1-5 眼科トーク(1)

 眼科に行く日が来た。

 すで三日も経っていた。


 この間、聴谷の心を三つの感情が占めていた。

 疑問と恐怖と、あろうことか、心地良さ。


 笑わない少女のせいで、視界はだんだん薄桃色に染まっていく。星も見ることができなくなるのではないか、という恐れ。あるいは、すでに見えないのかもしれない。

 チャンスはあったが、どうしても天窓のブラインドを開けることができなかった。


 日中はといえば、それほど苦労を覚えなかった、

 たとえば、今の彼女には信号の色が分からない。灯りのつく場所と車の往来で判断している。

 

 ――染色は彼女の意思とは無関係に起こっている。 誰かが無作為に決めているかのようだった。

 今日はどれ、明日はこれという風に、ランダムな物の色がきっぱり変わるのではない。もっとアバウトで、滲むように変色していく。世界の構成物が腐っていくような印象を受けた。


 それでも、生活に支障はない。


 昨日まであったものの色が変わったとして、本質までが変わるわけではないからだ。母の用意していた食事は色褪せていたが、味は変わらない。シャンプーとリンスの位置も昨日と変わらない。

 あくまで生存の話だ。

 要は記憶で生きていた。それから周囲への信頼と。


 聴谷自身には違う色に見えていたとしても、それは今まで通り新鮮な食物で作られた料理だろうし――どうだろう、ひょっとしたら消費期限が切れているのかもしれなかったが、体調は崩さなかったのだから、大丈夫だったはずだ。いたずらに物の位置を変えようという輩も現れなかった。


 ただ、夜空は怖くて見ることができない。

 だから、本を読む時間が長くなった。

 それでも、長い間文字を追っていると、頭の中がピーチティーみたいな匂いでいっぱいになる。そして、溺れそうにもなる。

 結局は、続けられない。


 世界がだんだん天津ミラの色になっていく。

 何を目に入れても彼女のことを思い出さずにいられなかった。

 彼女の姿が像を結ぶたび、心の奥底が揺さぶられる。胃の下から浮遊感が広がっていって、足が軽くなる。ブランコに乗っているみたいだった。足のついている場所が揺らぎ、不確かになっていき、宙に放り出されるような感覚になる。

 チェーンはない。

 速度の落ちるタイミングがずっと続いているようだった。スウィングの折り返し地点のような、息の止まる感覚。続くからには苦しくて、しかしワクワクするのも止まらない。


 気がつくと、写真を見ている。その中の彼女は、次第に無表情に飽きて、たまに表情筋を確かめているようだ。ともすれば、今にもぷっと吹き出して、笑ってくれそうな気配すらした。

 

 ――わかっている、そんなはずはない。


 そんな夢想から覚めると、聴谷は「総じて理不尽だ」と思った。自分が選んだわけでもないのに、こんなことになっている。

 我慢の限界が、三日だった。


・・・♪・・・


「スコアは?」と医者は聞いた。

「48」

「それいつのだい」

 白衣を着た女性――というには見た目が幼過ぎたが――北落ミスガは言った。

「一学期の身体測定の時のですけど」

 聴谷は答えた。


 今は誰もが魔法少女や怪人になりかねない時代だ。

 その”なりやすさ”の指標になるのが、〈見習い尺度アプレンティス・スコア〉――全ての国民は定期的な検査が義務付けられている。あくまで参考指標にすぎず、数値が高いからといって、必ず特殊な能力や暴力的な衝動に目覚めるわけではない。

 しかし、はある。


「今の君、73だよ」と北落は続けた。「あと少しで、要観察対象だ」


 要観察対象、という言葉に聴谷はゾッとした。

 つまり、自分が魔法少女や怪人に近づいているということだ。

 一体いつから? ふつうの人間ではなくなっている。


「前回のウェーブが半年前か」北落はカレンダーをさらいながら言う。「君も知っての通り、スコアはウェーブの直接的な影響だけでなく、遺伝、生物濃縮、環境要因、etc――と、とにかくさまざまなものが影響する。両親が魔法少女あるいは怪人だったり、ウェーブの影響を強く受けたものを食べ続けたり……あとは、、だね」

 

 ぶかぶかの白衣の袖口から、両手を開いて彼女は示す。


「心理的に開けるか……」

「要するに、そういう者たちに遭遇したか、だよ」北落は椅子をぐるりと回した。足が地面に届いていないので、ブラブラと揺れる。「魔法少女あるいは怪人――そういう者のことだ。すでに選ばれている人々を見たり、聞いたり、近くに感じたりすることで、自分もまた選ばれていると錯覚してしまう――そういう心理ってあるんだよ」

「よく、分かりません」と聴谷は答えた。

「嘘だね」と即座に北落は言った。「いろんなことについて、嘘つきだ」


「君は名刺を見せなかった。ネットで調べたって言うつもりかい? 残念ながら、でもなければ、ここは見つけられないんだよ。――関係者に紹介されなければね」


 確かに表札も何もなかったと聴谷は思い返す。廃病院といった佇まいでもあった。

「君は魔法少女に出会った。言葉も交わした。それ以上かもしれない。そして、そのことに心を開いてしまった――それがどんなに小さな隙間でもね」


 そんなことない、わたしは依然として閉ざしている、と聴谷は思った。


「ところで、という感覚は、侵入するよ」と北落ミスガは続ける。「勘違いでもなんでもいい。それでも奴らは増殖するのさ。生きてるみたいにね。それがこの惑星を襲っている異変なんだ。オーディション・ウェーブによって、人々の心はそれほど強固でなくなった。君の心も例外ではない。内側からこじ開けてくるるものがあるだろう。だから――」


「――嘘つき」

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