霊樹の庭
創造の女神様はひとつの大きな大陸を創りました。大陸には多くの種族が生まれ、繁栄しました。数限り無い種族には、二つずつの真理が与えられました。人族には「希望」と「奇跡」。女神様は、人族に希望を持ち、奇跡を信じなさいと教えました。
そして僕はいま、希望と奇跡を心から願うのです。
「ああああぁぁぁっ! たすけてぇぇぇっ!」
僕は灰色の巨大な狼に似た魔獣に追われ、必死に竜の森を逃げ回っていた。
巨竜に会った翌日。約束通り巨竜の元へ向かうために、僕は竜の森に入ったんだ。入って適当に歩いていれば、あの不思議な苔の広場にたどり着くと教えられたから。
でも、森に入って早々に魔獣と出くわし、今に至る。
考えてみるべきだった。前日僕は、竜の森で魔獣に襲われたんだ。こいつがまだ森の中にいるかもしれないってことは、冷静に考えればわかることじゃないか。
竜の森で魔獣が出たなんて話しは今日の昼まで誰からも噂を聞かなかったし、もちろん魔獣を討伐したなんて新聞も出ていなかった。
でも僕は昨日遭遇したし、今も襲われている。
これじゃあ苔の広場にたどり着く前に、魔獣に殺されちゃうよっ!
昨日に続き、必死に逃げる僕。
整備されてなんかいない荒れた森の大地を、無我夢中で駆ける。
魔獣は足音をさせないけど、気配で追ってきているのはわかっていた。
立ち止まれば殺される。やつが飽きても、一気に迫られて食い殺されるだろう。一定の距離で追いかけて、僕を
でも今は逃げるしかない。逃げなきゃ、その場でその瞬間、殺されてしまう。
ああ、創造の女神様。
僕はきっと逃げ切れると希望を持ち、気づいたら苔の広場でした、という奇跡を信じます。
だから助けて!
というか、なんで女神様は危険な魔獣とかも生み出しちゃったんですか! こんなやつとか魔族とか神族なんかがいるから、人族は虐げられて、いつも命の危険に晒されているんじゃないか。
女神様に悪態をついたせいか、僕は木の根に足をとられて盛大に転けた。
昨日のように崖の縁なんかではなく、樹の幹の根本に倒れ込む。
膝をしたたかに打ち付け、苦痛に顔を歪ませた。
そして振り返ると、巨大な灰色の狼魔獣はにんまりと不気味な笑顔を見せて、ゆっくりと僕に近づいてきていた。
逃げなきゃ。
立ち上がろうとするけど、膝が笑って四つん這いになってしまう。
大狼魔獣は僕に追い付き、巨大な前肢を振り上げ。
そして、振り下ろした。
僕はとっさに両手で顔を多い、目を固く閉じる。
死んでしまう!
固く強張った全身。顔を覆う両手。強く閉じられた瞳。
もう駄目だ、そう思って。
そのまま時が流れて。
あれれ、何も起きない。
僕は恐る恐る、瞳を開けた。
両手の隙間から、美しい緑色の世界が見えた。
地面一杯に広がる緑の絨毯。ずっと先には古木の林立する深い森。
そして、緑の絨毯の広場の中央には、黒い小山がひとつ。
気づけば、先日の場所に居た。
小山、もとい巨大な竜が、黄金の瞳で静かに僕を見ていた。
相変わらずの艶やかな鱗、漆黒の体毛、長い尻尾。
昨日家に帰り、今日の午前中は学校で。実は昨日のことは夢だったんじゃないかと思ったけど。目の前に広がる光景を見て、僕はやっぱり現実なんだと再確認をした。
「痛たたたっ」
僕は擦りむいた膝をさすりながら、巨竜の元へと歩いていく。
「昨日に続き、今日も怪我をしているのう。元気なことだ」
巨竜は言って、瞳を細める。
僕をみて面白いやつだとか思ってるに違いない。
「くくく。ほれ、そこの壷に入ったもので、怪我を治すがいい」
巨竜が視線で指す先には、ひとつの
これはどうしたんだろう。昨日の苔の広場には、巨竜以外は何者も居なく、なにも無かったのに。
僕が小首を傾げていると、巨竜が補足してくれた。
「汝は昨日、森に薪を拾いに来たのであろう。我の相手をする礼に、薪集め程度は代行してやる。その代わり、時間いっぱい楽しませよ」
帰るのも空間転移術で一瞬だし、できる限り長い時間ここで巨竜の相手をしなさいってことか。
僕は納得する。
僕は荷物の場所までたどり着く。
壺の中身で傷を治せ、ということで、僕は少し嫌な予感がしていた。
壺の中には、透明な粘度の高い液体が入っていた。
こ、これはまさか。
「我が鼻水は万能なり」
言って巨竜は大笑いをする。笑う度に周りの古木が共鳴して震えていた。
汚いけど万能だから、さあさあ使えって事だよね。汚いって自覚はあって、それでも治すのに仕方ないから使うしかない僕を見て面白がってるに違いない。
「遠慮するでない」
遠慮しているんじゃなくて、躊躇ってるんだよ。
僕は嫌々壷に片手を突っ込んで、鼻水、もとい万能液を取り、膝の傷口に塗った。
使わなければいい、という選択肢はないんだよね。だって、親切心を拒否して巨竜の機嫌を損ねたら終わりだもの。
鼻水万能薬は、上質な軟膏のような塗り心地だった。でもやっぱり性能は凄くて、塗った先から擦り傷が消えていった。
「あ、ありがとうございます」
僕はひきつった笑顔でお礼を言う。
「その程度、気にするでない。気に入ったなら、特別に持って帰ることを許そう」
優しいのか嫌がらせなのわからないけど、少なくとも巨竜は僕に不快感は持っていないらしい。
「治ったなら、我が前へ来るがよい」
促され、僕は寝そべる巨竜の顔の前へと素直に向かう。
小山のような巨体の竜は、近くで冷静に見れば、とても威厳のある顔立ちをしていた。大きな大きな頭部。口を開ければ人族どころか巨人族さえもひと呑みにしてしまいそう。鱗のない部分の肌も黒。漆黒の髭は美しく長い。
そして、黄金色に輝く竜の瞳は叡知を湛え美しく、見る者を引き込ませる。
「さあ、楽しむ前に、お互いに自己紹介をしようではないか。いつまでも巨竜とだけ思われてもこそばゆい」
巨竜は前日の威厳さを隠した、好好爺的な声音で僕に語りかけた。
「ふむ、先ずは我から言おうかの。我は霊樹を二千年間守護せし竜。名をスレイグスタという。幾万もの神族を打ち倒し、計り知れぬ数の魔族を滅ぼした古の竜なり」
霊樹とは、苔の広場の天井に枝木の傘を作り、ずっと先に幹が見える超巨大樹のことだろうね。
スレイグスタと名乗った古代竜は、あの霊樹とこの森をずっと守り続けてきたんだ。
あの霊樹と呼ばれる巨樹は何なのだろう。あと、二千年間護ってきたって言ったけど、それが竜の感覚で長いのか短いのかわからないや。人族で考えれば、二千年なんて歴史書もまともに残らないんじゃないかってくらい悠久に感じる時間だけど、人族なんかよりもずっと長命な竜族だと、ほんの一瞬なんだろうか。
人の寿命は平均五十年くらい。確か、巨人族で百年程度。魔族や神族が五百年。耳長族でも千年くらいだったかな。学校の座学で教師が言っていたよね。
あと、西に連なる竜峰に住んでいるという竜人族の中で長生きする人が三百年くらいって言ってたから、竜族もそれくらいなのだろうか。
「かかか。なるほど、少しは知識があるようだ」
相変わらず僕の思考を読み取って、巨竜は言う。
「確かに、普通の竜族であれば、竜人族と同じ三百年から五百年程度の寿命であろう。知識と力をつけた者で加算数百年といったところか」
ってことは、長くても千年は生きないのかな。そうすると、二千年間森を護り続けてきたってことは、凄いことなんじゃないだろうか。
「ようやっと理解できたか。我は竜族の中でも古代種。並みの竜族なんぞ木っ端も同然の存在にしかならぬ種なり」
おお、普通の竜族を雑魚扱いですか。すごすぎて理解が追い付きません。
「さりとて二千年はよく生きた。いずれ我も代替わりをするのであろうな」
巨竜はそういうと、少しだけ遠くを見るような表情を見せた。
古代種でも二千年は長いのか。寿命が近いってことは、今はもう老竜なんだろうね。
「さよう、古代種でも我は長命な方であろうな」
老竜になっても森を護り続けるなんて、なんて凄いんだろう。僕は老竜を尊敬の眼差しで見上げた。
「ふふん。先が短いとはいえ、汝よりかは長生きするであろうな」
なるほど。やっぱり人族とは寿命感覚が全く違うね。さすが伝説の巨竜。古の老竜様。
「我ほど巨体の竜はそうそういないであろう。老竜と呼ばれるのも今なら悪くはない。しかし、せっかく名前を名乗ったのだ。名前で呼ぶがよい」
名前はスレイグスタだっけ。じゃあ、スレイグスタ老だね。
僕の思考に、満足そうにスレイグスタ老は目を細めた。
「おじいちゃん、それであの霊樹ってなんですか」
「おおお、心では名で呼ぶのに、言葉に出すとおじいちゃんとは」
スレイグスタ老はがっくりと項垂れる。
してやったり。僕は伝説の巨竜様をやり込めて満足だった。
それにしても、スレイグスタ老は身体は遥かに大きくて強くて、少し機嫌を損なわせれば殺されるかもしれないというのが僕の立場なんだけど、なぜか怖くない。やっぱり凄すぎて、そのへんの感覚が感じられなくなっているのかな。
「汝にいまさら危害を加える気はない。ころころと機嫌で対応を変えておっては、ここの守護は勤まらぬ」
なるほど、たしかに気分屋さんだったら変な奴に足元を
「さて、霊樹か。まぁ、見ての通り天を貫く大樹であるな。世界の各地にはこれと同じような樹が幾本もあり、あまねく古代種の竜が守護を勤めておる。霊樹がなんなのかは、おいおいわかるであろう。今は巨大な樹とだけ思っておれ」
古代種の竜が護る大樹か。きっと余程凄い曰くのある樹なんだろうね。おいおいわかるというのなら、それを楽しみにしておこう。
「さぁ、次は汝が名乗れ」
言ってスレイグスタ老は興味深そうに黄金の瞳を輝かせ、僕を見下ろす。
ええっ、今のでスレイグスタ老の自己紹介は終わりなのか。ほぼ名前を名乗っただけじゃないか。
まあ、いいか。二千年間の守護のお話とかはまた今度聞かせてもらおう。なんか男の子として凄く興味があるよね。
とりあえず、いまは僕の自己紹介が優先だ。
「僕はエルネア・イースと言います。アームアード王国王都で生まれ育ちました。現在は王都の学校に通って、来年の立春の日に旅立つために日々訓練をしています」
ううむ。十五歳の旅立ちの事とか、王国の事とかもきちんと話しをしないと通じないかな。
しかし僕の心配をよそに、スレイグスタ老は理解したように頷いていた。
「あの双子の兄の方が建国した国か。それと随分と古い習慣を今でもやっておるのだな」
どうやら旅立ちのことは知っているようだ。しかも、アームアード建国王自身の事を知っているような口ぶり。
ああ、そうか。二千年間この森を守護してきたのなら、三百年前の建国当時の事を知っていてもおかしくはないのか。
「左様。あの者たちと共に腐龍の王を退治したのは、我であるからな」
なんか、さらりと凄いことを言ったような。
きっと気のせいだよね。
少し前にリステアと一緒に京劇を観たときの演目が、双子の建国王と腐龍の王の話しだったよね。
腐龍とは、竜族が寿命を迎えたときに苦痛や怨念なんかによって死ぬ事ができず、身体が腐っていく苦痛で自我を失って凶暴化した、最悪の魔獣の一種だ。
現在アームアード王国の王都がある一帯はその昔、腐龍の王によって荒らされ、竜族さえも見捨てた場所だったんだ。そこに双子の建国王アームアードとヨルテニトスがやって来て腐龍の王を打ち倒し、そのお礼に竜族と竜人族から土地を与えられたのが二国の始まりなんだ。
でも、その話しの討伐劇の中にはスレイグスタ老どころか竜族も竜人族も出てこないと思うんだけど。
「ふむふむ、確かに。人族の伝承では我らは出てこぬ。だが、歴史とは書き記した者の都合によって変わるもの」
つまり、建国の歴史を記した人が、意図的に竜族や竜人族を消したのだろうか。なんて酷いことをするんだろう。
「かかか。酷いこと、か」
スレイグスタはさも可笑しそうに目を細めた。
「我らが歴史に記されておらぬのは、お互いにその方が都合が良いからだのう。腐龍の王は我らが竜族の不始末なるもの。それを竜族の手だけで倒せなんだのは不名誉なり。人族の手助けを借りて、と歴史に残すよりも人族が勝手に倒したと記される方が良い。それに、人族にとっても腐龍の王に荒らされた土地を興していくのに自らの力だけで切り開いた、と
僕はとんでもない新事実を知ってしまったんじゃないだろうか。胸の動悸が激しくなってるよ。
つまり、今の歴史は本当は少し違うけど、竜族と人族の了承のもとに捏造されたってことだよね。
歴史家がこの事を知ったら、きっと図書館の本を全部投げ捨てちゃうんじゃないだろうか。
「他言無用である」
スレイグスタ老に釘を刺されたけど、もちろん言えるわけないよ。言っても誰も信じないだろうしね。
「さあさ、他にも汝の事を教えよ」
知的欲求を満たそうと、スレイグスタ老は興味深そうに僕の話しを促した。
「ええっと。そうそう、来年の立春の旅立ちの事をもう少し」
アームアード王国やヨルテニトス王国の伝統である旅立ちの事を知っていたけど、やっぱこれってそうとう古い習慣なのかな。今では形骸化してるように思うけど。
「十五歳になったら一年間、故郷を離れないといけないんです。僕はその一年間を本当は冒険者として過ごしたいんですが、なにせ武芸がからっきしで」
言ってて自分が恥ずかしいよ、ひとりの男子としてね。
「先ずは体力をつけようと、薪集めがてら竜の森に通おうと思ったんです。でもいきなり初日に狼のような魔獣に襲われて、逃げた場所がここだったんです」
「ほうほう、狼の魔獣か」
「はい。しかもそいつ、今日も僕を襲ってきて」
言ってさっきまでの事を思い出して、全身に嫌な汗が出てきた。
「今日も襲われたとな。ふむふむ」
スレイグスタ老は楽しそうに聞いている。
「ええと、何で冒険者に成りたいかというと」
僕は自己紹介というか、思い付くままの今の自分を語った。
「旅立ちを前に、基礎的な座学や武芸の訓練を行うために午前中は学校に通っているんですが、その同級生徒の中に、勇者がいるんです」
「勇者とな?」
「はい。炎の聖剣に選ばれし勇者です。たしか、初代の持ち主はアームアード建国王だったはずです」
「ほほう、あの強力な呪力剣が聖剣として現代に残っておったのか」
どうやらスレイグスタ老は聖剣の事も知っているようだった。ただし、聖剣を呪力剣と呼ぶ辺り、さすがは竜の古代種なのかな。
というか、何気に聖剣の正体を知ってしまって動揺する僕。
呪力剣とは、人族が造り上げた呪力を帯びた剣のことだ。魔族が魔力を込めたものは魔剣、神族が神力を込めたものは神聖剣、もしくは神剣という。
つまり、聖剣は人が造った呪力剣ということらしい。
僕は漠然と、聖剣とは人知を越えた存在が造った物だと思っていたよ。
「ぐはははは、これは衝撃的過ぎることを教えてしもうたか。しかし呪力剣といえど、桁違いの呪力が込められておることには違いない。現存する呪力剣では随一の性能であろう。それにしても。あの剣は子孫に継がせずに資質ある者に伝わっておるのだな」
感慨深そうなスレイグスタ老。
「はい。勇者のリステアは凄い才能で、僕の憧れなんです」
「ほほう、憧れか。して、それはリステアなる者に憧れておるのか、それとも聖剣に憧れておるのか。はたまた聖剣を持った者、に憧れておるのか」
スレイグスタ老に指摘され、僕ははっとする。
言われてみれば、僕は正確には何に憧れていたんだろう。聖剣に憧れていたのだろうか。魔族や妖魔さえ斬り伏せる、強力で美しい唯一無二の武器に。それとも、それを持っている、という特別な存在に憧れていたのだろうか。誰もが欲しがるものを持っているという優越感に憧れたのか。
ううん、そうじゃない。考えてみてはっきりした。
「僕は、リステアというひとりの少年に憧れたんです。とても頭が良くて武芸にも秀でていて。誰にでも平等で優しくて、そして誰よりも勇気があるリステアに憧れたんです」
そうだよね。聖剣を扱うリステアを羨ましく見てたし、お嫁さんが沢山いることも羨ましいと思っていた。でも、僕はひとりの同姓としてリステア個人の事を凄い人だと尊敬して、自分もそうなりたいと憧れたんだ。
どんな武器を持っているかなんて関係ない。助けを求めている人がいれば迷いなく助ける行動をとれる男になりたい。困ってる人がいれば損得考えずに手を差し出せる優しい人になりたい。いつも笑顔で、周りの人を幸せにしたい。
それが出来ているリステアに、僕は憧れたんだ。
「なるほど、汝は人のために在りたい、と思うのだな」
スレイグスタ老深く頷き、僕を見た。
「やはり我の目に狂いはなかった。しからば、汝に汝たりえる為の力を授けよう」
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