1-7 眼科トーク(3)

 あまりの言葉に、途方に暮れてしまった。診察室の白い――薄桃色の――壁が全面バッと弾けとんで、ひとりポツンと取り残されたような気持ちになった。

 その広大な余白の中で、聴谷は一言口に出してみる。


「恋」


 そんなことをしても、距離感は正されなかった。

 全然実感が湧かない。現実味がない。

 言うに事欠いて、恋?

 大病だと告げられた方がマシだった。

 呆けている彼女に、北落は続ける。

「そ。君は恋している。厳密に言うと、一目惚れだ。世界で一番古く、最も強力で、なにより厄介な魔法だよ」

 随分遠くからの言葉に聞こえる。

 距離感が狂うなんて、聴谷の人生で一度もなかったことだった。

「これを防ぐ術はないし、気づいたときには全てが遅い。渦中にあるか、終わったあとだ。取り返しはつかない」

「風向きを見ろと言っていたのに」と聴谷は抵抗しようと試みる。

 言葉尻を取るような真似しかできそうにないことに気づいて、方針を変える。

「――勝手に決めつけないでください」

 そう言った。

「でも、それ以外になんだって言うんだい?」

 医者は折れない。

「状況はそれを示している。残念だったね、ご愁傷さま」

 最後の言葉が、医者にあるまじき言葉だと言うことくらいは分かった。

 聴谷は、周りの環境との距離を修正すべく、言葉を返す。

「それがお医者様の言うことですか」

「専門家だけれどね。だからだとも」

 ふふふふ、と彼女は笑う。

「もっとも――」聴谷の様子を楽しむように。「恋は盲目――という表現が、キミほど鮮明に現れている実例は初めてだろうけれどね」

 面倒なことになった、と聴谷は考えてみる。考えることは、縋ることだった。とりあえずは、世界との距離感を計り直す必要があった。すべてが遠すぎる。


 恋ってなんだ?


 特殊な人間関係だ。人間社会にしか発生しない。木々は恋をするだろうか? 花々は? 連星のダンスは、恋故か? 違う違う、それは単に観測する側のロマンティシズムに過ぎない。徒らな詩情が雑音になっている。

 星々は、もっと大きなスケールで動いているはずだった。

 少なくとも、ひとの力の及ばない理論でもって。

 日常を吹き飛ばしたくて――それで、聴谷は人間関係に消極的だった。

 書架ナンバー44xの前だって、原則としては例外ではなかったのだ。

 北落は尋ねてくる。

「この一週間、キミの頭を支配していたのは、一体だれだった?」

 

 抵抗の意味も込めて、聴谷は、司書見習いを思い浮かべようとした。

 けれども、上手くいかなかった。

「キミの色覚異常が進行した理由はそこだよ」

 北落は人差し指の腹を向けてくる。

 ダブついた白衣の袖から、今度はちゃんと指先が見えた。

 一層集中して、聴谷は三川ルリの情報を思い出そうとする。

 金髪のウルフカット、黒縁メガネ、山羊座のピアス、喫煙者――そういう言葉は思い浮かんだ。でも、そこで終わりだった。要素が、ただの文字情報としてしか表れてこない。

 全然、ひとりの人間として像を結ばなかった。

 全ての文字が、薄桃色で書かれている。

 瞬間的な春に通ずる、淡い色。ピーチティーの匂い。


 その先に待つのは、あの魔法少女だった。


「キミは、繰り返し繰り返し、彼女のことを考えたはずだ」

 北落の指先には、真実が乗っているように思われた。

「憧憬、同情、怨恨――モチベーションはなんでもいいんだよ。肝要なのは、反復されたという事実だ。リピートする度に強化されちゃうものなのさ、そういう感情はね」

「わたしは別に――」

「否認するかい? それも自由だ。ただ、やはり現実逃避と言わざるを得ないね。事実、キミの視覚は薄桃色に染まりはじめているわけだし、それは彼女――天津ミラのパーソナルカラーだ」


「……放っていくと、どうなるんです」

「これ以上かい?」

 北落は首を傾げる。

「キミの視界は、一色になる。ただ濃淡だけの世界だ」

「夜空は――」

「黒とか紺とか青という意味なら――」北落が真面目な表情を作る。「――当然、消えるとも。昼も夜もなく、ひねもしてお空は薄桃色になる。それが問題ならね」


 まさしく、それが問題だった。

 聴谷ナノカの人生において、一番大切なのは、星空を見ることだ。

 次に、本を読むこと。

 想像力を使っていない時は、彼女にとって死んでいるのも同義だった。ある程度の根拠に基づいて、イメージすること。肉眼で見えなくても、彼女は星が目瞬いていることを信じることができた。まだ発見されていない星々についても、思いを馳せることができた。

 何かがあり、それは途方もないスケールで運動していて、自分はそちらを向くことができる――そういったことが重要だった。この三つの要素のうち、どれかひとつでも欠けては困る。


 星が消えても、見上げることはできるだろう。

 今まで仕入れてきた知識をもとに、正確な位置を測ることはできるだろう。

 けれども、それは頭の中で生きるということだった。窓を閉め切って、世界との関わりを断ち、自分ひとりの頭の中に閉じこもることだった。それは、聴谷の生き方ではなかった。

 想像力の窓で、広い世界に繋がっていなければ、怖い。

 星に照らさなければ、聴谷は、自分の位置が分からなくなる。無重力空間に放り出されて、クルクルとスピンを続けながら、それでも自我を保てるほど、わたしは強くない。


「わたしはある意味でのドクターだ。だから、キミの視覚異常を改善する方法を示すことができる」

 自信たっぷりの言葉に、思わず聴谷も前のめりになる。

「そんな方法があるんですか」

「あるとも。要は呪いのようなものだからねぇ」白衣の袖を擦り合わせて「そして、呪いを解くためには、古くから知られている方法が二つある。ひとつは、術者を殺すこと」

「……そんなこと」

「もちろんだ」と北落は微笑んだ。かなり含みのある表情だったが、聴谷にはその内側が覗けない。「あとは、術者に好きになってもらうことだよ」

「はあ……」

 聴谷は、また北落流の軽口かと思った。

「好きになってもらって、キスをしてもらうことだ」

「本気で言っているんですか」

「もちろんだとも」

 聴谷は目頭を揉んだ。

「キミの色覚異常が、天津ミラに一目惚れしたことに起因するなら、その恋を終わらせれば良い。恋の終わりは、成就するか、それとも失恋するかだ」

 涙は出ない。

 そればかりか、心のどこかで、また天津ミラに会えるのだと確信を持っている自分もいた。それは理性に照らして気持ちの悪いことだった。自分の頭では望んでいないこと。けれども、心の底側は期待に湧き立っている。

 どこにいるかも分かっていないのに。


「君は天津ミラのことを何も知らない。同様に、天津ミラも君のことを何も知らない。そして、よく知らないからこそ恋という不安定な関係は生じうる。そこに、その関係性が活きる理由がある――片想いでも、両想いでも、これは同じだ。二つの異なるノードがあり、ラインは接続を求めて衝突する。それが恋だよ」


「……前提が間違っている気がします」

 抗おうにも、そういう言葉からスタートするしかなかった。

「ふふふふ」と北落は笑った。「専門家みたいな口を聞くじゃないか」

 知ってのことではない。これは願いだった。

「初恋もまだなんですよ」

「ドラマティックで良かったじゃないか」

「トラウマティックです」と適当に流しながら、「あの子のことを好きだとかって認めたくないんですよ」

 否認してみた。

 北落は答える。

「それが恋だと自覚するまでも、初恋の醍醐味だよ」

 知ったようなことを、と聴谷は唇を尖らせる。

「もちろん、第三の選択肢もある」

「それは」

「忘れることだ。さっきも言ったが、恋とは二者の関係だからね。要はこれが途切れれば良い。君は天津ミラを諦めて、忘れることができるのかい?」

 

 正直なところ、難しそうだった。この瞬間にも、スマホの写真を開きたい衝動に駆られる。

 瞼の裏に焼きついた天津ミラとかいう少女を剥がすことができるなら、聴谷はなんでもやる気にもなっていた。藁にもすがる思いというやつだった。


 聴谷ナノカは、呪いを解くために、この恋とやらを終わらせなければならない。


 殺すか、叶えるか。

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