遭遇
「エルネア、暇だったら竜の森で
そう言って僕を早朝の家から追い出したのは、母さんだった。
家事で煮炊きに使う薪は、僕らのようなあまり裕福でない家庭には大切なものだった。少しお金を出せば炎属性の
薪は、拾ってくればお金はかからないからね。
そして薪は、竜の森で沢山採れた。
竜の森。
アームアード王国建国よりもずっと昔からあると
隣国ヨルテニトス王国の王都まで約六十日かかるんだから、それの半分。もちろん森の中での移動だから平地の移動などと比べたら普通より時間はかかるだろうけど、それでも森の広さは計り知れないと誰でもわかる。
そして竜の森のどこかには、伝説の古代竜が住んでいるという。
何が伝説なのかは分からないし、古代竜に遭遇した人なんて誰もいないから、なぜそう呼ばれているのかは誰も知らないんだけどね。
でも竜の森は王国によって厳重に管理されていて、たとえ小さな木でも伐採することは禁止されていた。
ただし、生木の伐採は禁止でも、枯木を倒したり落ちた木の枝なんかを採るのは自由だ。
他にも果実なんかが豊富に採れたり、なぜか魔物が一切現れないので、獣を狩る狩人の絶好の狩り場となっていた。
僕の住む王都の地区から竜の森へは徒歩で一刻かかる。往復で二刻だけど足腰の鍛練になるし、森に入ればすぐに薪は集まるだろうから、昼過ぎくらいに戻る予定で僕は出発した。
今日は休日。毎日の武芸の稽古で体力のなさを痛感した僕は、
そういえば、昨日までリステアは学校を休んでいた。
妖魔との対決で極限まで呪力を使い果たしたリステアは、体調を崩して寝込んでしまったらしい。
呪術に必要な呪力、法術に必要な
弱体化した身体は病気にかかりやすくなったり、数日寝込んでしまう人もいるんだとか。
僕は呪力なんてないから学校の座学で聞き流す程度の事だったけど、呪力持ちの人には大切な話みたいだった。
ちなみに、法力は洗礼を受けた巫女様にしか宿らない。法力とは、世界を創った女神様の力の欠片で、ちゃんと修行した巫女様じゃないと身に宿らないんだとか。
だからなのか、男の神官様は法力を持たないし、法術も使えない。
やっぱり創造主が女神様だから、男は駄目なんだろうか。
そのへんは巫女のルイセイネなんかに聞いても分からないらしい。
不思議なものだね。
そんなわけで、あれやこれや考えながら王都の大通りを南下して高い外壁を抜け、広がる田畑を越えて竜の森へとやって来た。
どこからが竜の森という明確な線引きはなくて、徐々に樹木が多くなってきたら何となく森に入ったんだろうな、という感覚。
森の手前は既に王国の直轄地なので、田畑もないから人によっては田畑の切れ目からが森の入り口という人もいる。
つまり、本当は誰も森の入り口なんて正確には知らないんだ。きっと国のお役人でさえ知らないに違いない。
僕は手頃な広葉樹の木陰に腰を下ろし、ひとまず休憩をいれる。家からここまでずっと歩き通したので、結構疲れてしまった。
でも、これはいい体力作りになりそうだ。
どうせ薪はいつも必要なんだし、これからは学校後の午後の日課にしても良いかもしれない。
季節は春は終わったけど夏にはまだ少し早いくらい、という時季。
歩き通しで全身に汗をかいていて、まだ少し冷たい風が気持ち良かった。
水筒の水を三口飲み、僕は立ち上がる。
朝食は軽めだったので少し空腹感はあったけど、森の中に入れば木の実なんかがあるしそれを食べようと目論んで、僕は森の中へ入っていった。
少しずつ樹木が増えていき、木々の枝葉が緑色の天井を濃くしていく。
木漏れ日が優しく地面を照らす森の風景は、本当にここが王都のすぐ南にあるのかと思えるような清らかさがあった。
僕は木の実がなっていないか上を見たり、薪に使えそうな枝が落ちていないか下を見ながら森の中を進む。
さすがに入り口付近はみんながすぐに採っていくので、目ぼしいものはなかった。
まぁ、そのへんは折り込み済みだ。
僕は少し奥まで行くことを決める。
ただ歩くだけなのは体力作りにもったいない気がして、僕は先日調達した少し細目の中剣を抜き、素振りをしながら歩く。
学校で借りていた普通の中剣でも少し重く感じたので、細身で軽量なものを選んだんだ。武器購入のために両親がこつこつと貯めていてくれたお金と、僕も貯めていたお小遣いを合わせて出来るだけ質の良い武器を選んだつもりだ。
僕は剣を右に振ったり左に振ったり。上段から振り下ろしたり突いてみたりと、いつの間にか薪拾いも忘れて剣の素振りに夢中になっていた。
お腹がぐうぐうと鳴りはじめた頃、ようやく僕は本来の目的を思い出す。
気づけば、随分と森の奥まで来てしまっていた。
緑の天井は厚く、
足元には、少し湿ってそうな枝木が沢山落ちていた。直ぐには薪として使えないだろうけど、乾燥させれば良い。僕はこの辺りで薪を拾うことを決める。
でも、その前に。
僕はふわりと柔らかそうな苔の上に座り、母さんから持たされた昼弁当を開いた。
ここまで来たら果実を探すよりも弁当を食べた方が手っ取り早い。
弁当の包みを開くと、朝にも食べたライ麦のパンが二つとチーズが一片、小さな筒の入れ物に煮込んだお肉が入っていた。
いただきます。
僕は母さんに感謝の祈りを捧げると、昼食を食べはじめてた。
裕福でない僕の家の食事は質素だけど、いつも母さんが工夫してくれて食卓は華やかだった。
パンもチーズも自家製。お肉は昨日の晩から煮込んでいたのを知っている。
柔らかい肉が口に入れた瞬間とろける。
チーズは濃厚で、すこし塩気のきいたパンとの相性は申し分ない。
僕はすぐに全部平らげて、最後に水筒の水を二口。
程よくお腹が満たされたところで、薪拾いに移った。
本当は昼過ぎには帰りつく予定だったので、随分と遅れてしまっている。
急いで薪を集めていると、僕はふと何かの気配を感じた。
僕って、遺跡探索訓練で魔族を見つけたときもだったけど、なんか勘が良いんだよね。
僕は腰をあげ、辺りを見渡す。
生い茂る樹木と雑草。場所によっては苔がはっていた。
森の枝葉が日光を遮っていても、柔らかい光が森を包んでいて暗くはない。
気のせいか。僕は薪拾いを再開しようとした。
そのとき。
視界の隅で何かが動いた。
なんだろう。視線を向けたが何も見当たらない。
緊張で身体が強ばる。
僕は腰の剣を抜くと、油断なく周囲を警戒する。
ここは竜の森だ。竜の森では、なぜか魔物は出ない。
じゃあ、さっき見えたのは何だろう。
僕の脳裏に、先日修練場に現れた妖魔の姿が過る。
途端に全身から嫌な汗が吹き出し、膝が笑い出した。
いやいや、そんなはずはない。妖魔は本当に滅多に出るものじゃないんだ。妖魔ではない。
じゃあ、いったい何か。
賊だろうか。
王都近郊とはいえ、まったく賊が出ない訳ではない。
どうしよう、金品なんて持ってない。持ってるのは湿気た樹の枝と中剣くらいだ。
ざわり。
動いたものが映った方を警戒していたんだけど、背後から森のざわめきを感じて慌てて振り向く。
そして。
僕は悲鳴をあげて逃げ出した。
振り向いた先には、巨大な灰色の狼がいた。
いつの間にか背後に忍び寄り、大きな口を開けて僕を丸のみにしようとしていたんだ。
恐怖で視界が霞む。
崩れ落ちそうな膝にむち打ち、必死に逃げだした。
樹々を障害物に、右に曲がり左に曲がり。
逃げる。
だけど木の根に足をとられ、僕は転けてしまう。
恐る恐る振り向けば、巨大な狼は悠然と僕を追いかけてきていた。
なぜか駆ける足音がしない。
足音がないから、僕は気づかなかったのか。
そんなことを考えている暇はない。
僕は慌てて立ち上がり、また逃げる。
呼吸が続かない。足が酷使しすぎて痛い。脇腹が痛い。でもそんなことに構っていられない。一瞬でも立ち止まれば、待っているのは死のみだ。
僕は森の中を逃げ回った。
奴は魔獣だ。間違いない。
竜の森は魔物が出ないと安心しきっていた。
確かに魔物は出ないけど、妖魔は出るかもしれないし賊が潜んでいるかもしれない。そして魔獣が徘徊しているかもということはまったく頭の隅にもなかった。
奴は追いかけてくるが、襲っては来ない。きっと僕を追いかけて
でもだからといって逃げないわけにはいかない。きっと逃げるのを止めたとき、遊び飽きて食べられてしまう。
僕は命の危機に初めて直面し、恐怖で気が狂いそうだった。
遺跡で魔族に襲われたときも怖かった。修練場に妖魔が誘い込まれたときも怖かった。でも、安心感もあったんだ。側に勇者のリステアがいた。彼なら救ってくれる。彼が居たから安心して恐怖していられた。
だけど、いま僕の側にはリステアはいない。誰も居ない。
僕は初めて本当に恐怖し、初めて自分の命の大切さに気づき、そして初めて、女神様に救って下さいと心から願った。
限界の足がもつれる。
今倒れてしまったら、もうきっと後はない。
つまずく左足。必死に右足を出して踏んばる。
でも限界に達した足には力が入らず、またしても無様に転けてしまった。
無意識に後方を見てしまう。
見てはいけなかった。
巨大な狼の姿をした魔獣はにんまりと瞳を弧月型に曲げ、鋭い牙がびっしりと生えた口を大きく開き、僕に襲いかかろうとしていた。
限界を越えた恐怖で膝が砕け落ちた。
頭が真っ白になる。
死んでしまうのか。
魔獣の動きがやけにゆっくりに見えた。
真っ赤で不気味な口が迫る。
そのとき、倒れ込んでしまった地面が崩れ落ちた。
崖の縁に僕は倒れていたらしい。
倒れた時の衝撃で縁の足場が崩れ、僕を崖下へと落とす。
寸前の所で魔獣の口は閉じられたが、僕には届かなかった。
だけど僕は急斜面の崖を転がりながら落ちる。
全身を手酷く打ち付け、激痛に僕は意識を手放してしまった。
涼やかな気配と古木の深い匂いに、僕はうっすらと意識を取り戻す。
次に口の中の鉄錆のような血の臭いと味で徐々に覚醒していき、全身に走る激痛で我に返った。
重い瞼を開いて最初に見たものは、美しい緑色の苔の絨毯だった。
僕は深い苔の絨毯に身体を沈ませて倒れていた。
視界の先には、落ちてきたはずの崖は見当たらず、樹齢の計り知れないような巨木が離れた先から何本も林立していた。
ここは何処だろう。
そう思い、魔獣はどうなったんだ、と危機を思い出す。
全身の痛みで思うように動かない身体に無理矢理力を入れ、僕は起き上がる。
起き上がり、周囲を見渡した。
やはり、落ちてきたはずの崖は、なぜかどこにも見当たらなかった。
僕は四方が拓けた場所に居た。拓いた場所には足元と同じ深い苔が隙間なく繁り、周りを巨大な古木が囲んでいた。
空を見上げて、僕は驚く。古木など苗木にしか思えないようなほどの巨大な樹が、大きく広げた枝で広場全体の傘になっていた。
どんなに目を凝らしても、巨樹の天辺は伺い知れなかった。
巨樹の神々しさに僕は見とれた。
口をあんぐりと開け、大きく目を見開らいて巨樹を見上げる。
枝の一本一本が、周囲の古木よりも太いんじゃないだろうか。
こんなに巨大で神々しい樹が竜の森にあるなんて、僕は知らなかったよ。
そもそも聞いたことがない。
巨樹は枝で広場に傘を作っていたけど、根幹となる幹は広場のずっと先にあった。遠くに、もうすでに木じゃないのではないかと思えるほど太い幹が見える。
そしてそのまま視界を下げていき、僕は見てしまった。
広場の中央。
そこに小山があった。
僕は、最初に見たときは小山だと思っていた。
でも、違ったんだ。
緑色の美しい苔が生い茂り、神々しい巨樹が枝の傘を作る広場の中央には、巨大な竜が居た。
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