魔獣と鬼ごっこ
夜更かししすぎたせいか、ミストラルに揺すり起こされるまで僕は熟睡していた。
ミストラルはすでに朝の支度が済んでいるようで、もそもそと布団から這い出た僕の支度を手伝ってくれる。
寝癖を丁寧に解いてくれて、濡れた布を手渡してくれる。外の井戸場に行く必要はないみたい。濡れた布は程よい冷たさで、顔を拭くとすっきりと眠気が飛んだ。
「おはよう」
「おはよう。ぐっすり寝れたかしら」
「うん、僕は寝れたよ。ミストラルは?」
「わたしもちゃんと寝れたわよ」
「それはよかった」
僕の支度が終わると、二人で部屋から出る。
居間ではすでに、アスクレスさんが寛いでいた。
「やあ、婿殿。おはよう」
「おはようございます」
ミストラルは朝食の準備があるからと、そのまま家から出て行く。
手持ち無沙汰になった僕は、居間でアスクレスさんと寛ぐことにした。
「ミストラルをよろしく頼むよ。あれでも、大切な娘なんだ」
「はい。絶対に幸せにしてみせます」
「うん、信頼しているよ」
ミストラルは美人で器量も良く、何をさせても完璧なんだけど、父親として、娘のことが本当に気がかりなんだろうね。
アスクレスさんを安心させるように、強く僕は頷く。
その後、呼びに来たコーネリアさんと共に家から出て、村のみんなで朝食を摂る。
またみんなに冷やかされるかな、と戦々恐々だったけど、ザンが先んじて男性陣を黙らせていたみたい。
何をしたか。男性陣のぐったりとした様子を見れば、すぐにわかる。早朝から過酷な訓練を課したんですね。
よほど厳しかったのか、男性諸君は全員の顔色が悪く、食事中にうっ、と嗚咽する人までいた。
いったいどんな訓練をしたんですか!
男性陣は元気なく、でも食べないと今日を乗り切れない、といった切羽詰まった様子で食事を摂っていて、僕に絡む余裕はなさそうだ。
そして、無事に朝食を摂り終えた僕は、後片付けの終わったミストラルと共に二人で苔の広場に飛んだ。
朝の清々しい日差しが厚い霊樹の枝葉の天井の隙間から零れ落ち、いつもにも増して幻想的な雰囲気を作っている。
「おはようございます、おじいちゃん」
「翁、おはようございます」
「うむ、おはよう」
スレイグスタ老は瞳を閉じたまま、僕たちに挨拶をする。
スレイグスタ老の目覚めは、ミストラルの毛繕いから。髭や手首や足首に生えた漆黒の体毛をミストラルが手櫛で解くと、スレイグスタ老はそれでようやく、眼を開ける。これは何百年も続く、朝の日課なんだとか。
ミストラルは早速、スレイグスタ老のお世話を開始する。
さて、僕は何から始めようかな。
早朝のため、まだ苔の広場にルイセイネたちは来ていない。
耳長族の朝も早いけど、ここに来るまでにはさすがに、もう少し時間がかかると思う。
僕は万年緑を湛える苔の上に座ると、まずは瞑想をする。
深く、深く。
意識を竜脈に沈めるくらい深く、瞑想する。そして汲み取った竜脈を、霊樹の幼木と精霊のアレスちゃんへ。
アレスちゃんは当初、霊樹の幼木から間接的に僕の竜気を貰っていた。だけど、今では直接受け取っている。
霊樹の幼木とアレスちゃんから喜びの気配が伝わってきて、僕も嬉しくなる。
気のせいかな。最近、アレスちゃんの気配が増したような気がするんだけど。
瞑想が終わると、次は竜剣舞の型の練習。相変わらず厳しい指摘がスレイグスタ老から飛ぶけど、昔ほどではなくなってきている。
僕は確かに成長できているんだ。少しずつだけどね。
そして型の練習が終わっても、ルイセイネたちはまだ苔の広場には到着していなかった。
きっと、プリシアちゃんが寝坊したに違いない。久々の我が家で、ぐっすり寝たんだろうね。
ミストラルも、まだスレイグスタ老のお世話が終わっていないみたいで、忙しそう。
それじやあ、何をしようかな、と思っていると、スレイグスタ老が次なる課題を出してきた。
「汝はこれより、森で魔獣たちと
「どういうこと?」
「行けばわかる」
僕の質問には答えてくれず、スレイグスタ老はそれだけを言うと、瞳を閉じた。
こういう時は、追求しても無駄なんだよね。仕方なく、僕は苔の広場から古木の森へと足を踏み入れる。
「油断するべからず」
出かける間際、スレイグスタ老は僕の背中に言葉を投げた。気になって振り返ったけど、スレイグスタ老は瞳を閉じたまま。
何だろう、と気になったまま、僕は前を向きなおす。
竜の森の魔獣とは、随分と打ち解けていると思う。僕たちを見かけるとすり寄ってくるし、背中にも気軽に乗せてくれる。
僕たちだけでなく、森にも危害を加える雰囲気は一切ない魔獣を見ていて、彼らは本当に知的で賢いんだな、とよく思う。
その魔獣たちと戯れてこい、と言いつつ、なぜか油断はするな、と矛盾めいたことを言う。
ただ遊んでこいなんて、今更スレイグスタ老が言うはずはないよね。きっと修行の一環に違いない。僕はそう結論付けると、油断なく古木の森を進む。そして、気づけば竜の森を彷徨い歩いていた。
「よし、油断大敵!」
と言ってるそばから、背後に魔獣の気配を感じる。
振り返ると、大狼魔獣が大口を開けて迫ってきていた。
「うわっ」
横に跳び、慌てて回避する。しかしそこに、巨大兎魔獣が突進してくる。
「こ、これはっ」
空間跳躍で逃げた先に、大蛇の魔獣が待ち構えていた。危うく足を巻き取られそうになり、もう一度空間跳躍をして、木の上へ避難する。
だけどそんな僕の頭に、べちゃり、と気持ちの悪いものが降ってきた。
手を伸ばし、頭の上に落ちた不愉快なものを触って確かめる。
鳥の魔獣の
とほほ。いくらなんでも、これは酷いよ。
スレイグスタ老の意図は、今の魔獣たちの動きだけですぐにわかった。
つまり、複数を相手取った時の対処方法と、不意打ちに対する反応の強化が目的に違いないね。
魔獣たちは、先制の不意打ちと巧みな連携を見せた後は、すぐに竜脈に遁甲してしまって気配を消している。
きっとまた、様子を伺いながら襲ってくるんだろうね。
スレイグスタ老はいつの間に、魔獣たちに僕の修行に付き合うように言ったんだろう?
頭の糞を水筒の水で洗い流し終えると、再び歩き出す。
不意打ちを警戒しながら歩くのは、竜峰で慣れている。油断しなければ、きっともう無様に糞なんてもらわない。
なんて甘い考えは、その後あっさりと打ち砕かれた。
スレイグスタ老は「魔獣たちと戯れろ」と言ったんだ。決して、逃げ回れ、とは言わなかった。
その証拠に、よたよたと僕の前に可愛らしく歩いてきた子鹿の魔獣の小さな
「エルネア君へ。子鹿ちゃんを捕まえること。捕まえるまでは、帰ってきてはいけません」
という、ルイセイネの筆跡の羊皮紙が刺さっていた。
ぐぬぬ。もしかして、ルイセイネたちが遅れていたのは、魔獣たちにスレイグスタ老の言葉を伝えるためと、この張り紙を子鹿の角に刺すためだったんじゃないだろうか。
子鹿の魔獣は、僕にこれ見よがしに羊皮紙を見せつけると、軽い足取りで森の中を駆け出した。
逃がすものか!
僕は最初から全力で、子鹿を追う。鬼ごっこで、追いかけるのは得意なんだ。魔獣とはいえ、子鹿に遅れはとらないよ。
空間跳躍を駆使し、僕は一瞬で子鹿に迫る。子鹿は慌てて逃げようとするけど、遅い。
手を伸ばす僕。
しかし後少し、というところで、お尻に激痛が走る。
「痛いっ」
飛び上がってお尻を押さえる僕。振り返ると、親の鹿魔獣が僕を睨み、鋭い角をぶんぶんと振り回していた。
「娘に手を出す奴は、許さん!」
そんな言葉が聞こえてきそうな気迫です。
追う立場から一転、逃げる立場へ。角を振り回して追いかけてくる親鹿から、僕は必死に逃げる。
意識が鹿魔獣に移っていたのが不味かった。突然、ばしりっ、と叩かれて僕は吹き飛ぶ。
見れば、巨大兎魔獣が長い耳を振り回して、僕に勝ち誇ったような視線を向けていた。
どんなに巨体でも、遁甲すると完全に姿は見えなくなる。それでも、すぐ間近で竜脈から
子鹿だけは遁甲せずに、森の中をぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げ回る。子鹿からしたら、鬼ごっこみたいなものなんだろうね。楽しそうな雰囲気が、こちらにまで伝わってくる。
でも、僕は必死です!
子鹿の動きを読みつつ、追いかける。しかし魔獣たちが邪魔をする。体当たりなんて可愛い方だ。一瞬でも気を抜くと、がぶり、と噛みつかれる場面も少なくない。
魔獣の術も、もちろん飛んでくる。空間跳躍で飛んだ先の地面が滑りやすくなっていたり、
連携をするんじゃなくて、される立場がこんなにも厳しいとは。改めて、連携の重要性を思い知らされた。
でも、感心ばかりしている場合じゃない。
どうにかして魔獣の連携を断ち切らないと、いつまで経っても子鹿は捕まえられない。
逃げてばかり、回避してばかりでは駄目だ。
大きい回避行動をとれば、人よりも何倍も素早く賢い魔獣に、簡単に動きを読まれてしまう。最小限の動きで回避し、反撃に転じなければ!
子鹿以外の魔獣が、一旦消える。
次に姿を現す時は、必ず不意をついてくる。
全神経を、森に張り巡らせる。
警戒して視線を走らせた先の地表から、ぬるり、と大狼魔獣が姿を現した。
無音で僕に向かい迫る。
と見せかけて、背後から忍び寄る気配。
僕は大狼魔獣の罠に掛かった振りをして後方に跳躍しつつ、背後の巨大兎魔獣に迫る。そして兎魔獣の突進に身体をぶつけそうになった瞬間を狙い、空間跳躍で一気に兎魔獣の背後に回り込んだ。
竜気を溜め、目一杯の力で兎魔獣の巨体を押す。突進し始めていた兎魔獣は、僕の全力の押しの威力も合わさり、物凄い勢いで大狼魔獣に向かって飛んでいく。
慌てる大狼魔獣と兎魔獣。そして僕は、兎魔獣の巨体で子鹿の死角に入ったことを見て取ると、一瞬のうちに子鹿の脇に飛んだ。
手の届く範囲に、子鹿がいる。だけど僕の手は、子鹿には届かなかった。
猛烈な勢いで、親鹿が地表から跳ね現れて、僕と子鹿の間に強引に割り込む。僕はすぐさま子鹿を諦め、後方に跳躍する。
足元に、嫌な気配を感じた。
大蛇が術で木の根に変化していて、待ち構えていた。意識が足元に移った瞬間、上空から大鳥が迫る。
足元の大蛇を蹴り飛ばし、真上に跳躍して、僕の方が逆に大鳥に迫る。僕の動きを予想していなかったのか、急上昇で逃げる大鳥。
僕の目的は大鳥ではないので、逃げた大鳥には目もくれない。眼下に見下ろす子鹿を、どうやって捕まえようか、と降下しながら考えた。
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