雲海を超えて
はあ、はあ、と一歩進むごとに息をする。
深く呼吸をしているつもりでも、なぜか息苦しい。
僕だけじゃなく、みんなも少し息苦しそう。
高山に入ってから、体力の消耗が激しくなってきた。それに合わせて、休憩の回数も増えていく。少し進んでは、少し休む。休息と前進を繰り返しながら、それでも着実に目的地へと近づいていた。
竜の墓所に入って三日目。
いよいよ標高は高くなり、霧とも雲ともつかない真っ白な世界を抜けて、
ごつごつとした足場の悪い岩肌。足を滑らせれば、瞬く間に遥か下方の谷底へと消え落ちてしまいそうな場所を、一歩一歩慎重に進んでいく。
振り返ると、雲海から顔を出した鋭い山脈の先端が、水面に浮かぶ島のようにあちらこちらに見えた。
雲海の下は、天気が悪いのかもしれない。竜族の低いうなり声のような雷鳴が、時より足下から響いてきた。
ニーミアやアシェルさんの背中に乗って、幾度となく雲の上を飛んだことがある。
だけどこうして、自らの足で雲海を越え、さらに上を目指すなんて体験はほとんどしたことがない。
というか、最初から最後まで、自力で山を登り下りしたことは、ミストラルの村に滞在していた時から数えてもごく僅かしかないかな。狩りに出たときくらい?
自分の足で歩いてみて、ニーミアの翼がいかに恵まれたものなのかを痛感させられる。
吹き
ライラの引っ付き竜術を展開すれば転げ落ちる危険からは解消されるけど、竜族に見つかるという危険が飛び込んできてしまう。
雲を越えたことで、頭上に目を凝らして飛竜の影を追う必要はなくなったけど、未だに地竜は跋扈している。
昨日なんて、完全に気配を消して岩陰で休んでいた巨大な地竜に気づかずに、大騒動になってしまった。
ミストラルやルイセイネ、アレスちゃんでさえも完全には竜族の存在を捉え切れない。そんな危険な旅を三日間続けてきて、僕たちは結構、
だけど、視線を先に向けると。
緑が消え、白い雪と灰色や黒色の岩の無機質な色だけになった山脈が、これからが本番だと言わんばかりに待ち構えていた。
そして、舞い上げた雪雲を散らせ、強風渦巻く山脈の奥に。
明らかに自然のものとは思えない
遠くからでもわかる。
目を凝らすと、暗黒の雲のなかに青白い雷光を幾筋も確認することができた。
「あれが、竜の祭壇があるという死んだ火山?」
「おそらく、ね。わたしも初めて来るのだし、確証はないわ。到着してみないことには、なんとも。ただ、あの瘴気の雲からして正解じゃないかしら?」
僕たちは足を止めて、向かうべき先を見つめた。
「今日はこの辺りで休みましょう」
ミストラルの指示で、手頃な野営地を探す。
少し先に風をしのげそうな岩陰を見つけて、みんなで準備をする。
周囲から目立たないように岩で囲んだ場所に火を起こし、携帯鍋を設置する。干し肉やわずかな山菜、持ってきた普通のお芋などを入れて、塩などで簡単に味をつける。とうもろこしの粉などに水を含ませ、こねて熱した岩の上に広げて焼く。
旅の途中では、食事に贅沢を言っていられない。お腹が満ちて、明日への活力になればなんでもいい。
だけど、そこはミストラルの村で料理の腕を上げた女性陣。あの手この手で、簡単な食材から美味しい料理を作ってくれる。そのおかげで、プリシアちゃんもわがままを言ったりすることなく、ここまで来ることができた。
たまに、アレスちゃんが謎空間からお菓子を取り出して、ニーミアやプリシアちゃんと分けて食べているのは大目に見よう。
「今夜の見張りは、僕からだね」
ひとりで竜峰に入った十五歳の春。つまり、去年。
見張りを順番でできるから、視界の悪い夜に無理をして歩く必要はない。魔物が出たりしても、十分に対応できる。
竜族は昼も夜も関係なく遭遇することがあるけど、これはもうどうしようもないからね。
手早く食事を済ませて、調理器具を片付けると、女性陣はすぐに眠りについた。
厚手の服を荷物から取り出して、寝冷えしないようにみんなで固まって寝る。
僕も着込んでいた服の
みんなの規則正しい寝息は、背後ですぐに聞こえ始めた。
僕はアレスちゃんを膝の上に乗せて、瞑想しながら見張りをする。
アレスちゃんも随分と消耗している。
そりゃあそうか。僕たちの周囲に惑わしの術を展開するだけとはいっても、それを三日三晩、途切れることなくだもんね。
消耗したアレスちゃんに竜気を送りながら、与えられた時間をしっかりと担当した。
太陽が
平地からでは絶対に見られないような美しい星空が、今にも手の届きそうなくらい近くに見える。
だけど、視線を巡らせると。
星々の
明日は、いよいよあの瘴気の雲のなかへと入るだろうね。
ユフィーリアとニーナが持つ竜奉剣がどのような役目を持っているのか、そして、竜の祭壇ではなにが待ち構えているのか。
竜の墓所の呪いをどうにかするために、僕は最善の努力をしようと思っている。呪いに当てられて腐龍になる竜族がたくさん出現しては困るから、という以前に、年老いた竜たちには余生をゆっくりと過ごしてもらいたいから。
でも。この先に手に負えないような危険があったら。
もしも、家族の誰かひとりにでも危険が迫るようであれば。
僕は竜族の
そう、どんな手段を取ろうとも。
「エルネア、交代よ」
いつの間にか、担当の時間は過ぎていたみたい。本当は僕が起こして交代だったんだけど。ミストラルは自分で起きてきて、僕の代わりに岩陰に座る。
「寝る前にどうぞ」
ミストラルの手には、暖かな湯気を出す器が握られていた。
お礼を言って、口をつける。
アレスちゃんは僕からミストラルの膝の上に移動する。
アレスちゃんは精霊なので、睡眠などは必要ない。こうして見張りをする者の懐に入り、夜通し精霊術を使ってくれている。
見張りの担当者は、抱きついてくるアレスちゃんの温もりで
本当に、幼女たちの頑張りには頭が上がらないよ。
飲み物で体を温めた僕は、遠慮なく寝ることにする。ミストラルが寝ていた場所に潜り込んだ。
右にルイセイネ。左はプリシアちゃんとニーミア。
寝ている人を起こさないように横になり、目を閉じる。
見張りがいるという安心感からか、すぐに寝付くことができた。
夜中、だと思う。
微かな周囲の気配に、素早く
不思議だね。一年前は、アレスちゃんに守ってもらわなきゃ目の前の危機にも気付かなかったというのに、今はこうして、わずかな違和感でも目を覚ますことができるようになっている。
上半身を起こして、見張り番をしていたニーナを確認した。
「妖魔だと思うわ……」
緊張を隠せないニーナの表情。
嫌な気配はするけど目視で確認できていないのか、岩陰から慎重に顔を出し、周囲を見回した。
妖魔の気配に素早く反応したのは、僕や見張り番のニーナだけではなかった。
ミストラル、ルイセイネ、ユフィーリア、ライラの順番で、誰かに起こされることなく目覚めていた。
僕たちは、アレスちゃんの術で姿を
ただし、それが妖魔に通用するのかは不明だ。
だから、全員で警戒する。
ルイセイネは、未だに可愛い寝息を立てているプリシアちゃんを抱き寄せ、ライラとユフィーリアが荷物をまとめる。僕とミストラルは武器を構えて、いざという時に備えた。
『おおぉぉぉ……おぉぉぉ……』
山脈を吹き抜ける突風とは違う、不気味な空気の振動が響いてきた。
ぞわぞわと背中を不愉快に撫でられるような、鳥肌が立つ音。まるで、死霊が生者を呼び寄せているかのような空気の震え。
その音なのか声なのかが耳に届くだけで、白剣と霊樹の木刀を持つ手が震えてくる。
ニーナは耳を塞ぎながら、音の出所を探っていた。
僕とミストラルも前に出て、ニーナに並んで周囲を見回す。
相変わらずの星空と、遠くの瘴気の雲。
僕が寝付く前の景色となんら変わりはない。
ただそこに、不気味な空気の震えだけが山々に
『おおおぉぉぉ……』
『ううぉぉぉぉっ』
『おおぉおおぉぉ……』
木霊する……?
ううん、これは違う!
反響じゃない、複数の声だ!
警戒に身体を強張らせながら見つめる先。
荒れた岩肌を越えて、うにうにと形容しがたい不気味な影が複数体現れた。
地面を
妖魔だ!
しかも、数が多い。
妖魔の大きさは、牛の胴くらい。うねうねと波打ちながら進む体表には、夜にもわかる真っ赤な血管が網の目のように走り、どくりどくり、と不気味に脈打っている。
そして、それが十体以上の群で、気持ちの悪い声のような音を発しながら現れた。
ふいっ、とニーナは現れた妖魔から視線を逸らす。
確かに、見ているだけで気持ちが悪い。でもそれ以上に、妖魔が放つ気配が異様で、女性陣は尻込みしていた。
ここは、僕が出るべきか。
こちらの存在が見つかるかどうかという前に、あんな妖魔が十体以上も周囲にうろうろしていたら、安眠なんてできないからね。
白剣と霊樹の木刀を握り直し、岩陰から飛び出そうとして。
「エルネア君、少し待ってください」
ルイセイネが背後から肩に手を当てて、僕の動きを止めた。
『おおぉぉぉ……』
『うぅぅ……あぁぁ……』
芋虫のような妖魔は、身体全体を波打たせながら山肌を這う。そうしながら、僕たちが身を潜めている岩陰の先で右に左に広がり始めた。
動きが
夜の竜峰を徘徊しているとか、なにかを求めて現れた感じには思えない。
どちらかというと、なにかの危険から必死になって、悲鳴をあげて逃げているような……
そして、ルイセイネが動いたということは、つまり。
ごごご、と山全体を揺らすような地響きがした。そう認識した直後だった。
動き回る妖魔の下の岩場が
耳障りな
岩の剣山を
そこへ、巨大な影が迫る。
夜闇を切り裂く激しい咆哮とともに、地竜が空から降ってきた!
『虫どもめ。静かな月夜を食い散らかして、ただで済むと思うなよ』
なぜ地竜が上空から!? と思う間もなく、地響きをあげて着地した地竜は、自らが生み出した剣山を破壊し、逃げる妖魔に鋭い牙を向ける。
妖魔を
牛の胴と同じくらい大きな妖魔は、呆気にとられる僕たちの前で、地竜により全滅させられた。
地竜の巨大な口や
地竜は
地竜の全身を蒸気のような濃い竜気が覆う。
可視化した竜気は蒸発しながら、身体にまとわりついた妖魔の体液を剥ぎ取っていった。
妖魔といえば、魔物や魔獣以上に危険な存在。それを十体以上も相手取り、一方的に全滅させる地竜に
僕もやる気だったけど、きっと楽勝とはいかなかったはずだ。場合によっては、ミストラルの参戦もあったかもしれない。
それを、一方的に。
さすがは老年の地竜です。
それで、なぜ上空から?
地竜は、もちろん飛べない。飛べたとしても、雲の上には出られない。
もしかして、桁違いの竜気に任せて山の下から跳躍してきたのかな?
なんて
妖魔の
『今夜は随分と騒がしい。それで、なぜ貴様らのような
ああ、見つかってる。
地竜は岩陰に潜む僕たちを、頭上から睨み
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