小春日和のひと幕
翌朝起きると、僕は朝食を済ませてすぐに千手の蜘蛛の
どうやら、アーダさんは今日は同行しないらしい。もう少し禁領を散策したいのだとか。なんでも、アーダさんの住んでいる地域は不毛の大地らしく、自然豊かな禁領が珍しいんだって。
僕は、アームアード王国の王都出身とはいえ、周囲に手付かずの自然がたくさんある場所で育ったので、樹の一本一本にまで関心を向けるアーダさんの様子には、新鮮な印象を受けた。
それと、僕が出発するのをにやにや顏で見送っていたセジムさんとアゼイランさんだけど。
相変わらず、気配は探れない。
あと少しで、世界の気配を読む感覚は身につけられそうな気もするけど、もう少し時間が必要なのかな。
空間跳躍のたびに足を着ける大地。空気や動物や自然の息吹。竜剣舞のときの感覚を丁寧に呼び起こしていくと、身近な周囲の気配を読めるようにはなっていた。
これまでの復習をしつつ、空間跳躍を駆使する。するとすぐに、霊山の中腹から麓に走る大地の裂け目へと到着した。
昨日と同じように、裂け目の奥は真っ暗な闇が沈んでいる。
瞳に竜気を宿して、裂け目へと降りる。
昨日は上機嫌だった千手の蜘蛛だけど、今日は不機嫌で、がぶり、なんてことにはならないよね? なんて恐ろしいことを考えながら底へとたどり着き、闇の奥へ向かって進んだ。
「人がひとーつ」
「おはようございます」
暗闇の奥から、老年のような幼いような不思議な声が降ってきて、僕は立ち止まって挨拶をした。
「ご飯を感謝する。珍しい命。素敵なお肉。お腹いっぱーい」
ぬるり、と頭上に超巨大な蜘蛛の顔が浮かび上がり、僕は少しだけ後退る。
襲われないと知っていても、大迫力の蜘蛛の顔が降ってきたら焦っちゃうよね。
きっと、ルイセイネやライラだったら泡を吹いて気絶しちゃいそう。
「もしかして、昨日の邪竜はもう食べてしまったんですか?」
「おや! 食べたかった?」
「いいえ、結構です……」
「先に言ってくれておれば、少しだけお肉を残しておいたのに」
「美味しかったですか?」
「ぴりりとした毒とまったりとした呪いが絶妙でー」
「はい。僕たちだと口にした瞬間に死んじゃいます!」
うげえ、と顔をしかめたら、千手の蜘蛛はころころと喉なりのような軽い音を立てて笑っていた。
「約束のご褒美。満腹になったから分けてあげよう」
「やったー!」
こちらからは言い出しにくかったけど、千手の蜘蛛は自分から話を進めてくれた。
見通せない闇の奥から蜘蛛の脚が一本だけこちらに向かって伸びてきた。鋭い爪の先に、きらきらと輝く糸が
「こ、こんなに!?」
しかも、大量に。
ふわりとした質感で膨れているけど、僕の体積よりも多い量ですよ。
「いらなーい?」
「ううん。本当に、こんな量を貰ってもいいんですか?」
「ちょっとしかなーい」
「そうか。身体が大きいから、これくらいでもちょっとなんですね」
「そういうこと」
頭上で光る八つの真っ赤な瞳が、僕を楽しそうに見下ろしている。
僕は千手の蜘蛛の好意を素直に受け取って、爪の先に巻き付けられていた糸を頂く。
量は凄いけど、抱えてみると殆ど重量を感じない。北の地で、もこもこの
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。でも、これだけでいいのかーな?」
「えっ!?」
「あんなご馳走は久々。もっといっぱいお礼をしたいところ」
「それは嬉しいな。でも、他になにも思いつかないです」
ううむ、と頭を傾ける僕。僕から糸を受け取って謎の空間に収納していたアレスちゃんも、僕を真似して頭を右に左に傾けていた。
「糸をもっといっぱーい?」
「ううーん……。そうだなぁ。糸をたくさん貰っても使い道が思いつかないし。そうだ! お友達になってほしいです」
「おともだち?」
「うん。これからも禁領に来ることはあるし、一緒に遊んだり狩りをしたり。仲良くなりたいな。僕のお嫁さんたちも今度紹介したいし」
ミストラルたちを驚かせてやろう、なんて悪いことを考えながら提案すると、千手の蜘蛛はころころころと、また楽しそうに笑った。
「面白い子。いいよ。おともだち。我の名はテルル。いつでも喚んで。親しく話して。一緒に遊ぼーう。でも、ご飯もほしい」
「テルルって名前なんですね。僕はエルネア、こっちはアレスちゃん。よろしくね」
「我もテルルちゃんと呼んでね。親しく話してね」
「は、はい……」
超巨大なのに無邪気なテルルちゃんに苦笑しつつ、未だに目の前にある千手の蜘蛛の爪先に触れて握手をしたら、ぶんぶんと振り回された。
千手の蜘蛛のテルルちゃんは上機嫌で喜んでくれて、僕とアレスちゃんも嬉しくなる。
まさか、禁領で猩猩と同格の魔獣とお友達になれるなんて、思いもしなかったよ。
さっそく一緒に遊びたかったけど、まずは糸を魔女さんに届けないといけない。誘っておいてごめんね、とテルルちゃんに謝ると、何百年も生きていれば数日や数年は短いものだ、と笑われた。
テルルちゃんは、昨日と同じように空間を爪先で切り裂いて、僕たちを送ってくれた。
そして、一瞬で廃墟の村へと戻ってきた僕とアレスちゃんを、魔女さんが待っていてくれた。
僕はアレスちゃんから糸を受け取る。こんなにすぐに渡すなら、わざわざ謎の空間に収納しなくてもよかったね。
「これが糸です」
「多いな。まあ、良い。糸はあとでアーダに組み糸に加工させよう」
「昨日の邪竜の涙はなにに使うんですか?」
邪竜の死骸の瞳から採取した液体は、昨夜のうちに、霊樹の葉っぱと一緒に魔女さんへと渡していた。
霊樹の葉っぱは、
「そちらは既に加工済みじゃ。アーダが組み糸を編んだら合わせて渡す」
言って魔女さんは、掌に丸い宝玉を乗せて見せてくれた。
透明で美しい宝玉の中心に、霊樹の葉っぱが浮遊していた。
「これって、邪竜の涙と霊樹の葉っぱを玉の中に閉じ込めたんですか?」
どうやって? と興味津々に、アレスちゃんと覗き込む。
丸い宝玉の上には金細工の留め金が仕込まれていて、そこに編んだ糸を通せるだけの穴が空いていた。
完成品は首飾りになるのかな?
「涙の表面を丸く結晶化してある。中は液体のままじゃがな。邪竜の涙には強い精神干渉の呪いがあるが、霊樹の葉っぱで浄化しておる」
「……な、なるほど」
「これを身につけておれば、あれら程度の技では使役下には置けぬようになる」
魔女さんが視線でナザリアさんやアユラさんを示す。保存食を作っていた二人は、魔女さんの指摘に苦笑していた。
「ナザリアさんたちの干渉を跳ね除けるなんて、凄いですね! ちなみに、ナザリアさんたち程度なら、というのはどれくらいですか?」
「ミシェイラのような存在には通用せぬ。それだけは諦めよ。世界の
「大丈夫だわ。あたしたちは精霊を使役する必要がないもの」
今日も焚き火の前で膝を抱えて座り、紫色のお芋をはふはふと食べていたミシェイラちゃんが微笑んだ。
「そもそもが、
「そうなんですね。ナザリアさんたちにも僕は敵わないし、それ以上の相手の場合は一目散に逃げます」
完成が楽しみだね、とアレスちゃんに声をかける。でも、アレスちゃんは霊樹の葉っぱが浮遊する丸く透明な宝玉に見入ってしまっていて、僕の声には気づいていなかった。
ちょっとだけ悲しい。
その後は、世界を感じる修行へと移った。
こういうものは瞑想しながらが良い、とこれまでの経験で知っているからね。ナザリアさんたちのお手伝いやテルルちゃんと遊ぶ約束は、申し訳ないけど後に回させてもらう。
ナザリアさんも理解を示してくれて、僕は心おきなく修行に入ることができた。
アレスちゃんは魔女さんの傍で、ずっと宝玉を見つめていた。
とても気に入っているんだね。
そういえば、いつも傍に居てくれているアレスちゃんに、ああしたお礼を渡したことがない。
いや、アレスちゃんだけじゃないか。ミストラルたちにもお礼を形に変えて渡したことがないんだよね。この辺は少し考えを持っているんだけど、やっぱりたまには気持ちや行動だけじゃなくて、物として渡すのも大切なのだと、アレスちゃんを見ていて気づかされた。
アレスちゃんを見守りながら。ミシェイラちゃんと同じように焚き火の前に座って、瞑想を始める。
竜脈の本流を感じる。霊樹の木刀やアレスちゃんの気配を感じる。魔女さんやミシェイラちゃん、ナザリアさんやアユラさんの存在を認識する。
「エルネアも魔女もあたしも、世界の一部なの。自分と世界を切り離しては駄目。世界に溶け込むの」
ミシェイラちゃんが優しく呟く。
そうか。
世界と同調しなきゃいけないんだ。
僕は僕として存在していて、その他は別の存在として読み取ろうとしちゃいけないんだね。
竜剣舞を舞っているときや、こうして瞑想しているときは、僕は無になる。竜脈と繋がり、それを通して世界に溶け込んでいるんだ。
普段とは違う。自分を「個」として捉えている普段の状態ではなく、僕を含めた世界を「全」として捉える必要がある。
気づけば、簡単なことだった。
だって、これまで瞑想や竜剣舞でいつも世界と繋がっていたんだ。自分の立ち位置を変えるだけ。そうすれば、すぐにものにできるくらいに、僕は成長していたみたい。
遠く。
千手の蜘蛛が住む大地の裂け目の方から、セジムさんとアゼイランさんが歩いて帰ってきていた。
僕をこっそりと尾行していても、テルルちゃんの住処へは近づいていなかったんだね。
獲物を狩りながらなのか、斜面を下ったり登ったり。狩猟中だから気配を完全に消しているはずなのに、風の流れや大地の感触から動きを読み取ることができた。
麓の森の方から、アーダさんが帰ってきている。
春の息吹を胸いっぱいに吸い込んで、気持ちよさそうに斜面を上ってきていた。
アーダさんの優しい気配に惹き寄せられた鳥たちが、彼女の周りで飛び回っている。
不思議な人だね。
内に秘めた力は、きっと僕よりも凄いはず。それなのに、世界に溶け込んで険しさを微塵も感じさせない。
朝方はほんの身の周りだけしか感じ取ることができなかった世界だったけど、ミシェイラちゃんの助言で、一気に開花させることができた。
最初に切っ掛けを与えてくれたアーダさんと、助言をくれたミシェイラちゃんには感謝だね。
あっ。アレスちゃんのために御守りを作ってくれた魔女さん、糸を分けてくれたテルルちゃんにも感謝です。保存食を作ってくれているナザリアさんとアユラさんもありがとう。
セジムさんとアゼイランさん?
あの二人にはこれから仕返ししようと思います!
アーダさんは昼前に戻ってきた。そして、魔女さんに用事を押し付けられて、苦笑していた。
お昼からは瞑想状態を解いて、歩いていたり気を張っている状態でも世界を感じ取るための修行に入る。
アレスちゃんもついてきたので、テルルちゃんと合流して遊びながらの修行になった。
「ぎやゃゃゃああぁぁぁぁぁ!」
「むり、無理だって! ごめんなさいいいぃぃぃぃっ」
大地の裂け目から抜け出たテルルちゃんにお願いして、セジムさんとアゼイランさんたちを追いかけ回す。
驚きです。
テルルちゃんは、山のような巨大さだった。
もしかして、翼を広げたスレイグスタ老より大きい?
名前の通り、数え切れないほどの脚が巨大な胴体を持ち上げていて、脚と胴の間に出来た空間には、小さな山ならすっぽりと収まりそう。
僕とアレスちゃんは、テルルちゃんの頭の上に陣取る。
空が近い!
目標のセジムさんとアゼイランさんは、全力で逃げ回った。森に身を潜め、気配を完全に消す。湖に潜ったり、精霊の結界に隠れたり。
アレスちゃんとテルルちゃんは、セジムさんたちの気配を僕には教えない。追いかけるためには、僕が気配を読み取らなきゃいけない。
禁領を騒がせた鬼ごっこは、こうして数日間執り行われた。
ちゃんと、午前中は狩りをしたりナザリアさんに保存食の作り方を教えてもらったり、遊んでばかりじゃなかったんですからね、と誰かわからない相手に言い訳をしておきます。
そして。
「待たせてすまぬな」
アーダさんが編んだ組紐と合わせて完成した御守りを、魔女さんから受け取る。
「ありがとうございます!」
「いや、これは妾からのお礼と言ったはずじゃ」
と魔女さんは言うけど、アーダさんを利用していたことは突っ込んではいけません。
予想通り、宝玉の御守りは首飾りになっていた。
アレスちゃんにかけてあげる。
「うれしいうれしい!」
アレスちゃんは、ぴょんぴょん跳ねて大喜び。
満面の笑みで魔女さんにお礼を言っていた。
ううむ。アレスちゃんの御守りをプリシアちゃんが見たら、欲しがったりしないかな?
アレスちゃんだけの特別品なんだけど、説明したら理解してくれるよね?
してくれるよね……
「これで、ようやく帰れるのだろうか?」
少し疲れた表情のアーダさん。そういえば、アーダさんは早く戻りたいと最初に言っていたもんね。もしかして、お礼の品のせいで長居になっちゃった?
「お主には休息が必要じゃった」
「帰ったあとの騒動を考えると、頭が痛くなる。休息になっていない」
「大丈夫じゃろう。お主の妹は賢い。上手く周りを言いくるめておるじゃろう」
「……妹には心配も苦労もかけたくないのに」
「過保護じゃな」
どうやら、アーダさんには妹がいるみたい。
アーダさんに似て、優しい美人で知的な人なのかな?
アーダさんだけじゃない。この数日間を一緒に過ごしたミシェイラちゃんやナザリアさんたちの素性を、僕は結局知ることはなかった。魔女さんなんて、名前さえ知りません。
アーダさんも、偽名なんだっけ。
不思議な人たちとの
魔女さんは、アーダさんの肩に手を乗せる。
二人が並ぶと、少しだけ魔女さんの方が背が高かった。
というか、背が高すぎじゃない!?
きっと、長身のリステアくらいはありそうです。
「世話になった」
「数日間、ありがとうございました」
深々と頭をさげるアーダさんと、外套の頭巾部分を深く被りなおす魔女さん。
僕たちも手を振って別れの挨拶をする。
きらきらと
魔女さんとアーダさんが消えたあとも、光の粒は余韻のように空間に漂っていた。
「それじゃあ、エルネアも出発するの?」
「はい。もともと、禁領では食料を確保したら、すぐに移動する予定だったから」
そう。僕も、いつまでも禁領に滞在しているわけにはいかない。
色々と予定が詰まっているからね。
「ミシェイラちゃんたちは、まだここに居るの?」
「エルネアがここにいる時点で、あたしたちはまだ動かないの」
「どういうこと?」
素性を知らないにも程があるかもしれません。ミシェイラちゃんたちの目的がわからずに、疑問符を頭の上に浮かべてしまう。
「きっとまた。近いうちに会えるの」
「そのときは、僕の家族を紹介するね」
「楽しみにしているの」
僕はミシェイラちゃんたちと別れの握手を交わす。
セジムさんとアゼイランさんは、ようやくテルルちゃんの恐怖から解放されるとあって、満面の笑みで挨拶をしてくれた。
僕とアレスちゃんはもう一度みんなに手を振ったあと。
空間跳躍で、一気に霊山を駆け下りた。
いつかまた、ミシェイラちゃんや魔女さんと会える日を楽しみにしておこう。
そしてそのときは、彼女たちの立場や役目を理解できるくらいに成長できていたらいいな。
裾野を緩やかに広げる霊山はすぐに小さくなっていき、森の緑で見えなくなった。
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