1-4

 聴谷にとって、三川ルリという人間は、この街で唯一ちゃんと安らげるひとだった。


 もう長い付き合いになる。聴谷が小学六年生、三川が高校生だった頃からだ。


 それでも深い仲ではない。

 むしろその逆で、努めて浅くあろうとしてきていた。

 年齢差からではなく、ある種のスタンスから、あえてそういう関係を続けてきている。

 ただの来館者と司書見習いの関係。それから、開架番号44xの書架をただ眺めるだけの連帯。


 宇宙スケールの現象に比べれば、毎日の悩み事なんて小さなものだ。目の前の書架には、そんな些事を吹き飛ばすようなほどの威力がある、と彼女たちは信じていた。そう思う人間が側にいることで、形成されている、緩やかな繋がり――元はただの偶然だった。

 たまたま行き合ったというには、共有する時間が積み重なったことで、この繋がりはできている。

 悩みがあっても相談しない。するとしたら、それはあくまで来館者と図書館スタッフの域を出ないようにする。世間話もほとんどしない。

 そういう不文律があった。


「探しものは見つかった?」と三川ルリが声をかけてきた。

「いいえ」

 息を抜くように答えた。ルリさんを見ると少し落ち着いた。

「閃かない夜もある」

「お昼ですよ」

「言葉の綾」

「そうですか」

 そうだろうか、と思わずにはいられないが、聴谷は追及しなかった。顔にも出さなかったのは、単に慣れているからだ。ルリさんが不思議な言い回しをするのは、今にはじまったことじゃない。


 聴谷はスマホを取り出して、例の写真をちらっと見た。

 やはり、天津ミラと名乗った少女の髪は桃色に写っている。


 しかし、聴谷はこれからその不文律を破ろうとしている。

 自分の身に降りかかった疑問を解消するために、

 

「ちょっと見てほしいものがあるんですよ」

 彼女にお願いをするのは、これが初めてだった。

 三川ルリは眼鏡の奥からじっと見つめてきた。

「だったら、場所を変えよう」

 さっきまで抜け出していたはずの彼女が言った。

 

・・・♪・・・


 図書館のカフェスペース。

 二人ともコーヒーを頼んだ。

 聴谷はアイス、三川はホット。聴谷はそのまま飲めるが、三川はそうではなかった。彼女は氷を何個か入れて、放置する。

 不思議そうに見ていると、三川は言った。

「この方が調整しやすい」

「猫舌なんですか?」

「猫ではない。なんだろ」

 ルリさんが動物のコーナーにいるところは想像ができないな、と聴谷は思う。

 案の定、

「あまり詳しくない」と言う。

「ルリさんが詳しいものってなんなんですか?」

「ないかも」

 コーヒーカップを手に取り、まだ湯気が立っているのを見て、ソーサーに置き直す。

「”詳しい”って言葉は、信用できない」と言いながら、彼女は氷を加える。

「たしかに」

 聴谷は自分のことを考える。彼女は夜空が好きだったし、星が好きだ。図書館と同じくらい、天文台にも通っている。周りに比べれば、知識のある方だと思う。けれども専門家に比べれば、きっとまだまだなのだろう。

 そんなことを考えていたところ、

「ナノちゃんは、星だ」

「はえ」

「好きでしょ、宇宙とか」

「それは、はい」

「わたしも」

 ふ、と目を細める。ぐっと柔らかくなり、意外さに聴谷は驚いた。

 このひと、そんな表情もするひとだったのか。

「でも、詳しくはない」

 そう言って、彼女はコーヒーに口をつける。

「熱い」


「それで、見てほしいものってなに」


「ボーイフレンド?」三川の言葉が2℃下がった。「そういう話はナシな約束だけど」

 お互い約束したはずでなかったことが、共通認識だったようで、聴谷は少しくすぐったい気分になる。

「違います。ただひとつだけ聞いてみたいんです」

 三川は聴谷の言葉を検討するフリを見せた。

「ひとつだけなら」先端の固そうな人差し指。

「そのつもりです」

 聴谷はスマホを操作して、先ほどの写真を表示する。

「で、どこ見たらいいの」

 黒縁眼鏡の上フレーム越しに、瞳が問いかけてきた。

「どれって――この女の子ですよ」

「タイプじゃないけど」

「そうじゃないです」と聴谷は言った。「この子の髪、何色に見えます?」

「……茶髪だけど」

「えっ」

 その声の成分は、驚きとショックが半々だった。

 どう見たってピンク色でしょ。

「あと、チャラい」

「金髪のあなたが言いますか」

 かきあげれば、刈り上げているところも見える。ピアスも開いている。

「目も死んでる」

「活き活きしすぎなんですよ、ルリさんが」

 むしろ、ひとを殺しかねないまでの鋭さがあった。

 聴谷は口を滑らせたかと思ったが、三川はにやりと笑っている。

「ほんとうに――」誰に尋ねてるのか、自分でも曖昧になった。語気も弱い。「――ほんとうに、茶髪に見えますか?」

 指の数が、二本に増えた。しかし、文句は上がらなかった。

 三川ルリは、融通の効かないタイプではない。

「少なくとも、ピンクじゃない」

 中立的な視線が聴谷を見る。

「わたしなら、眼科に行くけど」

 魔法少女に渡された名刺カードが頭に浮かんだ。

「考えてみます」

「うん」

 三川は、左胸に手を置いた。煙草のパッケージが、シャツの左ポケットにあることを聴谷は

知っている。今は館内だし、黒のエプロンも着ていたので、指先はそれ以上に及ばない。深く考えるとき、彼女は必ずそういう仕草をする。

「……わたしも訊きたいんだけど」

 左耳に噛みついている山羊座が、薄桃色の照明を反射した。


「――ナノちゃんって、彼女いる?」


「? いないですけど」

「そ。なら良い。これでチャラ」

 縫解くように笑って、三川は腕を伸ばした。

 それで会話は終わった。

 彼女の休憩時間は終わったらしい。それ以上の挨拶もなく、行った。貸し出し窓口に向かったのだろう。


・・・♪・・・


 聴谷はひとりになる。

 日常の話はしない。

 魔法少女や怪人の話もしない。

 そこに明確な線が引かれているわけではなかった。この街の人間は、基本的に、魔法少女や怪人をニュースでしか知らない。旅行先で出会した、と話すクラスメイトがいたり、親族が騒動に巻き込まれた、と息巻く教師がいたりはする。聴谷にとっては、眉唾物だ。


「関係ないですよ」 

 幸いなことに、このトメリの街には、今まで怪人が現れたことがない。

「――なかったんだけどなあ……」

 ため息が出た。

 

 図書館をあとにして、帰路に着く。

 丘の上から見れば、夕暮れが小さな街を覆っていた。

 沈みかけた太陽は抗うように白く、道連れにせんとばかりに燃えていて、地平線には橙色の帯が横たわっている――記憶が正しければ、そのはずだった。

 今日のところは、まだその通りに見えている。

 まだ正常。

 けれども、どこか桃色に通ずる気配があった。聞こえたとしてもいいし、薫ったとしても良い。聴谷には判断がつかなかった。とにかくそうなるのだ、という確信めいた気分が、全身を支配していた。

 この見慣れた風景も、いつかは終わる。

 今年もそうだった、瞬間的な春みたいに。

 なんでこんな気分にならなきゃいけないんだ。

「悪夢みたいな色っすね」

 お気に入りなはずの風景についての感想がそうなった。

 あなたのせいですか、とスマホに目を落とす。

 無表情な女の子が写っている。

「……自撮り、下手ですよ」

 自分じゃやらないくせに、聴谷はそう漏らして、五分くらい階段の上に座っていた。

 

 せめて背後に押し寄せてくる夜の紺色だけは、信じていたかった。

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