の場所まで後退してしまう。ミストラルも上手く飛ぶことができずに立ち止まってしまっていた。
「ここは私たちが!」
「どうか、お先に」
風の精霊を使役できる者が道を拓く。
僕たちは細い風の隙間を駆け抜けた。
「お次は花の精霊か」
「気をつけろ、砂の精霊が潜んでいるぞ!」
「雷の精霊か、厄介だな」
「また雪の精霊かよ。誰か、抑えられる自信のある者はいないか?」
その後も次から次に襲いかかってくる、様々な属性の精霊たち。そのたびに、耳長族の人たちが精霊を抑えるためにその場で離脱して行く。
でも、なぜだろう。
僕は強い疑問を浮かべていた。
精霊の里を破壊された精霊たちが怒っているのは理解できる。
だけど、里を壊してもいない僕たちがなぜ襲われるのかがわからない。
様々な属性の精霊たちは、こちらの行く手を阻むように現れる。
それと、耳長族の人たちが多くの属性に対応できるように人を集めていたのは、この精霊たちの動きを予期していたからだ。
精霊の里が破壊された原因は耳長族にあるとでもいうのかな?
暴れる精霊たちを抑え、僕たちに先を促す耳長族の人たちの顔には、強い覚悟が見て取れた。
命に代えても仲間を精霊の里に送り届ける。
村を出る前に残る人たちと言葉を交わしていたのは、こうなると知っていたから。
いったい、精霊の里と耳長族とはどういう関係なんだろう。
聞いてみたかったけど、僕はユーリィおばあちゃんを追うのがやっとで、誰かと話している余裕はなかった。
それからも、精霊たちは次から次に襲いかかってきた。
そのたびに、耳長族の人たちが食い止める。
そして、ひとり、またひとりと仲間が減って行く。
最後にはとうとう、僕とミストラルと、ルイセイネとユーリィおばあちゃんだけになってしまっていた。
振り返っても、耳長族の人たちの姿は見えない。
竜の森のどこかで、暴れる精霊たちを必死に抑えているはずだ。
僕たちも、強い意志で挑まなくちゃいけない。
みんなの覚悟と犠牲を無駄にはできないんだ。
ユーリィおばあちゃんに手を引かれて光と闇の沼を越えると、これまでの異常気象が嘘のような、晴れた森にたどり着いた。
深く呼吸をすると、古木の森のような澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。
ここが目的地だ。
説明は受けていなかったけど、肌で感じる気配でわかる。
濃密な精霊の気配が漂っている。
火や水、風や土や光や闇といった、あらゆる精霊の気配を感じ取る。そして、森の天井から見える先に、虹色の柱が見えた。
七色の柱は空で緩やかに弧を描き、遥か遠くに先端を伸ばしている。
「虹の根もとですね」
「こんな場所が竜の森にあるとは、わたしも知らなかったわ」
「すごいね……」
異世界のような神秘的な光景に、思わず見とれてしまう。
「さあ、精霊の里はすぐそこですよ」
ユーリィおばあちゃんも僕たちと同じように虹の柱を見上げていたけど、手招きをして僕たちを促す。
ユーリィおばあちゃんを先頭に、森を歩く。
もう、空間跳躍は必要ないみたい。
杖をついてゆっくりと歩くユーリィおばあちゃんに合わせて、僕たちは進む。
向かう先は、やはり虹の根もとだった。
光と闇の沼を抜けてから、なぜか急に精霊たちの襲撃はなくなり、僕たちは苦労せずに一本の古木の前まで来ることができた。
太い幹から伸びる根の陰に、それはあった。
「おばあちゃん、これが精霊の里?」
「そうですよ。ふふふ、人の住む村や町とは随分と違いますけどねえ」
古木は七色の光に包まれていて。
光は天高く伸びていて。
根もとには、手のひらくらいの大きさから小指の先くらいまでの平たい石が無残に散乱していた。
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