感染 侵食

「ミストラル!」


 耳長族の村の入り口付近で倒れているミストラルに駆け寄り、抱きかかえる。


「うう……」


 微かに、ミストラルの唇から苦悶くもん吐息といきれた。だけど苦しそうに胸は上下し、薄っすらとだけ開いた眼の焦点は合っていない。虚空こくうを見つめるようなうつろな瞳で、抱きかかえた僕を見ようとし、声に反応して手を動かそうとする。だけど、力なく落ちた手のひらから、小さなさかずきが落ちた。


「いったい、どうしたの!?」


 ミストラルが倒れている状況なんて、想像もできない。誰よりも強く、誰よりも注意深い彼女が倒された状況に困惑し、狼狽うろたえる。

 いったい、ミストラルの身になにが起きたのか。耳長族の村でなにが起きているのか。


 ミストラルを強く抱きしめたまま、耳長族の村の奥の様子を注意深く探る。


 普段は日没と共に眠りにつく耳長族の村には、喧騒けんそうが満ちていた。

 時折聞こえてくる誰かの叫び。幾つもの足が地面を踏みしめる響きが、僕のところにまで届く。村の奥、おそらく中央の広場あたりからは光が漏れ、精霊たちが飛び交う気配を受け取る。


「エルネア……。にげ……て……」

「ミストラル、いったいなにが起きたの? 大丈夫!?」


 かすかに意識はあるらしいミストラルが警告を発する。だけど、体を動かすだけの体力はなく、力なく僕に体重を預けるミストラル。


 なにが起きているのかわからないけど、ここは一旦撤退したほうが良いのだろうか。ミストラルでさえ手に負えないようなことが起きている。苔の広場に戻り、スレイグスタ老の指示をあおいだほうが良いのかもしれない。場合によっては、みんなの力が必要になるかも。


 ミストラルを抱きかかえたまま立ち上がろうとして。

 村の奥から何者かがこちらに駆け寄ってくる気配に、身体を強張こわばらせた。


「ミストラル!」


 本物の空間跳躍を駆使し、一瞬で僕の目の前に現れた女性。それは、プリシアちゃんのお母さんだった。


「いったい、なにが起きたんですか!?」

「あら、エルネア。こんな時間にどうしたの?」


 いえいえ、質問をしているのは僕の方です。


 僕とは違い、緊張感のないプリシアちゃんのお母さんに、違和感を覚える。


 僕を見て、僕の腕のなかでぐったりとしているミストラルを次に見て、小首を傾げるプリシアちゃんのお母さん。栗色くりいろの豊かな長髪がふわりと揺れて美しい。


「おじいちゃんに言われてここに来たら、ミストラルが倒れていたんです。彼女の身にいったいなにが?」

「ああ、それは……」


 表情を曇らせるプリシアちゃんのお母さん。

 そして、手にしていた器を僕に差し出してきた。


「これをミストラルに飲ませてあげなさい」


 器を受け取り、中身を確認する。

 ただの水?


 疑問を浮かべつつも、言われた通りにミストラルに飲ませようと、口元に器を近づける。微かに開いた口腔こうくうに少しだけ水を流し込むと、ミストラルはこくんと飲んでくれた。


「うちの馬鹿者たちがねえ……」


 ミストラルにゆっくりと水を飲ませる僕の様子を伺いながら、プリシアちゃんのお母さんがことの事情を説明してくれた。


「ミストラルは、プリシアが今年も村で年越しをしないと、わさわざびに来てくれたのよ。そうしたら、じいさんたちが無理やりこの子にお酒を飲ませてね。霊樹のしずく醸造じょうぞうしたもので、酒精しゅせいがとても強かったのね。酔っ払っちゃって……」

「えええっ! じゃあ、ミストラルは酔っ払っているだけ?」

「だけ、とは可哀想よ。ミストラルはお酒には弱いのだから」

「そうなんですね」


 知らなかったよ。というか、今までミストラルがお酒を口にしているところなんて、そういえば見たことがない。


 プリシアちゃんのお母さんに言われて、もう一度改めてミストラルを見てみる。

 高揚こうようした顔。とろんとなまめかしい瞳。少しだけ乱れた吐息といき

 焦らずに確認すれば、ミストラルの全身には負傷したような傷はない。そして、地面に落ちた小さな杯。

 お酒が入っていたのかな?


 耳長族の村の騒ぎも、冷静に探れば戦意などはなく、お祭りの騒がしさだ。年越しだし、珍しく夜通しのお祭りなんだね。


「良かったぁ……。すごく焦っちゃった」


 ミストラルの安否がわかって、全身から一気に緊張が抜け落ちる。

 ミストラルを抱きかかえたまま、僕は地面に座り込んだ。


「ミストラルは酔いながらも、帰らなきゃってここまで逃げてきて、力尽きたのね」

「逃げてきたって……。つまり、飲まされ続けていたんですね」

「ごめんなさいねえ。じいさんたちは厳しくしかっておくわ」


 ミストラルさえも翻弄ほんろうする耳長族のご老人集団。恐るべし!


「エルネアが来てくれたことだし、ミストラルは任せても良いかしら?」

「はい。でも、連れて帰っていいんですか?」

「あら、どうして質問なのかしらね?」

「だって、プリシアちゃんのお詫びで来たんですよね? 僕も一応顔を出さなくていいのかな?」

「ふふふ、子供が気を回しすぎないの。プリシアのことは、むしろこちらが謝りたいくらいよ。今年もあの子をよろしくね」

「ああ、そうでした。もう年を越しちゃったんですよね。こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします」

「ふふふ。きちんとした挨拶はまた今度、全員で来てからユーリィおばあちゃんにね」

「はい。それじゃあ……」


 ミストラルの無事を確認し、保護することができた。プリシアちゃんのお母さんにも挨拶ができたし、お暇乞いとまごいも済んだ。

 それじゃあ帰ろう、とミストラルを抱きかかえたまま立ち上がったとき。


「わっはっはー! ミストラルちゃん、逃がさんぞぉー」


 酔っ払いが襲ってきた!


「エルネア、ここは任せて早く行きなさい!」

「はいっ、あとはよろしくお願いします!」


 酔いどれじいさんから逃げるように、僕はミストラルをお姫様抱っこしたまま、空間跳躍で耳長族の村を後にした。


 連続の空間跳躍で、一気に距離を稼ぐ。焦りのない今、空間跳躍は最大飛距離で深く広い竜の森を短縮する。

 背後から迫る気配がないことを知りつつも、空間跳躍を続ける。


 耳長族の村の結界を抜け、真夜中の竜の森を駆け抜ける。そうすれば、苔の広場にたどり着けるかは運次第。


 ああ、でもね。


 せっかくミストラルと二人っきり。

 すぐに苔の広場に戻っちゃあ、もったいないかな。なんて思って、足を止める。

 そして、落とさないようにしっかりと抱きしめていたミストラルを抱え直す。

 ミストラルは、わずかな力で僕の肩に腕を回していた。


 僕の両腕全体に伝わるミストラルの柔らかな感触。細っそりとした身体の抱き心地に、ミストラルは女性なんだよね、と強く意識してしまう。

 僕の肩に寄りかかるミストラルの顔。頬同士が触れ合いそうな距離。銀に近い金色の美しい髪が揺れている。薄く柔らかそうな唇から漏れる吐息と、延びた首筋が艶かしい。


 普段は滅多にお目にかかれない少し乱れたミストラルの吐く息が僕の肌に触れる。

 冬の無慈悲な冷たい風ではなく、心情を沸き立たせる暖かい空気の流れ。


 そして、ちょっぴりお酒の香り。


「エルネア、ごめんなさい……」

「大丈夫?」


 ミストラルは僕に全身を預けたまま、少しだけ顔をこちらに向けた。僕も振り返れば、唇が触れ合いそう。


「霊樹の雫をもらったから、大分良くなったわ。迷惑をかけてしまったわね」

「ううん、僕はむしろ役得やくとくを感じているよ。ミストラルの酔った姿なんて、滅多にお目にかかれないからね」

「もう……」


 少しだけ頬を膨らませて、僕の冗談に抗議の意思を示すミストラル。だけど瞳はとろんとしたままで、その表情は愛らしく見える。

 普段はなかなか見せてくれない甘えた雰囲気に、可愛いと思ってしまう。


「ミストラルはいつでも完璧って思っちゃうから、こうして違う一面を見れて僕は嬉しいよ」

「お馬鹿。わたしの醜態しゅうたいで喜ばないで。それに、わたしは完璧なんかじゃないわ」

「うん。そうだよね」


 強く、美しく、なんでもできて、気配りもばっちり。そんなミストラルだけど、スレイグスタ老にはいつもからかわれているし、耳長族の老人会にはもてあそばれちゃう。


「僕も今回の試練は完璧に終わらせたわけじゃないし。ミストラルにだって、こうして弱かったりうっかりだったり、駄目だったりすることもあるんだよね」

「うん」

「僕たちはミストラルを勝手に完璧って思って、そう接しちゃう。それって負担になっているのかな?」

「ううん? エルネアはなにを言っているのかしら?」

「ふと思っちゃったんだ。ミストラルだけになんでも押し付けちゃっていないかなって」

「ふふふ、なにを言っているのかしら。ルイセイネたちには翁のお世話をお願いすることもあるし、わたしだってみんなを頼っているわ。お互い様。負担なんて思っていないし、押し付けられていると思ったこともないわよ」

「そうなんだ。良かった」

「でも、急にどうしたの?」


 ミストラルをお姫様抱っこしたまま、竜の森をゆっくりと進む。

 竜気で強化しているからね。元々軽いミストラルを抱えて歩くなんて余裕だよ。

 僕はミストラルの温もりと柔らかさを感じながら言葉を続けた。


「僕って結局、強くなったのかな? ミストラルとの最初の約束。結婚する前にれさせると誓ったけど、僕って未だに頼りないよね……。ミストラルのことを勝手に完璧だと思っちゃって、弱い部分に目が向いていなかったり。模擬戦だって、未だに勝てたことないし。頼ってばかりで、惚れさせるには程遠いよね……」


 なんでだろう。僕はミストラルになにを言っているんだ。

 ほわっとした頭の回転を制御できなくて、思ったことがぽろぽろと口から漏れる。

 こんな馬鹿らしいことを口にすること自体、弱々しくて駄目な男の証拠だよ。


 僕のくだらない言葉を黙って聞いていたミストラルが口元をほころばせた。


「エルネアも酔ってる?」

「えっ!?」


 僕は一滴もお酒なんて飲んでないですよ。

 酒気を感じるのは唯一、ミストラルの吐息だけですが……


 はっ!


 ま、まさか。

 ミストラルの吐息だけで僕は酔ったというのか?

 いやいやいや、そんなことあるわけないでしょう。


 でも、なぜか変な気分。

 ふわふわとしたような、ふらふらとしたような。気のせいかな。視界も少しだけ揺れている。


「試練の間は、ちゃんとご飯は食べられていた?」

「ううん、もっぱら霊樹の果実とお芋くらいかな?」

「大変だった?」

「うん。毎日、竜気が枯れるまで頑張ったよ」

「ふふふ……。それじゃあ衰弱中じゃないかしら?」


 ああ、そうかも。

 毎日限界まで頑張ったあとに、ミストラルの危機かもって慌てて飛んできたんだよね。全力で空間跳躍を駆使して。

 そこへ、ミストラルの酒気を帯びた甘い吐息。

 それで僕も酔いやすくなって、酔っ払っちゃったのかな?


 歩いていたら、竜の森では珍しい開けた場所に出た。

 ここは、耳長族や竜人族や魔獣たち、みんなでお祭りをするために作った広場だね。

 ちゃんと、スレイグスタ老の許可を得ている。だから、スレイグスタ老やアシェルさんが来てもいいくらいの広い空間になっていた。


 できたばかりの広場を進む。


 ああ、今晩は満月だったんだね。

 全然気づかなかったよ。

 今更、空の明るさに気づく。


 僕もどうやら少しだけ酔っ払っているらしいし、ちょっと休憩。

 ミストラルを下ろして、僕も座る。

 横に座ったミストラルが、僕にもたれかかってきた。


「頼ってちょうだい。みんな、貴方に頼られた方が嬉しいのよ」

「えええっ、なんで?」

「ふふふ、それを貴方が知る必要はないわ」

「なぜだ……」

「いっぱい甘えればいいじゃない。貴方の心配は杞憂きゆうよ」

「でも、僕は頼られる男になりたいんだ。そうしないと、惚れてもらえないよ」

「誰に?」

「……ミストラルに」


 口にするのが、ちょっとだけ恥ずかしい。

 照れた僕を、もたれかかったまま見つめるミストラル。

 少しだけ酔いが戻り始めているのかな。口調がしっかりと戻り始めている。だけど、瞳は未だにとろけたまま。


 ミストラルはとろんとした瞳で僕を見つめ。


「いまでも十分、頼りにしているわ」

「本当?」

「ほんとう」

「本当の本当?」

「本当の本当よ」


 見つめ合う僕とミストラル。


「好きよ」


 そう呟いて、ミストラルは瞳を閉じた。

 僕は惹き寄せるようにミストラルを抱き寄せ。

 そして、そっと唇を触れ合わせた。

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