老竜の足音

 青く透きとおった空が、針のように尖った峰々の隙間から顔を覗かせている。上空は強風が吹き荒れているのか、薄い綿布めんぷのような雲が複雑に流れ、千切れて峰の急斜面に当たって霧散していく。

 雲に近い深い森にも時おり冷たい突風が吹き降り、春だというのに山脈の奥から運ばれた、じっとりと重い雪を乱舞させた。

 歩き通して火照ほてった身体に、こごえる風が突き刺さる。

 長年、強風にさらされてきたせいか、木々は斜めに成長し、山岳から断崖へ、断崖から渓谷へと、緑の波が流れを作っていた。

 かたむいた木々のせいで、斜面を下っているのか登っているのか、わからない錯覚さっかくにとらわれる。

 樹齢を重ねた大木にはつたが巻きつき、太い幹にめり込んで宿木を絞め殺そうと魔手を伸ばしている。

 以南の竜峰とはまた違った不気味な森で、道無き道を慎重に進む。


 進んでいると、たまに竜族が通った太い竜道りゅうどうに出ることがあった。だけど、安易に竜道を利用するわけにはいかない。老竜に見つかれば、どのような危険が待っているかわかったものじゃないからね。

 老竜がただの敵、というのなら全力で対処すればいいので、簡単なんだけど。竜の墓所に足を踏み入れた年老いた竜族は、安息の死を求めて竜峰各地からわざわざやって来たんだ。それを邪魔するだけじゃなく、不本意な争いへと巻き込むことは、僕たちも望んでいない。

 だから、竜族とは極力争わない。どうしても避けられない戦いになったとしても、命のやり取りは厳禁だと決めていた。


 深い森に刻まれた太い竜道を横切り、また道のない茂みへと踏み入る。

 背の低い雑草をかき分けて、道を阻む枝木を押し退けて、なるべく痕跡こんせきを残さないように進む。

 獣ではなく、人が恣意的しいてきに作った道は竜族にすぐ暴露ばれてしまう。いくら気配を消し、慎重に進んでも、痕跡を残して進んでいては元も子もないからね。


 プリシアちゃんには歩き辛い険しい山道なので、ミストラルやライラが代わる代わる抱いていた。

 僕はというと、ずっとアレスちゃんを抱いている。

 アレスちゃんは顕現していない方が負担は少ないのでは、なんて思っちゃいけない。

 普通なら足手まといと思われかねないプリシアちゃんとアレスちゃんだけど、実は一番頑張ってくれていた。


 竜族は、人族どころか竜人族よりも優れた種族だ。

 竜姫のミストラルや、完全に気配を消せるライラはともかく、他の僕たちが竜族に見つからないようにするのは、基本的に無理だ。

 そこで、精霊を通して自然を操れるプリシアちゃんとアレスちゃんが活躍することになる。

 プリシアちゃんはアレスちゃんに精霊力を供給し、アレスちゃんがまどわしの精霊術を発動させる。そうして、僕たちの気配を包み込み、竜族の鋭い感覚から存在を消していた。

 精霊術を発動させているのでアレスちゃんは顕現したままだし、精霊力を消費しているプリシアちゃんを歩き疲れさせるわけにはいかない。


 幼女たちに頼りっきり、なんて僕たちは思っていない。

 プリシアちゃんもアレスちゃんも能力は立派な一人前で、他の誰にも真似できない素晴らしいものなんだ。だから感謝こそすれ、幼女たちの能力と自分たちを比べて自らをさげすんだりもしない。

 そして、僕たちには僕たちの役割がある。

 土地は違えど、竜峰という自然を熟知したミストラルが道を選び、ルイセイネが早期哨戒をする。気になるような場所があればライラが気配を消して先行し、ユフィーリアとニーナは野宿用のまきや果実などを、一流の冒険者としての知識をもとに拾いながら歩いていた。

 僕はというと、アレスちゃんへ竜気を送ったり、緊急事態に対応するために英気を養っていた。


 竜の祭壇は、竜の墓所奥深く。死せる火山の山頂にるのだとか。最北端の村跡から北上し続けて、森の木々が生息できないほどの高地。そのさらに先に、万年雪に覆われた不毛の山脈があり、険しい山道を抜けた先に目的地はある。

 進む先を目を細めて見つめたけど、まだそれらしき山脈の影は見当たらなかった。

 あと数日。この深い森を歩き続けなければいけない。


 数少ない手がかりだけど、そのなかに部族長の近縁だったという老婆の話がある。

 なんでも、部族長と選ばれた数人の精鋭が、数十年に一度、竜奉剣をたずさえて竜の墓所へと入っていく儀式があったらしい。

 竜の墓所でなにをしているのか、正確な周期は何十年なのかなどの詳しい情報は得られなかったけど、少なくとも、オルタの部族がなにかしらの役目で竜の墓所へと定期的に入っていたことはわかった。

 きっと、竜の祭壇にたどり着ければ、色々と事情がわかってくるはず。

 僕たちは、ミストラルの竜峰に関する知識とかんを頼りに、竜の祭壇を目指して竜の墓所を進む。


「みなさん、止まってください。先から竜族が来るようです」


 先頭はミストラル。次にプリシアちゃんを抱いたライラとルイセイネが続き、ユフィーリアとニーナがその後ろ。殿しんがりが僕で進んでいると、ルイセイネが警戒の声を発した。

 僕たちは慌てず、近くの茂みに身を隠す。そして、出来る限り気配と息を殺す。

 いくらアレスちゃんが精霊術を使ってくれているとはいっても、間近まで近づかれたら危ない。


 茂みの奥で全員で肩を寄せ合い、小さく丸まって周囲の様子を伺った。


 耳をませると、確かに竜族の重々しい足音が聞こえてきた。少し引きずっているような、それでもお腹に響く足音は、徐々にこちらへと近づいてくる。

 ぐるる、と低い喉鳴りが鬱蒼うっそうとした森に響く。少し警戒したような気配を、僕の竜心は捉えていた。


 まさか、気づかれていないよね?


 地竜らしい。ずしり、ずしりと重々しい足音は、行く手を阻む細い樹木や茂みという障害物を物ともせずに、こちらへとゆっくり近づいてきた。引きずるような音は、地竜の太い尻尾が地面を擦る音だ。


『なんぞ、妙な匂いがする』


 茂みの隙間から、赤黒い鱗の大きな地竜の姿が見えた。

 立派な一角いっかくが鼻先から生えている。鋭い眼光が、周囲を警戒するように光っていた。ひくひく、と大きな鼻腔が動く。


 まさか、匂いで見つかっちゃう!?

 気配を消し、息を潜めていても、匂いは消せない。思わぬ危機に、全員に緊張が走る。

 僕の両脇で身を隠していたユフィーリアとニーナが、怯えたように僕に抱きついてきた。


 ちょっ!?

 両腕が柔らかなお胸様の谷間に埋まった。

 暖かな感触と、少しねた鼓動が伝わってくる。

 押し潰されそうになったニーミアが慌ててユフィーリアの楽園から抜け出してきた。

 両耳に、甘い吐息がかかる。

 ひいぃぃっ。

 悪寒とは違う、妙に全身が興奮しそうな身震いが足の先から頭の天辺へと駆け抜けていった。


 危険です!

 この双子は、危機的状況になにをしているんですか!?

 いや、ユフィーリアもニーナも、無意識なのか。

 表情を見ればわかる。二人とも緊張で顔が強張こわばっている。お胸様を押し付けてきたり、耳元に甘い息を吹きかけているのは意識してやっているんじゃないんだね。

 そう確認すると、少しだけ僕の揺れた気配は落ち着いた。


 だけど、間近に迫った地竜はなにかを感じたのかもしれない。

 周囲を見回していた瞳の動きが止まった。

 そして、全てを射抜くような視線が僕たちの潜む茂みへと向けられる。

 じっ、と茂みを見下ろす地竜。


 普通に見ただけでは、アレスちゃんの精霊術で僕たちの姿は見えない。だけど、対峙するのは老齢な地竜。若輩じゃくはいな竜族よりもさらに研鑽けんさんを積み重ね、研ぎ澄まされた感覚はもはや並みの竜族を軽く上回る。


 茂みの隙間から様子を伺う僕の視線と地竜の視線が重なったような気がして、全身から嫌な汗が噴き出してきた。


 見つかった?

 それとも、たまたま視線が重なっただけ?

 見つかったのなら、いつまでも茂みに隠れている場合じゃない。逃げ出さなければ、恐ろしい威力の竜術が飛んでくるかもしれない。

 でも、もしも見つかっていないのだとしたら。

 無闇に逃げ出せば、それこそ地竜に追われる羽目になる。

 気づいているのか、気づいていないのか。

 緊張しながらも、慎重に地竜の気配を読む。たけど、僕の竜心は老齢な地竜の心を読むことができない。

 警戒しているのか、心に強い防壁を張っているのかもしれない。


 固唾かたずを飲んで茂みの奥に身を隠していると。

 時おり吹く強風が、地竜の背後から僕たちへ向けて駆け抜けていった。

 茂みが激しく揺れる。

 がさがさと細い枝が揺れて、葉が乱れた。


「ふ、ふえぇぇ……」


 揺れた葉がプリシアちゃんの鼻先を擦る。

 そしてあろうことか、それでプリシアちゃんはくしゃみを誘発されそうになった。


 えええっ!

 ここでプリシアちゃんにくしゃみをされたら、完全に見つかってしまう!!

 慌ててプリシアちゃんの口元を押さえるライラ。

 だけど、プリシアちゃんの表情は緩々ゆるゆるになっている。


「はっ……」


 プリシアちゃんの頭が勢いをつけるように、少しだけ後ろに下がる。

 僕たちは顔を引きつらせて見つめるけど、なにもできずにプリシアちゃんの動きの続きを見届けるしかできなかった。


「はっくちん!」

「にゃん!」


 あああっ!

 やはり、幼女の本能を止めることはできなかった。

 小さく可愛いくしゃみをしてしまったプリシアちゃん。

 だけど、それに合わせてユフィーリアのお胸様の上に避難していたニーミアが可愛く鳴いて、茂みから飛び出した。


 僕たちは一瞬の出来事を見守るしかできなかった。


「はっくちん、にゃん!」


 茂みから飛び出したニーミアは、プリシアちゃんの真似をしてくしゃみをする。

 突然、茂みのなかから飛び出してきたニーミアを、恐ろしい眼光で睨み下ろす赤黒い地竜。


「こんにちはにゃん」


 だけど、ニーミアは地竜に見下ろされても平気な様子で、愛らしく挨拶をした。

 地竜は一層低く喉を鳴らす。

 ぐぐっ、と大きく凶暴な顔を地上すれすれまで下ろし、ニーミアを睨む。


『ここは死を前にした竜族が住まう場所だ。古代種の子竜よ。用がなくば早々に立ち去るのだな』

「迷子にゃん。気をつけるにゃん」


 ニーミアはごめんなさい、と鳴いて、気兼きがねなく地竜の一角の上に飛び乗った。


『愛らしい其方に免じて、見逃そう。あまりおいたはするでないぞ』

「ありがとうにゃん」


 一角の先のニーミアを見つめた地竜は、そう言うと、足を来た方角へと向ける。


「さようならにゃん」

『ああ、さようならだ』


 ニーミアは一角の先から地面に降りて、手を振って見送る。

 地竜は大きな身体を転身させると、ゆっくりと離れていった。


 地竜の姿が森の奥へと消え、気配が完全に消えてから、僕たちは茂みの奥から出た。


「ふうう、怖かったね」

「変な汗が出てしまいましたわ」

「あれは、完全に見つかっていましたね」

「そうね。ニーミアのおかげで、見逃してもらえたみたい」

「怖かったわ」

「恐ろしかったわ」


 僕たちは固まった身体を大きな伸びでほぐしながら、深くため息を吐く。


「んんっと、大きかった」

「そうだね。大きくて立派な地竜だったね」


 どうやら、プリシアちゃんだけは地竜を怖がっていなかったみたい。

 さすがは猛獣の女王様です。


「まったく、貴女は……」


 ミストラルは肩を落としてプリシアちゃんを見つめていたけど、誰も彼女をしかることはなかった。

 仕方ないよね。頑張ってもらっているし、幼女を連れて冒険するということは、こういった危惧きぐも抱えなきゃいけないんだよね。


 僕たちは何度か深呼吸をしたあとに、気を取り直してまた竜の墓所を歩き始めた。

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