第6話 あともう一押しで襲えてただろ
翌日。
俺はまたもや授業開始一時間半前に登校した。
二日連続なので、昨日よりは少し楽な気もする。
――いや、やっぱり眠い。
「――おはよう、宮瀬」
「……おはよ。何しに来たの」
さすがに気まずそうだったが、宮瀬は律儀に挨拶を返してくれた。
あんなことがあったのに登校時刻はいつも通りなんだな。
……いつも通りにすることで、大したことじゃなかったと思いたいだけかもしれないが。
「いや、昨日宮瀬の本をパクったから返そうと思って」
「――は、パクった?」
宮瀬は、予想外だというように目を見開く。
「ああ、あの部屋にあったのをな。元々あそこに行った目的は、宮瀬の本置き場を見ることだっただろ?」
「そうだけど……」
「ん、『夕空と五角形』。たまには青春小説もアリだな」
俺はオレンジ色の表紙がついた文庫本を取り出した。
主人公はサッカー部に所属する高校生。
そんな彼が、小柄なのにゴールキーパーを目指す親友と一緒に上を目指す話だ。
途中で好きになったマネージャーの女の子に惑わされる様子も、見ていて心温まった。
「それ読んだんだ。羨ましくなるような青春だったでしょ」
「ああ、俺たちとは大違いだな」
「……私たちの現実と比べるのは禁じ手だよ」
異性と関係を持つのに困らないのは、逆に言えば高校生特有の恋の甘酸っぱさのようなものとは無縁ということなのだ。
相手のことが好きなのか好きじゃないのか分からなくて悩んだりとか、試合で勝つまでは告白しないと決めたりとか、そういうものに憧れる気持ちには少し共感できる。
「――ま、主人公の行動については言いたいことがたくさんあるけどな。夜の自主練でヒロインが差し入れを持ってきてくれたシーンあっただろ? あれ、絶対あともう一押しで襲えてたよ」
「ちょっと、話を穢さないでよ! 上城には分からないかもしれないけどさ、人間には性欲以外の繊細な感情もあるんだからね?」
「もちろん知ってるよ。これでも現代文の成績なら表彰台に上れるからな。ま、一位は宮瀬なんだろうが」
宮瀬はこのなりで男癖の悪さも絶望的なくせに、学力は間違いなくトップクラスなのだ。
どれほどの化け物なのかというと、入学以来全ての定期テストで一位をマークしている。
そして今まで同級生に聞いてきた色々な話から察するに、その成績の優秀さが彼女のモテ具合に拍車をかけているようだ。
一部の男子生徒は、「真面目なほど乱し甲斐がある」などという若干アウトなことも言っていたりする。
「――当たり前でしょ。でも上城がそんなに現代文出来るのは意外」
「そうか? 複雑な乙女心を読み取る能力で、俺を超える人間はそういないと思うが」
「……ああ、もうほんと最悪。否定出来ないし」
「照れるなぁ」
「褒めてない」
宮瀬は呆れた顔をしながらも小説を受け取り、その表紙をじっと眺めた。
そんな彼女の様子に、俺は黙って頬杖をつく。
……こういう本を読んでいたり、桃花ちゃんの件に協力的だったりする宮瀬は、きっと自分の生き方に思うところがあるのだろう。
「……俺たちは、俺たちなりのやり方を探していくしかないんだろうな」
「ん、何か言った?」
「――いや、なんでもない。……それより、黒板が昨日使ったままになってるな。暇だし消しておくか」
「ほんとだね」
切り替えるように教室の教壇側に目を向けると、黒板がまだ数式で埋め尽くされていた。
昨日消して帰るのを忘れてしまったのだろう。
俺は、少しだけセンチメンタルになった気分を振り払うように席を立った。
手伝ってくれるのか、宮瀬も黒板の方に向かう。
チョークの粉で白くなってしまった黒板消しをクリーナーで綺麗な青色に戻し、黒板に当てる。
「知ってるか? 黒板消しを黒板に対して二十度くらい傾けて、端の方に圧力を集中させると綺麗に消えやすいんだ」
「ふふっ、めちゃくちゃ研究してるじゃん」
「作業の効率化を図るのは大事だからな」
宮瀬は長い黒板消しを両手で持って、体重をかけながら滑らせていった。
背が高い方ではない彼女の届かないところは俺がカバーする。
「――完璧なんじゃない?」
「汚れひとつないな。――っ!?」
教室の外を歩く二人分の足音が聞こえ、俺は一瞬だけ振り向いて誰なのかを確認した。
二人の顔が見えると、俺は反射的に宮瀬の腕を掴み、教卓の中に隠れてしまう。
……まあ、それが重大なミスであったことに気づくのに時間はかからなかったが。
「んなっ?!」
驚いて声を上げる宮瀬の口を手のひらで塞ぎ、落ち着いてから離す。
耳を澄ますと、教室に入ってきた二人の声が聞こえた。
「こんなに朝早いと、さすがにまだ誰もいないみたいだね」
「いや? 荷物は置かれてるぞ。誰の席だっけな」
「ほんとだ。えっと……結羽ちゃんと
やってきたのは、健介と桃花ちゃんだ。
二人が見えて、思わず「邪魔してはいけない」という心理が働いてしまったが、俺と宮瀬が教卓の中に押し込められるという代償を払うほどのことではなかった。
明らかなミスである。
桃花ちゃんが渡辺の名前を出したのは、俺が宮瀬の隣、つまり渡辺の席に荷物を置いて話していたからだろう。
「(――何考えてんの?!)」
宮瀬が俺にしか聞こえないような小声で追及してくる。
そんな中、俺は今までで最も至近距離にいる宮瀬に向き直り、その髪に目を向けていた。
近くで見ても全く癖の無い髪は頭が動かされる度に教卓の中に入る僅かな光を反射して煌めいている。
それがさらさらと揺れている様子は幻想的ですらある。
「(……髪が綺麗?)」
「(っ?! 違う、そういう意味じゃなくて!)」
現実逃避モード全開で適当なことを言う俺に、宮瀬は音量を0に近い状態に保ったまま声を荒らげるという器用なことをした。
……その頬がほんのりと赤らんだように見えたのは気のせいだろう。
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