千手の蜘蛛

 大地の裂け目は、意外なところに存在していた。

 みんなで寝泊まりしている廃墟の村。そこから裾野伝いに南下した先。最初に獲物を追った草原を越え、岩の斜面を過ぎた場所に、深々とした裂け目が存在していた。


 お昼の休憩を終えた僕たちは、夕方前に大地の裂け目へとたどり着いた。

 裂け目の底は暗く、どれほどの深さかは見ただけではうかがい知れない。


「この奥の闇に何かいるわね」

「うん。ずっと奥の方」


 大地は、霊山の中腹あたりから麓の森に向かって裂けていた。

 僕とアレスちゃんとアーダさんは、裂け目の奥の闇を地表から見下ろす。

 瞳に竜気を宿しても、ずっと先の光の届かない場所までは見通せなかった。


「アーダさんは、ここに残って。僕は降りてみるよ」

「いや、わたしも行こう。なにかあったときに、わたしがいた方がきっと良い」

「どういうこと?」

「こんなところでわたしに危険が迫れば、あれが見過ごさないから」

「なるほど!」


 あれ、とは魔女さんのこと。アーダさんは、魔女さんに無理矢理ここに連れてこられているので、彼女の身の保証は魔女さんが担っている。

 この先に危険が潜んでいるのなら、魔女さんが嫌が応にも出張ってくるってことだね。


「でも、どうやって降りよう?」

「エルネアは空間跳躍ができるんだったわね」

「うん。だから、僕とアレスちゃんは裂け目の壁にある足場になりそうな場所を伝って降りられるんだけど……」

「では、エルネアはその方法で。わたしも自力で降りることにしよう」


 言ってアーダさんは、躊躇ためらいなく裂け目へと飛び降りていった。

 見た目や雰囲気とは違い、なんて大胆な人なんでしょう!

 僕とアレスちゃんが驚いて見つめる先で。

 アーダさんは落下しながら、なにかを口ずさんだ気がした。

 うた? 一瞬だけ、大地の裂け目に歌のような旋律が反響したように感じる。

 だけどそれ以上は、アーダさんの姿とともに闇に消えて確認することはできなかった。

 僕とアレスちゃんは、慌ててアーダさんの後を追う。


 空間跳躍で、見える範囲のなかから足場のしっかりした場所を選び、跳び移る。そうしながら、下へ下へと降りていく。

 途中から光が届かない暗闇になったけど、そこは竜気を宿した瞳で補う。ずっと遠くは見通せないけど、近場なら問題ない。

 大地の裂け目の断崖は思っていたほど急斜面ではなく、じっくりと時間をかけ、慎重に進めば道具なしで普通に降りることができそう。

 でも、今はアーダさんを急いで追わなきゃ。


 苔生こけむした岩肌や漏れ出る水で濡れた岩場、土の堆積たいせきした斜面を空間跳躍で一気に降る。

 そして、底にたどり着く。


 奈落の底まで続いていたらどうしよう、と思っていたけど。底は普通に存在していて、しかも岩肌の立派な地面になっていた。

 見上げると、遥か頭上に細っそりと切り取られた夕方の空が見えた。


あかりは……。必要ないようね」


 大地の切れ目の底では、アーダさんが待っていてくれた。

 アーダさんは、僕が闇を見通していることに気づいている。

 僕もアーダさんを見て、彼女が闇を克服しているとすぐに気づいた。


 黒宝玉のようだったアーダさんの美しい瞳が、闇のなかで青く輝いていた。


「では、行きましょうか」

「うん。慎重にね」


 アーダさんは、上にいるときと同じような感じで、闇の奥へと歩き出す。

 僕は、なにが起きても対応できるようにアレスちゃんと融合し、竜宝玉を身体の内側でたぎらせる。そして、アーダさんと並んで亀裂の奥へと進んだ。


 動物の鳴き声や鳥のさえずり、虫たちの音さえしない暗闇。

 ひたり、ひたり、と水滴が岩肌に落ちる音だけが響く。

 空気は淀み、重苦しい気配が亀裂の底には満ちていた。


 この闇の奥に、千手の蜘蛛と呼ばれる魔獣が潜んでいるのかな?

 あの、未だに竜峰の一画を炎の地獄に変えている猩猩と同格の魔獣だという。

 温厚な性格だと文献には書かれてあったらしいけど、同種の魔獣が全て同じ性格だとは限らない。

 もしかすると、狡猾こうかつ獰猛どうもうかも。


 危険かもしれない魔獣へと無謀に近づくべきではないのかもしれない。

 魔女さんの保険があるとはいっても、一瞬で殺されるような状況なら意味はない。


 では、やはりここは引き返すべきなのか。

 アレスちゃんのためとはいえ、自分の命を失っては元も子もない。

 探せば、もっと安全で安価な方法で、アレスちゃんを守る方法があるかもしれない。


 ……でもね。

 使役しない状態のままでアレスちゃんの身の安全を保障する最上の手段は、あの魔女さんの好意にかかっているような気がするんだ。

 最も高い位置にある答えが提示されているのなら、僕はそれに向かって全力で手を伸ばそう。


 もしもこの先に危険があるのなら、そのときは全力で逃げるまでだ!

 アーダさん連れだろうと、僕は最速の逃げ足でこの大地の裂け目から脱出してみせる。

 死ぬ気や自己犠牲なんて、微塵も持ち合わせてはいないからね。


 アーダさんも、どんな危険が待ち構えていても対処できる自信と覚悟があるのか、足取りに躊躇ためらいは見られない。

 僕とアーダさんはじけずに、並んで恐怖に足を向けた。


 ころころころ。


 老婆ろうばのような、幼児のような。男のような女のような。

 喉を鳴らす笑い声が闇のなかから響いてきて、僕たちは足を止める。そして、日光の届かない闇を凝視した。


 ころころころ。


 面白そうな、楽しそうな笑い声。

 笑い声のような、喉鳴りのような。


 武器は構えちゃ駄目だ。

 敵意を見せてはいけない。

 本能が、敵対行動を禁止しろとつぶやいている。


 ぼうっ、と。

 大地の裂け目の奥底に広がる闇の奥。僕たちの頭上の、もっと上。そこに、八つの真っ赤で丸い光が現れた。


 アーダさんの、青く光る瞳はそれを捉えていた。

 僕の、竜気の宿った瞳も捉えていた。

 闇の奥から。

 超巨大な蜘蛛が、音もなく僕たちの前に迫ってきていた。


 大きい……!!

 大きすぎて、頭より後ろは闇に溶けて確認できない。でも、頭だけでレヴァリアくらいはありそう。

 八つの赤い瞳と、巨大で長い二本の上牙を持つ蜘蛛が、僕とアーダさんの遥か頭上から見下ろしていた。


 見える存在は圧倒的なはずなのに、気配は闇に溶けて推し量れない。闇そのもの、大地の裂け目そのものが、この超巨大な蜘蛛の一部のように感じさせていた。


「人が、ひとーつ、ふたーつ」


 老年のような、子供のような不思議な声が、降ってきた。

 身体は巨大だというのに、声は人のそれと同じ音量と細さ。

 高位の魔獣は、人の言葉を操るという。つまり、この蜘蛛の魔獣はそれだけの実力を持つ、ということだ。


「女は、魔女の匂いがする。男は、魔王の匂いがする」

「……魔王の匂い。どこに匂いが染み付いちゃっているのかな!?」


 どこから匂ってくるんでしょうね、とこんな状況でも苦笑したくなる。

 僕のぼやきに、巨大な蜘蛛はころころころ、と笑った。


「それで。人が何用か。ここが我の巣と知っての侵入か?」

「はい。実は、お願いがあってきました。僕は、千手の蜘蛛の糸が欲しいんです!」

「我の糸?」


 臆することなく要件を口にした僕を見下ろし、巨大な蜘蛛、まさに千手の蜘蛛はまた喉を鳴らして笑った。


「糸を使ってなにをする?」

「ううーん……。わかりません! 魔女さんが、持ってきたらご褒美をくれると言うから」


 正直に行こう。

 こうした魔獣は、人族なんかよりも知性があったりする。嘘を口にすれば、きっとすぐに見破られちゃう。それなら、機嫌も良さそうだし、こちらも素直に動いた方がいい。

 なによりも、文献の通りで温厚そうだから、不誠実な態度であえて怒らせるようなことはするべきじゃない。


「魔女が? 織物でも始めたのかしら。変な趣味」


 どうやら、千手の蜘蛛は魔女さんのことを知っているみたい。ついでに、巨人の魔王のことも。


「蜘蛛さんは、魔女さんたちとどんな関係なんですか?」

「我は、管理者よりこの地を守るように言いつかっている。対価に命を貰う」

「いのち……?」

「違う違う。その想像は違う。魔女の命なんて、狙っていたらこちらが死ぬ。あれはこわーい」

「じゃあ、なんの命?」

「動物の命。植物の命。人の命。魔獣の命」

「もしかして、ご飯?」

「そう、それそれ。対価は命。珍しい命」


 千手の蜘蛛は、禁領の守護者ってことなのかな? 魔女さんや巨人の魔王といった者が絶えず禁領に滞在して管理しているわけじゃない。

 おそらく、管理者不在のときは千手の蜘蛛が侵入者を排除しているのかもね。


 僕とアーダさんが襲われなかったのは、魔女さんと巨人の魔王の匂いがしたからだ。

 というか、禁領の守護者であれば、僕たちがこの地に足をつけた瞬間から、存在を把握していたはず。それでこれまで襲われなかったということは、最初から認められていたということだ。そして、認められているなら無下むげに殺されたりはしないだろう。

 そうとわかり、少しだけ緊張がほぐれた。


「じゃあ、ご飯を提供したら糸を分けてもらえますか?」

「命をくれる? 君の奥にあるふたーつの命は珍しい」

「いやいやいや、竜の王の魂もアレスちゃんの魂もはあげられませんからね!」


 おおっと。僕の内面を簡単に看破されちゃいました。

 胸を撫で下ろしたのも束の間。僕は慌ててアレスちゃんと分離する。そして、アレスちゃんに頼んで、謎の空間から本日の収穫を取り出してもらった。


「命……。死んじゃってますけど、狩ったばかりで新鮮ですよ」

「おおー。お肉がいっぱーい。植物がいっぱーい」


 ぐぐぐっ、と顔を下ろしてきた千手の蜘蛛の迫力に、僕とアレスちゃんとアーダさんは慌てて後退あとじさる。

 千手の蜘蛛は、アレスちゃんが放出した本日の収穫にかぶりつく。

 そして、一瞬で平らげた。


「食べてくれたということは、糸は分けてもらえるのかな!?」

「ううーん。たらなーい」

「えっ!?」


 さあ、もっと出せ。と八つの瞳が赤く光って催促していた。

 ころころころ、と気持ち良さそうに音を発している。

 でも、もうなにも持っていませんよ!

 出ししみなし。アレスちゃんには、今日取れた全ての物を出してもらった。それでも、超巨大な千手の蜘蛛には全く足らなかったらしい。


「珍しいものが食べたい。たくさん食べたーい。ないならやらなーい」

「ううっ……」


 なんということでしょう。

 超巨大な千手の蜘蛛を満足させられる量と質って、どうすればいいんですか……

 僕たちは困って、顔を見合わせた。


「もうない?」

「もう持ってないですよ」

「じゃあ、あげなーい」

「そ、そんなぁ」

「さようなら。また美味しい命を頂戴ね」


 そう言うや否や。

 ぬるり、と闇の奥から極太の蜘蛛の脚が一本だけ現れた。

 とっさに身構える僕たち。

 命の危険は感じなかったけど、嫌な予感がした。


 太い脚の先の凶悪な爪が、なにも無いただの闇の空間に突き刺さる。

 爪は、闇を切り裂いた。


「っ!?」


 切り裂かれた空間の先を見つめ、僕たちは絶句する。

 千手の蜘蛛は暗闇の空間を切り裂くと、次いで指先に僕たちを引っ掛けた。そして、空間の先へと容赦なく放り投げた。


「おかえりなの」

「た、ただいま……」


 空間の先へと放り出された僕とアーダさんとアレスちゃんは、夕方の廃墟の村へと帰ってきていた。

 ミシェイラちゃんが焚き火の前で膝を抱えて、可愛く座って僕たちを見ていた。


 ぞぞぞ、と背後の空間が歪む気配を感じ、みんなで振り返る。

 大地の裂け目の深淵しんえんと廃墟の村を繋げていた空間の亀裂が、元に戻る瞬間だった。


「して、糸は手に入れられたかかえ?」


 夕食の準備をしていた魔女さんの言葉に、僕たちはがっくりと肩を落としたのだった。

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