ある日 森の中

 長く、静かな夜を過ごした。

 ルイララに掴まれて水中を移動していた間は、眠くて眠くて仕方がなかったというのに。

 いざ夜のとばりが下りて、月明かりと焚き木の火だけが浮かぶ闇に身を置くと、眠気が遠のいていく。

 細い枝を炎にべると、ぱちぱち、と弾ける音が耳に心地良い。

 揺れる炎を見ながら、色々と考える。


 そもそも、ギルラードはどうやって竜峰を越えてきたのか。

 魔族は、竜峰を越えられない。昨冬の騒動は、異例中の異例だ。スレイグスタ老の記憶のなかでも、ああした大軍隊が竜峰を越えたことは、これまでなかったという。

 ただし、少数の魔族が竜人族や竜族の目を掻い潜って来たことは多少の例があるらしい。

 ギルラードも、竜峰の監視の隙をついてやって来たのかな?

 間近に迫られるまで、気配を感じることができなかった。レヴァリアや魔獣たちでさえ、追うことができなかった。

 ギルラードは上級魔族で、魔王位を狙うくらいだ。それくらいの能力は持っているのかもしれない。


 そして、ギルラードはグラウスを連れ去る前に、こう言った。


「魔都で待つ」


 あれは、グラウスを助けたかったら魔都まで来い、という意味じゃない。

 ギルラードが言外で言ったこと。それは、どちらが魔王に相応しい実力か、魔都で勝敗をつけよう、ということだ。


 僕は魔王になんてなりたくありません。

 ただし、魔族たちのなかにはそれを理解していない人もいる。

 そして、そんな物騒な魔族たちは、勝手に僕を巻き込んで、魔王位争奪戦を始めちゃっているわけだ。

 ギルラードがあの場で勝負を挑まなかった理由。それは簡単だ。

 あそこで戦って、もし僕を倒したとしても、目立たない。戦うなら、魔族たちの目が多くある魔都で、ということだ。


 ちなみに、ギルラードの言う「魔都」とは、巨人の魔王や他の魔王が支配する国の魔都ではなく、魔王クシャリラが支配していた場所のことだろうね。


 しかし、ギルラードには誤算があった。

 僕だって、家族を狙ったグラウスを、同じ人族だからといって気前よく助けてやるほどお人好しではない。そして、魔王なんてまっぴら御免で、争奪戦に参加する気は毛頭ない。

 つまり、このまま無視してしまえば、ギルラードや魔族たちの思惑に乗らずに済むわけだ。


「騒動は、いずれ収まるよ。ただし、それが何年後なのかは誰もわからない。誰かが手早く魔王位に就けばいいけど、そうじゃない場合は、何年も続くだろうね」


 ルイララは他人事のように、僕にそう言った。

 どうも、ルイララ自身は魔王位に興味はないみたい。

 だから、本当に他人事だ。

 そして、ルイララはこうも言った。


「巻き込まれたくないのなら、騒動が収まるまで禁領に隠れているといい」


 竜峰でもいいんだろうけど、ギルラードのような、巧みに気配を消せる存在に終始警戒し続けなきゃいけない。それを踏まえると、許可無き者は問答無用で排除される禁領が良いということは、僕にもわかる。


「それで、結論は出たかな?」


 気づくと、東の空が明るくなり始めていた。シューラネル大河の水面に、太陽の最初の光が反射し始めていた。


「僕がいない方が、家族のみんなは安全なんだよね……?」

「そうだろうね。なにせ、あの竜姫や竜族たちを相手にしようとは、上級魔族でも普通は思わないよ。僕も、エルネア君の剣で刺されたり斬られたりする分には良いけど、あの鈍器で殴られるのは嫌だな。ただし、そこにエルネア君がいるのなら、あの手この手で今回のようにちょっかいを出してくる者はいるだろうね。昨夜も言ったけど、無難に乗り切りたいのなら、身を隠すのが一番だよ」

「みんな、心配していないかな?」

「それは、ほら。暴君が事情を説明してくれているんじゃない?」


 僕が上級魔族に狙われている。そして、ルイララに拉致された。この辺で、ミストラルたちは事情を察知してくれるかもしれない。

 でも、なにも言わずに出てきたのが心に引っかかっちゃう。


「エルネア君次第だよ。仲間と一緒に魔族とやり合うなら、もとの場所に戻してあげる。隠れるのなら、禁領まで連れて行くし」


 遠く、シューラネル大河の先から太陽が姿を現し始めていた。

 巨大なルイララの姿の背後から光が差して、彼の表情は影になって見えない。そのルイララの声音からは、僕に決断を急かすような雰囲気は感じられなかった。


「僕は……」


 いろんな思いが頭をよぎる。

 なにが正しい答えなのかなんて、わからない。

 わからないから、信じた道を選ぼう。


「ルイララ、僕を禁領に連れて行って」

「お安い御用さ」


 軽い調子で返事をしたルイララは、昨日と同じように僕を両手で捕まえる。そして、水中へと消えた。






 何日間か、ルイララと水中を旅した。

 夜営する時以外は、ルイララは水面に上がることはなくて、僕はずっと彼の大きな手のなかで過ごした。

 シューラネル大河の水は相変わらず濁っていて、せっかくの水中の旅なのに、景色は面白みがない。

 シューラネル大河を下る旅の間、アレスちゃんは顕現してこなかった。

 珍しく、霊樹の木刀の側に気配を感じないことが多かった。

 プリシアちゃんの方に行っているのかな?

 水中にいる間は、顕現してもつまらないと思われちゃったのかも。

 たまに、夜寝て起きると、寝ていた場所の近くに果物やちょっとした料理が置かれていることがあった。食べると、竜人族が好む薄味で素朴な料理だった。美味しさが身体だけじゃなく、心にまで染み渡る。


 料理の他に、身を案じる手紙などが添えられていることはなかった。

 聞かなくてもわかる。確認しなくても、信じている。そういうことだよね。

 僕はみんなを裏切らず、悲しまない結末のために進もう。


 禁領に着いてからのことや、みんなのことを考えながら、ルイララの手に包まれて旅をすること幾日いくにちか。

 気づくと、水質に変化が見て取れるようになってきた。

 シューラネル大河の濁った水とは違う、透明な水がまばらに混じり始めていた。濁った水と透明な水は二層に分離していたり、時には水の流れに揉まれて混じり合ったり。

 これまで代わり映えのしなかった風景だったので、不思議な二種類の水の動きに見入ってしまう。


「そろそろ、海に出るよ」


 ルイララの言葉に、心がおどる。

 僕はとうとう、北の海に到達したんだ。

 すると、この透明な水は海水なのかな?

 水面の波が高くなり、川の流れも複雑になってきたように見える。

 濁った水と透明な水が揺れて混じり合う様子が見えるからね。


 ルイララは気を利かせて、水上に浮かび上がった。僕はルイララに掴まれたまま、水中から抜け出す。


 本日も晴天なり。

 空にはうっすらと雲があるくらい。上空には風がないのか、動きのない雲が空の染みのように点在しながら東へと延びている。

 東は、相変わらず水面と空しか見えない。

 代わりに西側は、豊かな森が広がっていた。とはいっても、陸地まではとても遠い。竜気を宿した瞳だから、遠くに見える緑が森だとわかるくらいだ。


 そして、ルイララが泳いで行く先を見ると、白波の線が幾筋も見えた。


「あれが海?」

「そうだよ」


 と言われても、実感がわかない。

 だって、波が立っているくらいしか区別するものがないんだもん。

 わくわくしていた心が、しゅんとえていく。

 想像していたような開放感や、新世界へ入った喜びが湧いてこない。

 それもこれも、シューラネル大河が大きすぎるからだ!


 何日間も、対岸が見えないほどの川幅の大河を下り、周りには水だらけだった。そのせいで、海と言われても結局は見渡す限りの水面で、感動しなくなっちゃっていました。

 とほほ……

 きっと、レヴァリアの背中に乗って北の地を越えて海に出たら、すごい感動を味わっていたに違いない。

 みんなと北の海に遊びに行くときは、シューラネル大河の旅は辞めておこう。


 ルイララは、僕の一喜一憂いっきいちゆうなんて気にした様子もなく、ずんずんと泳ぐ。

 そして押し寄せる波を割き、西に見える陸地を迂回しながら海へと出た。






「な、なんだこれー!」


 僕は、ルイララに謝らなくてはいけない。

 海への感動。それは、水上にはなかった。

 海の美しさは、水中にあったんだ!


 シューラネル大河の濁った水とは違い、海水はどこまでも透明だった。

 太陽の光を海底深くまで導き、水の下に広がる世界を照らし出す。

 見たこともない色とりどりの魚が群をなして泳ぎ、宝石でできたような木に似た植物が海底から生えている。その植物は、机のように平面に広がったり、枝ばかりを伸ばしていたり。赤や緑や黄色の植物が水中に森を作っていて、その周りに小魚たちが楽園を築いていた。

 時折、僕の数倍はありそうな巨大な魚がのんびりと泳ぐ姿を見かけた。

 多分、ひとりで水の中にいたら恐怖の対象だったかもしれない。でも、僕はもっと恐ろしい者の手のなかにいます。


「エルネア君、海はどうかな?」

「うん。すごいね!」

「それは良かった」


 水の下に、想像以上の世界が広がっていたことに感動しています。

 これなら、ずっと見ていても飽きなんて来ない。


 海に広がる世界のことを、人はどれだけ知っているのかな。

 もしかすると、こうして海中の風景を満喫した人族なんて、僕が初めてかもしれないよ。

 だって、北の海はルイララの親が支配していて、人族どころかルイララ以外の魔族も来られないんだから。

 ああ、大陸の南にも海はあるから、そこに住んでいる人は知っているのかも?

 だけど少なくとも、アームアード王国とヨルテニトス王国のなかでは、僕が初めてだと思う!


 見応みごたえのない風景の旅から一転。ずっと見続けていたいと思える宝石箱のような景色の旅へと変わった。

 数え切れないほどの種類の魚たち。色あざやかな植物。たまに、ゆらゆらと海底から伸びる不気味な海藻かいそうや、巨大だったり獰猛どうもうそうな魚がいたり。

 水が透き通っている分、深く光の届かない深海は恐ろしく感じた。


 そして。

 ルイララの親に会えるかな、という僅かな期待が裏切られつつ、とうとう僕は禁領へとたどり着いた。


「ルイララは上陸しないの?」

「服がないよ」

「ああ、最初にそう言っていたね」

「まあ、服があっても僕は上陸できないけどね」

「ルイララでも禁領には入れない?」

「それだけ閉ざされた場所ということだね」

「それじゃあ、ルイララとはここでお別れなのか……」

「そこは、ほら。心配しないでもいいと思うよ?」


 にっこりと微笑んだルイララに、僕は引きつった笑みを返す。


「禁領には、君の意に反するような魔族はいないと思う。ただし、魔獣や魔物は普通にいるからね。その辺は気をつけて」

「うん、ありがとう」


 ルイララは、僕を白く輝く砂浜へと下ろしてくれた。そして別れを惜しむこともなく、海中へと引き返していった。

 まあ、今生こんじょうの別れでもないし。

 ただ、もうちょっと丁寧にお礼を言いたかったな。

 水面に沈んだルイララの影は、すぐに波に消されて見えなくなった。

 もっと西へ行くと禁領を越えて、支援物資を受け取る港町があるらしい。ルイララはそこから上陸すると言っていたっけ。


 さあて。いよいよ禁領にたどり着きました。

 ここに来るまでに、すでに結構な日数が経っている。

 こういうとき、僕は何日かとか数えないんだよね。ルイセイネにはよく「大雑把おおざっぱすぎですよ」と注意されていたっけ。


 みんなは元気にしているのかな。

 先日の朝届いた支援物資には、とても粉っぽくて塩辛いお菓子が入っていた。あれはきっと、プリシアちゃんの手作りだ。

 お菓子作りをしているということは、きっと平和に過ごしているに違いない。

 早くみんなのところに帰りたいな、と思いつつ、僕は禁領の奥地へと足を向けた。


 禁領に入って最初にしなきゃいけないこと。それは飲み水の確保と、食料の確保だ。

 水は、近くに見える竜峰の麓に行けばさわがいくつもありそう。それなら、優先すべきは今後の食料だね。


 早速さっそく、手付かずの森へと足を向ける。

 気配を探ると、人の気配は全く感じ取れなかった。

 当たり前か……

 代わりに、多くの動物たちの気配を察知する。

 こちらの気配を隠し、慎重に森を進む。

 獣道さえないような深く茂った森。でも、そこは耳長族直伝。木々の枝を空間跳躍で渡り、苦もなく進む。

 進む先に、鹿の親子が居た。見逃そう。獲物は大物じゃなくていい。僕だけがお腹いっぱいになればいいんだからね。

 猪の群や、猿の集団とすれ違う。


 今後のことを考えると、少し多めにお肉を確保して保存食にしたいんだけど。

 残念ながら、詳しい燻製くんせい方法などを僕は知らない。その辺は、これから試行錯誤しなきゃいけないのかも。


 手頃な獲物を探しながら、ずんずんと森を進む。

 目的地はないんだけど、とりあえず南の方角に進む。

 そうして、ルイララに連れてきてもらったときは太陽が高い位置にあったけど、気づくと傾き始めていた。


 おおっと。

 そろそろ本格的に獲物を狙わないとね。日が暮れるまでに夜営地も見つけなくちゃいけないんだった。


 気を取り直して、真剣に獲物を探す。

 すると、手頃なうさぎを発見した。

 狙いを定める。

 空間跳躍で、一気に兎の背後へ。


 弓矢や罠は、僕には必要ない。

 ミストラルと出会った当初。彼女が難なく獲物を仕留める姿に驚愕きょうがくしていたけど。僕も同じようなことができるようになるなんてね。


 素早く兎の耳を掴み、押さえ込む。

 短剣はないので、白剣を使って苦しめずに命を絶つ。そして手早く血と内臓を抜き、皮をいで肉をさばいていった。


「ふうん。可愛い顔をして、慣れた手つきだ。しかも、人族の狩りの仕方ではないね。まるで、身体能力にものをいわせる竜人族のよう。それでいて、獲物の命をとうとぶ気配は、まるで耳長族のようだ」

「……っ!?」


 突然。

 背後から、ではなく耳元から声が聞こえて、慌てて振り返る。

 僕の顔のすぐ真横に、別の顔があった。

 褐色かっしょくの肌。灰色の髪。そして、長い耳。

 ふんふん、と僕が捌いていた兎を見ながら、手をあごに当てて頷く人物は、振り返った僕をちらりと見て、にっこりと微笑んだ。

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