2-5 箱庭庭園(4) - サメと第二の魔法少女
どよめきが辺りに広がる中、天井の電灯がひとつだけ復旧し、一箇所を照らした。
まるでスポットライトのように。
黒い、肉の塊。それがグツグツと膨らんでいく。
聴谷の目には、薄桃色の煙が地面一体を覆っているように見えていた。それがスポットライトの真下に蟠っている。みるみると体積を増していき、3メートルはあるかという巨体になる。
「食べ足りない……食べると吐いてしまう……」
「食べ足りないぞォ!」肉の塊が、叫んだ。
共鳴するように誰かが悲鳴を上げた。悲鳴は連鎖する。椅子を蹴り、テーブルを突き飛ばしながら、人々はそいつから距離を取ろうと走り出す。
統制が全くとれていなかった。
この街に怪人が現れたことはない。決して存在していないわけではない。人々は、誰もが怪人になる可能性を理解している。それでも、リアルな出来事としては、誰一人として想像だにしていなかったのだ。
避難訓練は無意味だった。先導する者も「訓練だから」という余裕もない。本能的な危険を目の前にし、あるいは伝播した恐怖に体を突き動かされていた。
ただ二人、聴谷と天津だけが立ち尽くしている。天津は見慣れた光景だとでもいいたげで、聴谷はといえば、ただ単に動けなかっただけだ。体が大きいということは人を押し除けて逃げることもできるということだが、そんな気概は彼女にない。
――怪人。
頭は分厚い筋肉に埋まっている。右肩から左脇腹にかけて、大きなサメに噛みつかれているような模様があった。両腕は肘から先がサメの頭になっており、左右独立してあたりを見回していた。バシン、と大きな音がそいつに尾があることを知らせる。怪人の背後でテーブルが叩き割られた。
これこそ本当の呪いじゃないか、と聴谷は思う。
怪人の両腕は、二頭とも意思を持っているかのように、あたりのテーブルに噛み付く。誰かの食べ残しを、テーブルごと。噛みちぎられた断面にはマーブル模様が渦巻いている。麺類だろうが、丼ものだろうが関係ない。
「逃げないの?」と天津は尋ねた。
「体が大きいと逃げ遅れるんです」人混みを押し除けて進むことはできる。しかし、この後に及んでもそんな気概は聴谷にはなかった。「それに、多分、ルリさんがこっちに向かおうとしているはずです」
彼女は今一体どのあたりにいるだろうか、と聴谷は考える。一服は済んだのだろうか。戻ってくる途中で、人混みに足止めを食らっているならばよい。そうでなければ、彼女は聴谷の安全のために、ここに来ようとする。もしすれ違いになってしまったら――これがマズい――彼女の性格を考えれば、怪人に喰われたとでも考えて、立ち向かいかねなかった。
だから、聴谷は合流できるまでこの場所を動くわけにはいかなかった。
つまり怪人相手に生き残れということだ。
「ふうん……?」
意味ありげな表情で、天津は首を傾げる。
「そっちこそ逃げないんですね」
「引退はしてるんだけどね」
自分から遠ざかる人々の悲鳴が煩わしかったのか、それとも生きている人間の方が魅力的に見えたのかは分からないが、怪人が聴谷たちに背を向ける。分厚い体を支えるように太い尾が、不機嫌に辺りを散らした。
サメ怪人と目が合って、一人の女の子の腰が抜けてしまった。周りは気づかず逃げていく。のしのしと近づく怪人に、彼女は悲鳴も出せない。右手のサメが大きな顎を開いた。
そのときだった。
すでに走り出していた聴谷が、少女を抱えて飛び込んだ。背中でサメの顎が閉じる音がする。怪人と距離を取る。椅子やらテーブルやらに足払いをかける形になったが、腕の中の少女は無事だ。
「怪我ないね? 立てる? さ、走って」
少女は黙って頷き、指示通りにする。
全長3メートル。もっとあるかもしれない。両腕のサメが抱え込むように聴谷を観察していた。
聴谷は視線を外さないよう、サメ怪人の前に立ち上がる。
全身が黒く、水の中にいるような光沢がある。
生き残ることを考えるはずだったのに、気づいたら飛び出していた。サメの腕が緩慢だったから間に合ったものの、すんでのところで自分ごと食われるところだった。
「あなた、何やってるの!」と天津が叫ぶ。
「わたしも困ってますよ!」と聴谷は返す。「どうしたらいいんですか!」
聴谷なのかは魔法少女でもなければ怪人でもない。ただのスコアの高い少女なのだ。
しかし、そんなことを言えば、天津ミラだって現役の魔法少女ではない。
「ああ、もう!」
天津はバーガーのトレイをフリスビーの要領で投げる。プラスチック製の板はサメ怪人の後頭部に当たって砕け散った。
「アぁ?」
「そこの怪人さん!」天津は叫ぶ。「そんな子放っておきなさい!」
怪人はサメのヒレで床を叩き、緩慢な様子で振り返る。
筋肉に埋もれた胡乱な目と、両腕のサメが天津を見た。
「魔法少女の肉は美味しいらしいわよ?」
咆哮を上げながら、サメ怪人が天津の方に走り出した。途中で適当にテーブルごと料理を噛み砕くのだから行儀が悪い。
天津は胸元のブローチを握る仕草を見せた。
変身するのかと思ったが、光らない。
「ひとりで一体どうするつもりなんですか!」と聴谷は叫んだ。
天津はふ、と笑う。
「誰がひとりって言ったかしら?」
その瞬間、ガラスの天井が砕け散って、飛び込んでくる者があった。
――魔法の箒。
つばの広い三角帽子を目深に被っている彼女は、全身を橙色の金属製スーツで覆われていた。至るところに稲妻のマーク。ベルトに電源マークがちらりと見える。
箒を蹴って、彼女は着地する。
三角帽子を聴谷の方に投げ、彼女は名乗る。
「魔法少女・シェリラギ、推参!」
どこかで雷の落ちる音が聞こえた気がした。
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