第2話

 白雪姫は、キスで目を覚ました。

 聴谷ナノカは違う。

「そりゃそうだ」と彼女は頷いた。「起きてるし」

 図書館の宇宙コーナーの前に立っていた。

 聴谷の言葉を拾って、隣の女性が声をかけてくる。

「ナルコレプシーの話?」

 制汗剤に隠れて、仄かに煙草の匂いがした。まだ新しい。

 少しだけ反抗的な、ここのスタッフのひとり。司書見習いアルバイト――名札には「三川」と書かれている。


 分類番号、44x――不定期ながらも、そこが彼女らの定位置だった。

 書架を絵画みたいに眺めている。


 聴谷は首を振って否定して、

「照明、変わりました?」と尋ねる。

「相変わらずの白色スヴェートだけど」

 おそらく照明のことを示しているんだろうな、と聴谷は思う。文脈に任せて、自分勝手にカタカナ語を使うひとだった。すでに慣れている。

「気のせいですかね……」

 自分に言い聞かせるように聴谷は呟いた。

 視界が少し色づいて見えていた。

 薄い、桃色。

 連想するのは、桜道。最北端のこの街においては、終わりの季節。

「なにが?」

 三川はニュートラルに尋ねてくる。

 聴谷は、どう答えるべきか迷った。

 お互いの事情は、持ち込まない――それがこの二人の不文律だった。

 クラスがどうとか、家族がどうとかの話はしない。

 目の前の書架には、そんな些事を吹き飛ばすようなほどの威力がある、と彼女たちは信じていた。日常生活にどれだけ大変な出来事があっても、ここににだけは持ち込まない。

 答えたくなかったら、答えなくてもいい。

 聴谷にとって、唯一、他人と近くにいても安らぐ空間だった。

 それを破ることが躊躇われた。


「ちょっと見てほしい写真があるんですよ」

 三川にお願いをするのは、これが初めてだった。

 

「ボーイフレンド?」三川の言葉が2℃下がる。「そういう話はナシな約束だけど」

「違います。ただひとつだけ聞いてみたいんです」

 三川は聴谷の言葉を検討するフリを見せた。

「ひとつだけなら」先端の固そうな人差し指。

「そのつもりです」

 聴谷はスマホを操作して、先ほどの写真を表示する。

「で、どこ見たらいいの」

 黒縁眼鏡の上フレーム越しに、瞳が問いかけてきた。

「どれって――この女の子ですよ」

「タイプじゃないけど」

「そうじゃないです」と聴谷は言った。「この子の髪、何色に見えます?」

 聴谷には、相変わらず薄桃色に見えていた。

「……茶髪だけど」

「えっ」

 その声の成分は、驚きとショックが半々だった。

 どう見たってピンク色でしょ。

「あと、チャラい」

「金髪ベリショのあなたが言いますか」

 かきあげれば、刈り上げているところも見える。ピアスも開いている。

「目も死んでる」

「活き活きしすぎなんですよ、ルリさんが」

 むしろ、ひとを殺しかねないまでの鋭さがあった。

 目つきの悪さで言えば、聴谷はやや劣る。

「ほんとうに――」誰に尋ねてるのか、自分でも曖昧になった。語気も弱い。「――ほんとうに、茶髪に見えますか?」

 指の数が、二本に増えた。しかし、文句は上がらなかった。

 三川ルリは、融通の効かないタイプではない。

「少なくとも、ピンクじゃない」

 中立的な視線が聴谷を見る。

「わたしなら、眼科に行くけど」

 魔法少女に渡された名刺カードが頭に浮かんだ。

「考えてみます」

「うん」

 三川は、左胸に手を置いた。煙草のパッケージが、シャツの左ポケットにあることを聴谷は

知っている。今は館内だし、黒のエプロンも着ていたので、指先はそれ以上に及ばない。深く考えるとき、彼女は必ずそういう仕草をする。

「……わたしも訊きたいんだけど」

 左耳に噛みついている山羊座が、薄桃色の照明を反射した。

「――ナノちゃんって、彼女いる?」

「? いないですけど」

「そ。なら良い。これでチャラ」

 縫解くように笑って、三川は腕を伸ばした。

 彼女の休憩時間は終わったらしい。それ以上の挨拶もなく、行った。貸し出し窓口に向かったのだろう。

 聴谷はひとりになる。

 日常の話はしない。

 魔法少女や怪人の話もしない。

 そこに明確な線が引かれているわけではなかった。この街の人間は、基本的に、魔法少女や怪人をニュースでしか知らない。旅行先で出会した、と話すクラスメイトがいたり、親族が騒動に巻き込まれた、と息巻く教師がいたりはする。聴谷にとっては、眉唾物だ。

「関係ないですよ」 

 幸いなことに、このトメリの街には、今まで怪人が現れたことがない。

「――なかったんだけどなあ……」

 ため息が出た。

 宇宙への窓に、お伺いを立ててみたくなった。

 確かに、昨晩現れれば、と願いはした。

 それがたとえば、今夜だったとして、どれだけの違いがあるんだろう。宇宙からこの惑星ほしを見れば、それこそ些細な違いになるんでしょうか。

 書架は何も言わなかった。

「ですよね」

 他のコーナーを見ても、何も借りる気にならなかった。聴谷にしては珍しいことだった。星についての話は、別に44xの専売特許というわけではない。神話とか民話とか、文学の中にだって、そういう要素は見つけることができる。

 正しくは”できてきた”。過去形だ。

 今日はそれ以上振るわなかった。

 星の流れない夜もある。

 

 図書館をあとにして、帰路に着く。

 丘の上から見れば、夕暮れが小さな街を覆っていた。

 沈みかけた太陽は抗うように白く、道連れにせんとばかりに燃えていて、地平線には橙色の帯が横たわっている――記憶が正しければ、そのはずだった。

 今日のところは、まだその通りに見えている。

 まだ正常。

 けれども、どこか桃色に通ずる気配があった。聞こえたとしてもいいし、薫ったとしても良い。聴谷には判断がつかなかった。とにかくそうなるのだ、という確信めいた気分が、全身を支配していた。

 この見慣れた風景も、いつかは終わる。

 今年もそうだった瞬間的な春みたいに。

 なんでこんな気分にならなきゃいけないんだ。

「悪夢みたいな色っすね」

 お気に入りなはずの風景についての感想がそうなった。

 あなたのせいですか、とスマホに目を落とす。

 無表情な女の子が写っている。

「……自撮り、下手ですよ」

 自分じゃやらないくせに、聴谷はそう漏らして、五分くらい階段の上に座っていた。

 

 せめて背後に押し寄せてくる夜の紺色だけは、信じていたかった。

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